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幻聴迷路  作者: 美祢林太郎
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5 女子高生

5 女子高生

 鮎川がいつもと同じようにソファに寝転んで、見るともなくテレビをみていると、「このチョコパフェ美味しいよね」というかわいい声が飛び込んできた。ボーとしていた頭をテレビに向けると、昔ヒットしたテレビ時代劇の「必殺仕掛人」をしていた。緒形拳と林与一の色っぽくも情念の籠ったシリーズだ。彼は必殺シリーズでは仕掛人のシリーズが一番好きだった。それでも、うつらうつらして見ていなかったようだ。

 今の彼にとっては、テレビ番組なんかどうでもいいことだ。「チョコパフェ」の声の主が問題なんだ。バラエティやタイムトラベルの入ったSF調の時代劇でなければ決してチョコレートパフェは登場しないはずだ。藤田まことや東山紀之が主役を張る「必殺仕事人」ならば可能性もあるだろうが、「必殺仕掛人」に限ってチョコパフェが登場することはありえない。

妻が隣の部屋で友人とチョコレートパフェを食べているのかと思い、立ち上がって隣の部屋を覗いたが、妻はそこにはいなかった。おそらくこの時間だと買い物に行っているのだろう。

 空耳だと思って、再びソファに寝転んで「必殺仕掛人」の続きを見ていたが、そのうちうつらうつらしてくると、「抹茶パフェも美味しいよ。食べてみる?」「うん、一口頂戴ね」という声がはっきりと聞こえた。ハッとして、テレビ画面を見たが、緒形拳演じる藤枝梅安が軽快な音楽に乗って悪役の背後から仕掛針で首を刺して殺しているクライマックスシーンだった。やはり声はテレビからではない。再び周囲を見回したが、もちろん誰もいなかった。窓から外を覗いたが、近くに喫茶店があるわけではなかった。これは空耳ではなく幻聴なのだと確信した。

 ぼんやりしていると、「抹茶パフェも美味しい」という声が聴こえてきた。これは若い女の声だ。声から察するに、二人ともかなり若い女の子であることに間違いはない。彼女たちが会話している場所は喫茶店なのだろう。「わー、その消しゴム、チョーかわいい」。消しゴム? これはきっと女子高生だ。こんなに甲高い声を聞いたのはいつ以来だろう。しかも耳元で聞いたことなど、生まれてこのかたなかったのではないか。鮎川は彼女たちが座っているだろう4人掛けのテーブルの空いた席に座って、彼女たちの話を間近で聞いている、そんな臨場感を覚えた。だが、その場所に彼がいないのは明白である。彼女たちが自分にまったく注意を払っていないからである。彼の耳は彼女たちの話に集中していた。甘美な声が、耳の中を支配し、鮎川は陶酔状態に陥っていった。

 「あなた、どうしたの。そんなににやついて。なにかいやらしい顔になっているわよ」。はっとして目を開くと、眼前に買い物から帰って来た妻の顔があった。隙だらけだった彼は、ソファからさっと上半身を起こした。「少し寝ていたようだ」と反射的に言い訳をした。妻は「よっぽどいい夢を見ていたのね」とにんまり笑って、買ってきた食料を持って冷蔵庫の方に向かった。

 鮎川はふっと閃いた。もしかしたら聞こえている幻聴は自分の勝手な創作ではなく、遠く離れたところに実在する人たちが話している声を自分は聴くことができているのではないか、と思ったのだ。彼は「ちょっと出かけてくる」と言って、妻は「珍しいこと」と返した。

 歩いて行ける範囲に喫茶店は一軒しかない。この古びた喫茶店に女子高生が入るとは思えないし、チョコレートパフェがあるとも思えなかったが、近所にはこの喫茶店しかない。この店は鮎川が今の家に引っ越して来た時にはすでにあったので、もう四半世紀は改装もせずにこの場所にあった。今までにこの喫茶店に入ったのは数えるほどしかない。最後に入ったのはおそらく5年くらい前ではないだろうか。店の入口に「純喫茶 幻」という古い看板がかかっていた。この時、「純喫茶」という名称がいまだに残っていることに懐かしさを覚え、同時に、店の名前が「幻」であることを初めて知った。「幻」は「げん」と読むのだろうか、それとも「まぼろし」と読むのだろうか。だが、今の彼にはそんなことはどうでもいいように思えた。

