45話 綾音と白斗
あたしは目当てものを買うと、そのあとは色々な場所を巡ることで時間を潰す。
そして今。休憩も兼ね、さっき買ったマンガを運動公園のベンチに座りながら読んでいた。
正面にある噴水の水音が、ヒーリングサウンドとなって耳に届く。それが癒し効果となって、読書がなお捗る。
で、日もだいぶ傾き始めた頃。巻末にある後書きまで読み終わり、あたしはそっと息を漏らした。
「ふう……イイハナシダッタナー。ツンデレくんが初デートで、主人公が座る場所へ先にハンカチを敷いてあげるそのさりげない優しさ、萌きゅんポイント高過ぎっしょ! いいなー。こういう気が利くことをユーヤにされたーい」
あたしは周りに人がいないのをいいことに、涙を流しながら感想をぼやいていた。
読んでるだけで胸が締めつけられるのだから、こうやって吐き出さないとやっていられないのだ。
それだけ「今すぐ恋愛したい!」と思わされる作品だったのでしょうがない。
「というか、ホントに人いないなぁ。子供がいる家庭は、祝日なのもあって遠出でもしてるのかな?」
続けて、目に溜まった涙を袖で拭いながら呟く。
遠目には人がまばらにいるものの、自分の話す声が聞こえるであろう範囲には、人一人いない状況なのである。
そんなだから、こんな悠々と読書をしていられたわけでして。
「んんー! ……っはあ! さすがに集中して読み過ぎたかも」
あたしは背伸びをして身体を伸ばした。同じ体勢で何十分も座っていたせいで、伸ばしたことでの脱力感がとても心地良い。
続けて読んでいた本を袋にしまい、今度はポケットからスマホを取り出す。
時刻を確認。今は四時を少し回ったところだ。
「さて、と。そろそろ帰ろっかな。乙ツン読んだら恋愛脳が刺激されたナウ」
乙ツン。『読書家乙女とツンデレワンコ』という、今読んだマンガのタイトルだ。
明日からは学校行けそうだし、ユーヤにどんなアプローチをしようかなんて、さっきからワクワクしていてしょうがない。
このマンガに影響されたせいで、大好きなユーヤと早くイチャイチャしたいと思う自分がいた。
「まっ、その前に付き合えるようにならないとね」
もうそろそろ告白するべきかな? ううん。まだそれは早いかも。
好きな人が自分に好意を抱いていると確信が持てるまで、ここは慎重になろう。急がば回れの精神だ。
「……よし」
あたしは一度冷静を取り戻してから、ベンチから立ち上がる。
まだ夕日と呼ぶには少し早い太陽を見つめ、それから公園の出口に向かって歩き出す。
家に帰ったらユーヤにラインでも送ろう。体調が万全になったと伝えるために。
きっとそれだけでもユーヤは、こっちが嬉しくなるような返事をくれる気がする。
「ん? もしかして鞍馬さんか?」
「……え?」
不意に自分の名前が呼ばれ、声がした方へと振り向く。
「あ、やっぱりそうか。こんなところで会うとは奇遇だな」
「茅野……っち?」
噴水を挟んだ向こう側。そこからこっちへ顔を覗かせる、ジャージ姿の茅野くんの姿があった。
どうやら、今日も今日とて部活をしていたようだ。
「こんにち……ばんわ? 部活の帰りなん?」
「ああ、こんにちは。休みだからな。こういう休みの日にこそ、練習に身が入るものさ」
茅野くんは爽やかな顔で微笑む。
しかし、練習に集中出来る……か。本当にそうなのだろうか?
今日はバスジャックが起きた日。彼にとっては忘れようもないそんな日に、その言い方は変に思えた。
もしかしたら逆に、忘れようとしているからこそ、部活動に精を出していたのかもしれない。
こっちへ向かって歩いてくる茅野くんのことを、あたしは探るようにして見つめる。
そうして気づく。彼のジャージが必要以上に汚れているよう見えてしまったことに。
練習で集中力を欠いていたせいで?
それとも、自分の中の憤りを晴らすために激しいプレーをしたから?
