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テンペスト  作者: 汪海妹
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4 地味な人たちの群れ












   4 地味な人たちの群れ












   












   文月律












   

 祖父のお葬式に参列した。


 朝から静かに雨が降っている日でした。たくさんの人が訪れてお焼香をしてゆく。それがとても印象的でした。僕はあの時、穏やかな人々というのを、穏やかな大人というのをあまり見たことがなかったのだと思います。黒い服に身を包み、地味な顔立ちの穏やかな人たちの群れが老いも時にはとても小さな子供、若きも黙々と列に並び、祖父に手を合わせてゆく。


 後から聞いたら、その小さな子供たちは祖父の産院で取り上げられたのだという。

 小さな子たちだけではなかった。大人たちの中にも何人も祖父の産院で取り上げられたのだと言う人がいて、そして祖父に手を合わせて感謝を込めて最後の挨拶をしてゆく。


 まだ子供だった僕の目に、そのただのお葬式の光景は、強烈な印象を与えました。


 それは人が生きたことの集大成だった。その日は生まれて初めて自分はどう生きたいかということを真剣に考えた日だった。もちろんどう生きたいかなんて問いに対する答えがその日に生まれるわけはなく、ただ一つだけはっきりしていたことがある。


 あの小学校にランドセルを背負って通っていた年齢の頃から、僕は父や母のようにはなりたくなかったんです。そうではない何かを目指したかった。


 本当に些細なことだった。僕が医者を目指したきっかけは。

 嫌いな父への最大の嫌味な行為でもあった。父が嫌でたまらなかったような、真面目でコツコツとした生き方を目指すというのは。


「律、あんた、本当に医者なんて大したもんになるの?」

「ほっとけ、ほっとけ。じきにあきらめる。医大なんてそんな簡単に受かるもんじゃないよ」

「そうねぇ。あたしから生まれた子がお医者さんなんて、無理無理」

「そしたらさ。それからでも役者でもモデルでもすればいい。律の容姿なら引っ張りだこだ」


 なぜか父は僕を役者にしたがった。役者にして自分の映画に出したいのだと。

 展開のスリリングな娯楽作品が主で、それなりに売れているらしい。でも、自分は父の映画が好きではなかったし、母の演技も好きではなかった。何かそれらはとても派手だった。派手で騒々しかった。自分はもっと静かで深いものに憧れた。

 

 親子ともども先生に取り上げてもらったんです。


 そう言って素朴な笑顔を向けられるような、そんな静かなものに憧れた。それは薄っぺらくないような気がした。自分は自分の顔が派手な顔立ちであることすら嫌だった。もっと地味な顔に生まれたかった。


 自分の中にも祖父や叔父やあの人たちに流れているのと同じ血がいくらかは流れているんだから、だから、自分はこの芸術家たちから逃れて違うものになれるはずだといつしか自分に言い聞かせるようになった。


 ホームパーティーと称するものを愛した僕の両親は家にひっきりなしに大勢の客を招き入れた。僕はそういう騒ぎが嫌いで、顔を出さずに自分の部屋に引きこもっているのだけれど、酔っ払った勢いでそんなところにすら足を踏み入れる奴らがいる。そして、それは大抵女だった。化粧をして学校の子達とは違う匂いのする女達。


 単純に子供とは言えず、かといって大人ではないような年齢になってくると、可愛いねとかかっこいいねという言葉、そこに少し熱を帯びてくる。声音とか、こちらを見てくる目つきとか。


「ね、律くんって何歳になったの?」

「それを聞いてどうするんですか?」

「やあねぇ、素直に答えなさいよ」


 クスクスと笑いながら、手を伸ばして僕に触れようとしてくる。


「触んないで」

「やだ。照れちゃって、可愛い」


 本当に心底うんざりとした。煩わしい女たち。


「ちょっと、律」

「なに?」


 とある時には母に言われた。


「あんた、何してもいいけど、相手だけはよく見なさいよ」

「どういう意味?」

「落ち目の女は相手にすんの、やめなさいよ。自分の運気も落ちる」

「……」

「相手にすんなら、売れてる女にしなさいよ」


 母はスラスラとそう言うと、真っ赤な爪でタバコを一本取り出して火をつけると吸って吐いた。

 とても僕ぐらいの年齢の子供がいる女には見えない。若々しいその様子が不気味だった。忌々しいとすら感じていた。思春期のあの頃。

 その時、僕はまだ中学生でした。普通なら母親に面と向かってこんなこと言われることはないはずだった。母親も母親に連なるような家に出入りするような派手な女たちも僕は嫌いでした。息が苦しかった。


