9話 夕暮れ時のアルトゥルーイズム
「……起きて。起きないとイタズラする、かも」
ん? なんだ? 誰かがオレに話しかけてる?
「む……揺すっても起きない」
この声は……女子のものか。
「……他には誰もいない、か。こんな場所だし、当たり前だった」
こんな場所? オレはどこで、何をしてたんだっけか?
「はあ……あたしのお気に入りの場所だったのにな。でもいいか。ボッチでここに来続けるの、やっぱりさびしかったし。彼は……あたしと同じなのかな?」
ぼっち? どういうことだ?
てか同じってことは、オレもぼっち扱いですか?
「ねえ? あなたはどうしてここで寝てるの?」
寝てる? そうか。今のオレは寝てるのか。
そんな言葉と共に、自分の前髪を触れられる感触でくすぐったさを覚えてしまう。
でもそれが、どうしてか心地よくも思えてきてオレは――。
「……ん」
オレはゆっくりと目を開けた。そこから首を上げ、身体を起こす。
見回すと、そこは誰もいない教室だった。
日の光が差し込んでいて、教室に備え付けられた時計の針は、五時半過ぎを示してる。
「ふわあああぁぁ!! ……ん? まさか寝ちまってたのか?」
なるほど。この時間まで眠りこけていたらしい。
記憶があるのは、昼食を食べたあとの五限目の途中まで。数学の授業だったのは憶えてるが、内容に関してはまるで記憶にない。
オレはポケットからスマホを取り出す。
ボタンを押してロック画面を見ると、白斗からラインが来ていた。
『まだ寝ているのか? 起こしても起きないから、先に帰らせてもらったぞ。お姉さんに迷惑かかる時間まで寝ていないようにな』
ということらしい。
それを確認してスマホを机の上に置いた。
どうやら他の奴らも見当たらないし、みんな帰ってしまったようだ。
「薄情な奴らめ。……まあ、起こしても起きないのなら、オレも放置して帰るだろうしなあ」
頭をかき背伸びをすると、背中や腰の辺りがバキバキと鳴った。
脱力感を感じつつも、オレは机にかけた鞄とスマホを持って立ち上がる。
「眼鏡かけたまま寝ちまうとは……不覚。顔痛いし、きっとフレームの跡とか付いてるんだろうなぁ……。はあ、とりあえず帰るか」
白斗に起きたことを返信しつつ、オレは教室をあとにする。
そういえば夢を見ていた気が……。なんて考えが浮かんだが、結局、何も思い出せずに校舎を出ることになった。
眠さが残る目を擦りながら歩く。西側に見える太陽の温もりを感じつつ、誰もいない校門をくぐり抜けたところで。
「お? やっとか。おはおはー」
「ん? って鞍馬!?」
壁にもたれながら座る鞍馬を見つけた。
その手にはスマホが握られていて、画面を確認する限り、今この瞬間までラインを使っていたようだ。
「な、なんでお前がここにいるんだよっ?」
「んー? 待ってたからに決まってじゃん」
決まってるのか? とオレは疑問を浮かべ、スマホから鞍馬の身体の方に視線を移動させる。
まず目に入ったのは、スカートとソックスの間から見える生足だった。
短めなスカートに加え、つま先座りでしゃがんでいるため、正面からだとスカートの中身が見えてしまいそうだ。
「なーにユーヤ? あーしの足が気になるー?」
「ばっ! べ、別に気になんねえよ!」
「そーお? でもさっきから、あっつーい視線を感じるんだけどー?」
「うっ……!」
鞍馬のニヤつく顔に耐えきれず、オレは急いで視線をそらした。
そういえば、女性は男の視線に敏感だとか聞いたことがある。どうやら鞍馬も、オレの視線の先がどこに向いていたのか、すぐに気付いていたらしい。
くっそ、どうしてもこいつのペースに巻き込まれちまうな。こいつの言動にいちいち反応してたらキリがないぞオレ。
「あははっ! わっかりやすっ! マジウケる!」
「うっせーな! そんな短いスカート履いてるから目がいくんだよ!」
オレは視線をそらしたまま、スカートの辺りを指差して指摘する。
あんな長さでそんな座り方とか、むしろ見てくれとでも言ってるようなもんだ。
「ファッションじゃん♪ 今時なら、みーんな裾なんて上げてるし。そ・れ・に」
「それに?」
