7話 恐いの恐いの飛んで消えゆる夏の虫
きっと飛ぶことが出来なかったら帰りつけなかったであろう。クタクタのべろべろのグダグダになって、ちどり飛行の末にやっと帰り着く。抜け出したことを咎められるのではないかという気持ちだけは不思議と働いて、こそこそ様子を伺う。こんな真っ暗な田舎ではきっとバレないはずだ。スミさんにバラされなければだが。
広い庭の隅にある木陰に降りった俺は、スミさんとばったり会わないかそわそわしながら出た縁側から入り込む、足音を立てぬよう副翼音に気を付けながら少し浮いて、流しに行き、足や泥のついたところを洗い、手ぬぐいを拝借して拭いた。
汚れた浴衣はどうしよう、最悪パンツ一丁で寝るかと考えながら、寝室としてあてがわれた座敷戻ると布団が3枚引かれているのに両親の姿がない。端の布団の枕元に新しい浴衣が出してある。スミさんだろう。
本当に申し訳ないと思いながら着替えて、両親を探しに少し廊下行くと、夕食を取ったおてつけさんの囲炉裏のある座敷の方から聞き覚えのある声がするので、スミさんの声がしないかだけ確認し、こっそり覗く。
目が慣れていたのか、先ほどに比べてこの部屋も薄暗いとは感じるものの、入った時から両親とおてつけさんの姿まで見通せる。
ミシッ
ケツが疲れてきて慎重に床に体重を掛けたつもりが、床が鳴らしてしまった。3人一斉にこっちに視線を寄越す。
「おお祐志郎か、お前どこかに行くならひとこと言ってからにしなさい」
親父は赤ら顔を顰めて叱ったような声で言った。親父とお袋は浴衣に着替えていたので、風呂を浴びてから飲み直していたところなのだろう。おてつけさんは格好に変わりはないが、肘掛を寄せて、日本酒を煽っている。
「も、もうひわけないっす」
まだ呂律が回らない。
「おまえ、ずいぶん酔ってるな?」
「酔っへないれす」
「なんかお祭りか何かやってたんですってね?地元の方にご迷惑かけなかった?」
どういうことか分からないが、恐らく、スミさんが言い繕ってくれたのだろうと思い至ると同時に、先ほどの恥事、スミさんを思い浮かべて顔にまた血が上っていくのを感じる。
「ひえへへ、坊や顔が真っ赤だのう」
おてつけさんが冷やかす。
「スミさんが様子見に行ってくれたら随分盛り上がってたそうじゃない、この村の祭りは
長くなるから明日の朝になるかもとは言われてたけど、早かったのね」
今晩中に帰らないかもと思われたのだろうか、気まずい、スミさんもスミさんで何を考えているのだろうか。あーもう分からない。どうしよう、気まずい。スミさんはどこに。
「あーそーいえばスミさんは?」
「スミさんならもう休んだわよ」
良かった。あーそっかー、などと言いながら少なくとも今晩が顔を合わせる機会はないとしり安堵したところに、いきなりおてつけさんが口を挟んできた。
「契ってもうたな」
心臓を掴まれたようにギョっとする。全て察しのついたような顔で意地悪く笑いながら語りかけてくる。
「ん、契ってもうたな、えー坊や?」
全部知っている!?恐らくあの化け物どものことはきっと知っているのに違いない、それだけならまあいい。だが、スミさんの上で小便を漏らしてしまったことは知られていて欲しくない!やばい!知ってる?チクられた?あれ、もしかしてスミさん、ばあさんの差し金?式神か何か?
まったく察しもつけられない、いや絶対に知っている顔だあれは。何を発すべきか分からず言い淀んでしまって、目ん玉剥いておてつけさんを見ることしか出来ない。これが今出来る精一杯のメッセージだ。
(おとうさんとおかあさんには言わないで!言わないで!)
「さっき、スミが言ってたのは嘘でな」
(このクソババア!)
親父とお袋の顔と見合わせながらおてつけさんというクソババアはさも嬉しそうに語り始める。両親ともに面食らって、え、え、と小さく漏らしている。
「あー祭りというには本当なんだが、まあ、人ならざるモンの祭りでな」
おてつけさんはさも嬉しそうに語り始める。
「こん辺りはね、まぁこん国そのもんが元々、存在する力の弱いもん、形の弱いもん、いうと妖怪精霊の類が仰山おったんだが、電気通って周り中明るうなりおって、居場所を無くしおってな、こういう田舎の山の茂みにでも潜って大人しくしゅうしとったんだが、坊やの尻に出たようにな、世の中無いと思うてたもんが在るようになってきとる、それであれらも元気になりおって、毎晩お祭り騒ぎじゃ」
「んで坊やみたいな変わり種が来たもんだから、みんなからかいよったんな、害しようなんては思うておらんよ許せな、坊や」
今一つ状況が飲み込みきれていない両親は、何があったのかと言いたげな視線を向けてくる、別に大丈夫だったというニュアンスで数度頷いて見せた。おてつけさんはスミさんON THE 小便 の話とは関係なく話進める。ギリギリセーフだったのか……!?
なおもおてつけさんは語り続ける。
「お前さん方は竜な、そういうもんの最上位じゃ、同じように虫やら獣やら人でも、別の魂を持っているもんは仰山おる、おとうに話した通りじゃ、元々反りの合わんもん、種族の仲間意識が強いもんは今に諍いをおこしよる、大方のもんがヒトでなくなるじゃろ、けどな荒事を好まんのもおるからそういう秩序は作ってやらんといかん、お国は役に立たんかも知れん、そこでお前さん方じゃ、竜族いうのは古来温厚なもんが多くて、それでいて強い力を持っとる、坊やたちが担わんとするのはそういうお役目なんよ、偉い役目じゃ」
幸いにして思っていなかった方向に向けて饒舌になるおてつけさんの話についていっていると、ある疑問が生じた。親父から聞いた話も頭の片隅に残っているが、今までヒトだと思っていた人達の大半が同時に別の何かであることであるとするならば、今こうして目の前で話している「おてつけさん」という人物は「何」なんだろうか。
軽率であるに違いなかったが、その質問を堪えることは出来なかった。
「おてつけさんもヒトではないのですか…?」
父親はいきなり失礼だろ、と言いながら俺を小突いたが、その返答を待つように伏し目をおてつけさんに滑らせた。おそらく立ち入ったことはこれまで聞いたことがなかったのだろう。
「ホホ、ワシか、そうな、ワシはさっき坊やが戯れてきたもんの類かも知れんなあ、この手付の役目を負うと寿命も延びるのう」
きっとその時俺たち家族3人は同時に瞬きをしたのだと思う。すると、「おてつけさん」は煙のように消え去っていた。忽然とである。
身じろぎも出来なくって視線が世話しなく動き回る、部屋がシンと冷えていくのを感じる。
天井の隅の方からだったと思う。
「夜も更けてきたすけもう寝なせ」
返事も出来ない。取り乱して逃げすことも出来なかった。全身に鳥肌が立っていくのを感じながら脳内でただただ絶叫する。
(なんでこういう怖い怪談話みたいなことするかなあ!ほんとにさあ!っておば、おばおばお化けだあああああ!!!!!!!)
両親も身じろぎもせずに固まって冷や汗を流しており、その金縛りような状態が溶けるにはしばし時を要した。
(またちょっと漏れちゃったかも……)