 「幻」の入口のドアを開くとカランカランと心地良いベルの音が鳴り、マスターの「いらっしゃいませ」という声が聞こえた。二人の女子高生はもちろん、客は誰もいなかった。鮎川は女子高生がいないことを確認するとすぐに喫茶店を出たかったが、マスターの微笑んだ顔を見るとそうもいかず、角の席に座った。自分より年配のマスターが水とメニューを持ってきて、手慣れたように彼の正面に置いた。メニューにはブレンドコーヒーやキリマンジャロ、モカ、ブルーマウンテンなどのコーヒーの種類がたくさん書かれていたが、ページを捲ってもどこにもチョコレートパフェや抹茶パフェの文字は見えなかった。ここがコーヒー専門店であることが改めてわかった。彼はブレンドコーヒーを注文した。

 女子高生が話していたのは、この店でないことは一目瞭然だ。それかと言って、このあたりにはここ以外に喫茶店はない。喫茶店は駅前までいけば十軒以上はある。その中から自分が声を聴いた女子高生たちを見つけるのは至難の業だ。店を覗いただけで、女子高生がいないとわかったらすぐに出てくるわけにはいかない。さすがに何か注文しなければいけないだろう。いちいちコーヒーを飲んでいたら胃がやられるし夜寝られなくなってしまう。だいたい、女の子たちはその店にずっといるわけじゃないだろう。それに、彼女たちがいるのは駅前の喫茶店じゃなく、他の街の喫茶店の可能性もある。他の街だったら会える可能性はないので、とりあえず可能性のある近場のことを考えよう。駅前だとして、そこまでバスで行くとして、これからだと早くても30分はかかるだろうな。女子高生がそれまでおれを待っていてくれる保証はないものな。いや、待つという言葉を使うこと自体が不適切なんだけど。

 鮎川が勝手なことを色々と考えていると、「遅れてごめん」と言う女の子の声が聴こえてきた。喫茶店の入口を見ても誰も入ってくる者はいない。それに入口のベルの音は鳴っていない。鮎川が突然振り向いたので、それまで下を向いていたマスターは頭を上げ、彼の方を見た。

 「ごめん、ごめん。買い物が長引いちゃった」と言う声が聴こえると、待っていただろう女の子の二人のうちの一人が「うん、大丈夫」と返し、もう一人も「大丈夫」と明るく言った。二人はチョコレートパフェと抹茶パフェを食べていた女の子のたちの声に違いはないようだった。鮎川は家で聴いた幻聴の場面が今でも続いていることに驚いた。

 「何を買ってきたの」「ブラジャー」。鮎川はその言葉にのけ反りそうになったが、すぐに次の言葉を待った。「わー、かわいい」「かわいいよね」「このイチゴ、超かわいい」「でしょ」。

鮎川はイチゴのブラジャーを想像しようとしたが、気がせいたためなのか、イメージが浮かんでこなかった。一個の巨大な苺が頭の中に浮かんできたが、それとブラジャーの模様とは重なってこなかった。話をもっと聴こうとして自然と体が前のめりになり、水の入ったコップの水が肘に当たってコップをひっくり返し、水がテーブルから床に零れた。マスターが布巾を持ってすぐにやってきて拭いてくれ、新しい水の入ったコップを持ってきた。彼はこの時を好機ととらえて、マスターを背にする対面の席に移動した。彼は女子高生の声が聞こえるようになって、にやついた顔になっているかもしれないと思い、それをマスターに悟られたくなかったのだ。

 座っている席の正面と左側が壁で、気が付くと店内には音楽が流れていない。これは空想、いや幻聴を聴く絶好の場所ではないかと思った。早く続きを聴きたいとはやる気持ちを抑えきれずにいたが、何も聴こえてこなくなってしまった。鮎川は気がせいた。急けば急くほど聴こえてくるのは、マスターの動きが発する小さな音だけだった。その音が一旦気になればその音に神経が集中してしまい、女子高生の声が聴こえないことに少し苛立ってきた。水を一息で飲んで気持ちを落ち着かせた。マスターはすぐに水を注ぎに来た。

