表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻聴迷路  作者: 美祢林太郎
4/16

3 空耳

3 空耳

 「おーい、何か言った?」、と居間のソファに寝そべったままの鮎川は、どこにいるともわからない妻を、テレビの方に顔を向けたままで大きな声を出して呼んだ。耳が遠くなって、彼の声は大きくなっていると妻が言っていたのを思い出した。

 妻からは何の返事もなかったので、かれは更に大きな声で彼女を呼んだ。妻は風呂場の方から居間に現れて、「何か言った?」と聞き返してきた。あまりに大きな声なので、彼は寝そべったまま振り返って、「そっちが何か言ったんじゃないの?」と問い返すと、「洗濯をしていて忙しいんだから、変なことで声をかけないでよ。耳が聞こえないくせに、ありもしないことが聞こえるんじゃないの」と小言を言って、洗濯に戻って行った。

 鮎川は再びテレビを観た。彼はチャンネルをいくつも切り替えたが、見たい番組はなかったので、適当なチャンネルにしておいた。寝る以外には、テレビをつけていないと、ソファに寝そべっている意味がないように思えるからだ。

 妻は何も言っていないと言っているが、鮎川にははっきりと自分を呼ぶ声が聞こえた。それが妻の声だという確証はなかったし、女の声か男の声かわからなかったが、家の中には自分以外には妻しかいないので、当然のように妻が自分を呼んでいるんだろうと思った。食事の時はすぐに返事をしないと小言を言うので、今回はその時よりもはっきりと聞こえたような気がしたので、すぐに彼は反応したというわけだ。しかし、彼女は何も言っていないという。もしかすると、彼女は私に何か用事があって声をかけたのだが、その用事を忘れてしまったので、私が返事をしても、しらばっくれたのではないだろうか、と思った。妻はボケてしまったのだろうか? いや、ちょっとした物忘れをボケたという言葉で片づけてしまってはいけないだろう。こんなことをおれにだってあるじゃないか。ボケという言葉ですべてを片づけていたら、世の中の老人はみんな人間としての尊厳を失ってしまうかもしれない、と彼は思った。いや、そんな大げさなことではないだろうが、軽い冗談でも自分が老人の部類に入ってからは、ボケをもう少し危険な言葉としてとらえた方がいいのかもしれない、と鮎川は少し真面目に考えるようになっていた。そもそも妻にボケた兆候はどこにも見られないではないか。言い出したことを忘れてしまうのは、自分にだってよくあることで、そんなに深刻になることではない。

 もしかすると、不審者が家に入り込んでいるのかも知れないと鮎川は考え、ソファから立ち上がって、他の部屋を見て回った。とは言っても、しょせん小さな家なのですぐに一通りの視察が終わった。彼はトイレやベッドの下まで覗いたが、誰もいる気配はなかった。そもそも昼日中から泥棒が入るような家ではなかったし、近所にも不審者を見たという話はここに住んでから一度もなかった。

 再びソファに寝転んでテレビを観ていると、テレビから流れてきた音声が自分を呼ぶ声に聞こえたのではないかと思えてきた。だが、いくら聴いても自分を呼んでいるような声には聞こえなかった。テレビの声と現実にいる人の声は、はっきりと区別できると思えた。

 すると、さっき聴こえたのは空耳なのかもしれないと思うようになってきた。そう言えば、鮎川は子供の頃にも空耳を聴いたことがあることを思い出した。はっきりと誰かが問いかける声が聴こえたので、母親に「いま何か言った?」と聞いても、「何も言っていないわよ。変な子ね」と言われたことを思い出した。母親は「空耳じゃないの」と言った。その時、空耳という言葉を初めて聞いた。その頃何度か空耳を聴いて、父は「妖怪がおまえに話しかけているんじゃないか?」と言って、鮎川は少し怖くなったが、それを隠して家族たちと一緒に笑った。鮎川の家族は妖怪を信じるような人たちではなかった。それから空耳はこの歳になるまで聞こえなくなっていた。

 子供の頃もそうだが、聴こえたという認識はしっかり持てても、それが「おーい」だったのか「ねえ、ねえ」だったのか、はたまた「これ食べる」だったのかを思い出すことはできない。どんな言葉が聞こえてきたのだろう。決して、長い話ではなかったようだ。だが、全然言葉を思い出すことができないでいたのだ。父親の言葉から、思い出すのが怖くなっていたのかもしれない。

 おそらく耳鳴りと空耳、それに難聴は一セットなのかもしれない。全部耳の疾患によってもたらされるもので、脳の異常ではないだろうと思った。もし脳の異常によるものだったら、子供の時に何度か空耳を聴いたのだから、これまで普通の生活をしてこられたかどうか怪しいものだ。曲がりなりにも今日まで日常生活を営めてきたので、脳に異常はないはずだ。

 空耳を聴いたからといって、別に騒ぐことではない。おそらく空耳を聞いたことのある人は多いはずだ。他人から異常だと思われてはいけないので、誰もその体験を話さないだけなのだろう、と鮎川は考えていた。

 でも、子供心に空耳が何て言っているのかを知りたいという願望も心のどこかにあった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