「あーし、ユーヤにだったらスカートの中を見られてもいいよ?」
「なっ!?」
顔を赤らめながら、オレの顔を覗き込むように首傾げる鞍馬。
そんな仕草で言ってくるもんだから、オレの身体は一気に熱くなってしまった。
「ぷっ! あっははっ!! ウソに決まってんじゃんか! あーし、こう見えても貞操概念高いし! いくらユーヤが相手でも、簡単にエロいこと許可するわけないっしょ!」
「お、お前なあ!」
鞍馬がオレを指差し、腹を抱えるようにして爆笑している。
まただよ。いい加減学習しろってばよオレ。
「あはっ、けどさ……」
鞍馬がスマホをポケットにしまい、屈伸して立ち上がる。
「恋人にだったら下着だけじゃなく、あーしの全部を包み隠さずに見せたげるよ。これは……ウソや冗談なんかじゃないから」
鞍馬は最後の一言で、声のトーンに加え、顔付きまで真面目なものになった。
「それは、オレを誘ってんのか……?」
こいつは全力でオレを陥落させ、恋人になるとまで宣言してきたほどだ。
つまりさっきのは、この場で恋人になってくれるのなら、オレが鞍馬の身体を自由にしてもいいと受け取れる発言とも解釈出来る。
「どーかなー? 少なくとも、ユーヤをその気にさせたいのはマジだよ。じゃなきゃ、こんなとこでわざわざ待ってなんかいないし。でも、今日誘惑すんのはここまで♪」
そう言って鞍馬はオレに手を差し伸べる。
「とりあえず、日が落ちる前に帰ろっかユーヤ」
オレは差し出された手を無言で見つめ続ける。正確には、震えているその奥の部位を。
「……ダメ? ま、昨日の今日じゃ一緒になんて無理かー」
鞍馬は少しだけ悲しそうな顔をして踵を返す。続けて手を上げると。
「んじゃ、また明日――」
「待てって。お前の家の場所も分かんねえんだから、はい分かりましたって、無責任に頷けるかよ」
「あ……そ、それもそっか」
オレの言葉で手を下ろし、こっちに振り返った鞍馬は苦笑していた。
「納得したなら、もう一回手を出せ」
「え? うん?」
オレは鞄を地面に下ろしてブレザーを脱ぐ。
わけも分からず伸ばし続ける鞍馬の手に、オレはそれを手渡す形で乗せた。
「ちょっ!? なんで制服!?」
「寒かったんだろ? 待ってる間」
「え?」
「その服、腰巻きとして使えよ」
鞍馬が履くあんな短めなスカートじゃ、晒した肌を寒さから守ることなんて無理だったんだろう。
手を差し伸べてきたときに見えた、あいつのわずかに震えた足。それをオレは見逃せなかった。
だから、こうしてブレザーを鞍馬に手渡したんだ。
春とはいえ、日の落ち始めた夕暮れ時は肌寒い。
そんな中でわざわざ鞍馬は、いつ起きるかも分からないオレのことを待っていてくれていた。
こいつの真意がどうであれ、オレは身体を冷やしてしまった女子をそのまま帰らせるような、図太い神経を持ち合わせてはいなかった。
鞍馬にブレザーを貸すのはただそれだけの理由。オレが放っておけなかった。それだけなんだ。
母さんからの遺言だったからな。
名前のように、困ってる人には優しくしなさいよ。って言葉がさ。
「あとな。特に理由がないのなら、次は教室で待つなりしとけよ?」
オレはわざとらしく笑い、地面に置いた鞄を拾うためにしゃがみ込む。
「……そう……とこ……も変わ……ない……」
「ん? 何か言ったか?」
鞄を拾うのに集中していたのもあって、鞍馬が口にした言葉がよく聞こえなかった。
「あーもう! なんでもない! ほらほら、早く行くよユーヤ!」
「あ、おい! どこに行くんだよ!?」
鞍馬は受け取ったブレザーを腰へ巻きつけると、なんの躊躇いもなくオレの手を取り、引っ張り上げ、ぐいぐいと歩き出す。
渡すだけ渡したら、さっさとこの場から立ち去るつもりだった。けどその案は、鞍馬の行動によってあっさりと破綻してしまった。
まあ、とりあえずブレザーを貸したのは正しかったようだ。なぜなら、繋がった鞍馬の手の温度が、オレが予想していたよりも冷たくなっていたから。
「ったく」
だから、オレはその手を温めるようにそっと握り返してやった。
アルトゥルーイズム=利他主義
自分よりも他人の利益を優先しようとする考え方