 「ねえ、ブラジャー付けてみてよ」「そうね」「じゃあ、行ってみますか」。

 再び女の子の声が聞こえてきて、それもブラジャーを付けにどこかに3人で移動するようだ。それはトイレだと推測した。鮎川はトイレの中で女の子の若々しい乳房を見てしまうのではないかと焦った。そんな覗きのような行為をしたら自分は変態になってしまう、そんなことはしてはいけないと、一人で慌てていた。実際は、声は聴こえても映像は見えないのだから、彼が内心で期待していたかもしれない瑞々しい乳房を目で見ることはできないのだが。

 「お客さん、どうかされましたか」とマスターが訊いてきた。マスターは鮎川のふるまいを不審がるようになっていた。自分に背を向けて、エロ雑誌を読んだり、スマホでエロビデオを見ているのではないかと怪しむようになっていたのだ。しかし、彼の手にはそんなものはなかった。鮎川は鞄も持たず手ぶらで来ていたし、ポケットの中に雑誌を隠した気配もなかった。

 鮎川は振り向いて「大丈夫です」と応えた。もしかすると、自分の呼吸は早くなっていたのかもしれない。これではまるで変態だ。のぞき見を楽しんでいる変態に間違われても仕方がないと思った。しかし、エロ雑誌を読むように自分の意思によって女子高生の話を聴いているわけではないし、ましてや盗み聞きや盗聴をしているわけでもなく、自分の意思とは関係なく自然と耳に入ってくるだけだ。これは決して犯罪ではないはずだ。だが、心のどこかに後ろめたい気持ちもあり、わずかな罪悪感に苛まれた。

 入口が開いてカランカランとベルが鳴って、マスターが「いらっしゃいませ」と言った。中年の男が一人で入ってきた。鮎川は新しい客が座るのを待って立ち上がり、勘定をすませて「純喫茶 幻」を出た。マスターは明るく「またいらっしゃってください」と言った。

鮎川は帰宅するまで、女子高生のことを考えていた。ブラジャーの試着の光景が頭に浮かび、その度にその光景を打ち消して歩いた。

 彼女たちはブラジャーの試着にトイレに入ると言っていたな。トイレって言ってなかったっけ。正確にはこれは自分の推測だな。だけど、試着する場所はトイレ以外にないでしょう。それじゃ、彼女たちがいるのはやっぱりさっきの喫茶店のようなところじゃないだろう。3人で入るには純喫茶のトイレじゃあ狭すぎるし、そもそも3人で入ったら店の人に怪しまれるだろう。すると、ファミレスのようなところか? そこなら3人でトイレに入っても誰も不審がらないし、十分に入れるスペースはあるだろう。それにチョコレートパフェや抹茶パフェだってあるぞ。ファミレスならパフェは安いし、女子高生が大きな声で話して長居してもおかしくない。そうか、ファミレスだ。ファミレスはどこにあったかな。車でないと行けないようなところだと女子高生は行けないし。ああ、あの交差点に一軒あったな。あそこなら女子高生も行動範囲だ。これで店は絞れてきたな。もうすぐ夕食だから、明日にでも行ってみるか。でも、何かストーカーみたいじゃないか。いや、別に声をかけるわけじゃないんだから、いいんじゃないか。会って声を聴けば、それが今日の彼女たちかどうかわかるはずだ。推理ゲームみたいなもんだな。

 帰宅すると、すぐに夕食だった。妻は「楽しそうだけど、どこに行っていたの?」と訊くので「そこの喫茶店」と応えると、「珍しいわね。何か用事があったの?」「別に」と応えてそれで会話は終わった。妻からの細かい詮索はなかった。

 鮎川は翌日午後2時頃から6時頃までファミレスにいた。コーヒーで粘り、それからチョコレートパフェを頼んだ。甘過ぎたので途中で食べるのを止め、コーヒーのお代わりをした。だが、待っていてもそれらしい女子高生は現れなかった。たまに女子高生がいると、水を汲みに行ったり、トイレに行く際に彼女たちのそばを通って聴き耳を立てたが、いずれも昨日の声とは違っていた。席に戻って何も考えないようにしたが、幻聴は聴こえてこなかった。

 その翌日も、その翌々日も、ついに5日続けて同じファミレスに通ったが、それらしい女子高生が現れることはし、彼女たちの幻聴を聴くこともなかった。鮎川はこの5日間で随分疲れたように感じた。

 「ジーーー」という耳鳴りが聴こえた。

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