 僕が求めたのはやっぱり、あの祖父の葬列に並んでいたような人たちだった。

 僕は、あっちの世界へ行きたかったんです。地味な顔をして地味な服を着て穏やかな顔で淡々と過ごしている人たち。あの群れに入りたかった。


***


「文月くん?」


 塾が終わった後、なんとなく家に帰りたくなくてファミレスの隅っこで1人勉強をしていた。すると、僕に声をかけた人がいた。顔を上げると、それは塾の先生でした。英語の先生。まだ若い女の講師だった。


「先生、こんなとこで何してんの?」

「それは、こっちのセリフ。君、何時だと思ってる?」


 12時近かった。


「中学生がウロウロする時間じゃないよ。送ったげる」

「いいよ。別に」

「危ないって」

「俺、別に女じゃないし」


 カバンに荷物をまとめて入れて立ち上がると、レジで会計を済ます。先生が追いついてきた。


「ちょっとわたし、車だし。送るって」

「しつこいな」

「こんなとこでほっといて帰ったら気になって仕方ない」


 わかってた。先生は、本当に普通の責任感の強いただの大人でした。そして、僕が憧れている穏やかな地味な人たちの側の人だったんです。結局僕は駐車場に停めてあった先生の車に乗せられていた。赤い軽自動車だった。


「シートベルト締めて」

「ね、先生」

「なぁに?」


 どうしてあんなことができたんだろう?誰に教わったわけでもない。女に誘われることはあっても、女を誘ったことは一回もなかったし、それに自分は女の誘いにのったことだって一回もなかった。


「いいって言ってんのに強引に車に連れ込んでさ。俺と遊びたいの?」


 夜中に静かな車の中で、見つめあった。先生の目の中に俺が映っていた。さっきまで男の子だったそれが、男になったのを自分は見た。


「文月くん、何言ってんの?」

「先生、俺、すっごい寂しいの。俺と遊んでよ」

「……」


 普通の人でした。親切で熱心で真面目な人だった。でも、じっと見つめてそっと近寄る間、先生は金縛りにあったみたいに動けなかった。俺は反対に冷静で、そして、こう思った。


 ああ、そっか。俺ってやっぱり綺麗なんだなと。

 俺に見つめられると女って、動けなくなるんだ。初めて実感したわ。


 髪の毛に触れて、顔を寄せて見様見真似でキスをした。

 初めて触れた母親以外の女はいい香りがした。いつも自分の身の回りにいる女たちみたいなキツすぎる香りではなくて、落ち着いた。

 実の母親といるのよりもっと落ち着いた。

 女って本当はこういうものなんだとどこかでぼんやりと思った。


「じゃ、帰る」


 困ってる女の人、1人で車に残したままバタンとドアを閉めて振り返らずに歩き出した。唇にはまだ柔らかい感触が残っていて、そしてあの陶酔感が残った。女の香りを嗅いだときの安心感。


 僕の初めての人は、父親や母親の周りに群れている年齢不詳の派手な女どもではなく、そして、同級生でもなかった。


 そうなってから離れるまでそんなに長くはなかった。


 一緒にいる間に本人に伝えることはできなかったけれど、本当いうと僕は後悔をしていました。先生を、普通の人を、厄介なことに巻き込んでしまったことや、ただ傷つけることしかできなかったことに。後悔をしていたけど、やっぱりあのとき、僕は寂しかったんだと思う。


 冗談で口にした言葉はでも、本当だった。


 誰かに、自分が嫌悪する父や母やそれに連なる人たちではなくて、もっと、頼れる誰かによっかかりたかった。そうでなければ、何かに巻き込まれてそうして、自分が向かいたい方向に向かえない。真っ暗な海でどちらに向かえばいいかもわからないまま溺れていた。

 何かに縋りつきたかった。でも、それはたまたまそこに先生がいたからで、そして、それが先生でなかったら他の誰かでもよかった。


 今になっても自分が人を愛するという感覚を知っているのかどうかわからない。

 だけど、あれが愛でもなんでもなかったのだけはわかる。自分は子供すぎた。

 ただ、縋りつきたかった。そして、そんな中途半端な行為が相手に何も与えないということに本当は気づいているべきだった。


 憧れる人たちに向かっていけると思ってた。でも、僕とその人たちの間には溝のようなものがあって、そして僕が手を伸ばすと決まって手を伸ばされた相手は、傷つくんだ。


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