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風が吹く度、耳障りな音を立てるガラス窓からの薄明の中に暁美は居た。そこからのすきま風は、時間をかけて暖めた空気を容赦なく奪ってしまう。
やかんを載せた電気コンロのスイッチを再びオンにすると、それまでの間、部屋着になった流行遅れのコートに身を包み、煎餅布団に潜り込む。
……来月分の家賃をどうしよう。
登録している派遣のスポットでやりくりしている暁美は、毎月の家賃と光熱費、携帯の請求額を概算して、ため息をついた。
もう、食べるものもなくなった。100均に買いに行かなくては。だが、夕間暮れの薄明から街灯の灯りに変わるのを待っていた。
と言うのも、一日中部屋に居る年金生活のおばさん、吹田と顔を合わせたくなかったのだ。日があるうちは、階段の上り下りや廊下の足音の度、ドアを開けては話しかけてくる。
だが、見たいテレビでもあるのか、17時になるとピタッと顔を出さなくなる。暁美はその時間を待っていたのだ。
暁美は大学を卒業したものの就活もせず、フリーター生活をしていた。毎月の仕送りも、大学からの友人、美智との飲み代に消え、到頭、家賃も払えないまでになっていた。収入が少ないのを見越してわざわざ安いアパートを借りたのに、これじゃ意味がない。
娘に甘いとは言え、サラリーマンの父に仕送りの上乗せを頼むのも酷だ。慌てて違うバイトを探した。
日払いの仕事で、その上、高収入なら言うことない。そんなことを思いながらページを捲っていた時だった。一件の募集が目に留まった。
【届け物係(原稿・書類等)
若干名
1日1件~数件
1件、5,000円~10,000円
交通費全額支給
日払い可
18~30歳位まで
椎名加奈子
新宿区――
電話03――】
高収入の上に日払い可の好条件だった。早速、電話をした。電話に出たのは、こもったような声の中年女だった。
「あ、求人を見た者ですが、まだ募集はしてますか?」
「応募の方ね?ええ、まだ募集してますよ。いつ頃、お時間あります?」
……すげぇ感じいい。
「あ、いつでも大丈夫です」
「今日は?」
「ええ、大丈夫です」
「そしたらね、今、場所を言うから、うちに着いたらそのまま入ってきて。玄関の鍵を開けておくから。原稿を書き始めると中断できないの。よろしい?」
……物を書く人ってそんなものなのか。
「はい、分かりました」
急いで部屋着のコートを脱ぎ捨てると、身支度をした。
最寄りの大江戸線を使うと、約束の時間より早く着いた。メモを見ながら大久保通りから路地に入ると、二階建ての一軒家に〈椎名〉の表札があった。
その古い木造家屋は昭和の匂いを残したまま、静かに佇んでいた。引き戸をゆっくりと開けると、
「先程お電話した篠崎ですが!」
指示どおりに声をかけた。
「どうぞ、入って!一番手前の襖の部屋よ!」
「はーい!失礼します」
パンプスを脱ぐと、グレーのコートを腕に掛け、白いシャツと濃紺のスカートを整えた。
廊下を行くと、内庭に咲く色とりどりの菊が見えた。襖の前に来ると、
「篠崎です」
声をかけた。
「どうぞ、入って」
「失礼します」
襖を開けたそこには、座椅子に座った加奈子の後ろ姿があった。表替えをしたばかりなのか、い草の匂いがした。加奈子の横顔は垂らした長い髪に隠れていた。
「ちょっと待っててね」
背を向けたままで言った。
「はい」
暁美は正座をすると、部屋を見回した。六畳ほどの部屋は書斎なのか、分厚い本が詰め込まれた書棚と、無造作に置かれた雑誌があった。
机には、加奈子の手元を照らすスタンドライトと、数冊の辞書を置いたブックエンドがあった。加奈子の横には、ハロゲンヒーターと、反対側には何を仕切っているのか、花鳥画の屏風があった。暫くそれを鑑賞していると、一段落ついたのか、ペンを置いた加奈子が回転座椅子を回してこっちを向いた。
「あっ」
顔を見た途端、思わず小さな声が出た。サングラスとマスクをしていたのだ。
……こもった声はマスクのせいだったのか。
「ごめんなさいね、お待たせして」
「あ、いいえ」
「すごい格好でしょ?風邪を引いちゃって。その上、緑内障のサングラスもしないといけないし。もう、踏んだり蹴ったり。早速なんだけど、この4通を届けてくれる?」
加奈子はそう言って、膝に掛けたストールを捲った。そこに現れたのは畳の上に置かれた薄っぺらなA4サイズの茶封筒だった。それを指の爪で暁美のほうに押した。その上には、白い封筒が載っていた。
「これを、それぞれの住所に直接届けてほしいの。それと、封筒には給与と交通費が入っているわ」
「え?先にいただいていいんですか?」
「ええ、いいのよ。電話の感じで、この人なら間違いないと思って採用したの。あなたを信じてるわ」
この時、どんな目をしてそう言ったのかサングラスで分からなかったが、とにかく、ラッキーだと思ったのが正直な気持ちだった。
「それを届けたら帰っていいわよ。悪いけど、早速お願いできる?」
「あ、はい。行ってきます」
急いでいるようだったので、それを手にすると慌ただしく部屋を出た。