「……鞍馬さん?」
「へ? あ、あははっ。なんでもない」
目の前で立ち止まった茅野くん相手に、あたしは笑うことで誤魔化した。
「それで、そういう鞍馬さんは何をしていたんだ? どこかで買い物でもしていたとかか?」
「あ、あたしは……っ」
そうだよ。なんて言おうとしてやめる。
確かに買い物はしていたけど、それは自分の気分転換のためのもの。ホントにしていたことは、茅野くんにも関係がある人の墓参り……。
「鞍馬さん?」
茅野くんが怪訝そうな顔をして名前を呼ぶ。
告げなければいけない。今日という日だからこそ、ユーヤに事情を聞いたからこそ、このことを彼に話すべき義務がある。
「……鞍馬さん?」
もう一度名前を呼ばれる。それに応えるために、あたしは意を決して口を開いた。
「今日ね……あたしのお父さんの命日なの」
「へ?」
予想だにしない言葉だったのだろう。茅野くんらしからぬ間の抜けた声が口から漏れる。
「うちさ、片親なんだ。お父さんが数年前から不倫をしててね。三年くらい前に離婚をしたんだけど、それから半年経たずにお父さんが事故で死んじゃって」
「そ、そうか……。それは申し訳ないことを聞いてしまったな……」
バツの悪い顔をする茅野くんに「ううん。別にいいよ」とあたしは気にしてない旨を伝える。
「それが二年前の今日。……ユーヤから聞いたよ。茅野くんもその日に事故にあったんだよね?」
「は? なっ!? あいつ、あのことを鞍馬さんに話したのか!?」
「うん。話す機会がたまたまあってさ。……あのバスジャック事件の唯一の生存者なんだよね?」
「…………ああ」
茅野くんは目を閉じ、苦虫を噛んだような表情で答えた。
「ごめん。嫌なことを思い出させちゃって」
「いや……構わない。だがしかし、どうしてそんなことを聞く必要が?」
「……あたしのお父さんが事故死したって話をしたけど、実は……あたしのお父さんも乗っていたの」
「乗っていた……?」
「茅野くんが乗っていたバスに……」
あたしを見る茅野くんの目が、ゆっくりと信じられないものを見るかのように開いていく。
「……それは……どういう、ことなんだ……?」
震える唇。きっと今、彼の頭は真っ白になっているはずだ。
「言ったままの意味だよ。あたしのお父さんは、バスジャックされたあのバスに乗っていたの。……そのお父さんがね――」
「ははっ! あははははっ!」
「――っ茅野……くん……?」
唐突に茅野くんが笑い出した。左目の辺りに手を添えて、無邪気な笑い声をあげる。
その彼の反応に、あたしは名前を口にする以上の言葉を失ってしまった。
「くくっ、そうか。そういうことなのか」
「そ、そういうって……?」
あたしの声を聞き、茅野くんは手を顔から離し、こっちをジッと見つめてきた。
注がれる視線が鋭く冷たい。直視するのを避けたくなってしまうほどに。
「あのバスに乗っていた男。しかも女性関係のトラブルを抱えていた? 加えて、キミの父親だということは、その男は……っ!」
茅野くんの綺麗に並んだ歯が剥き出しになる。
怒りの感情があらわなった以外には考えられない、そんな表情へと茅野くんの顔が変わっていく。
「茅野くん……?」
「笑えてもくるさッ!! そうなんだろッ!? キミの父親があのバスの運転手! 鞍馬真人だったということなんだろッ!?」
「なっ!?」
彼は勘違いしている! とにかくここは誤解を解かないと!
「お、落ち着いて茅野くん!」
「キミの父親のせいじゃないかッ!! あの男が、あの男がバスジャック犯の恋人を奪ったから! 俺たちのクラスの人間はッ!! 春日も! 阿部も! 幹久の奴も! 渡辺さんも! 伊波さんも! 真奈美もみんな! みんな死んだんだぞッ!! もうあいつらは戻ってこないッ!!」
「ち、違うのっ!!」
「違うッ!? 何がだ!?」
「一回落ち着いて聞いて!! あたしのお父さんはバスの運転手じゃないの!!」
「……っ……バスの運転手じゃない?」
表情は変わらないものの、こっちを探るような目をする茅野くん。
「うん。さっき言ったよね。あたしの両親は不倫の末に離婚したって」
「……ああ」
「鞍馬って苗字はね。別れたあとから名乗るようになった母方の姓なんだ。だから、あたしのお父さんの苗字が鞍馬なわけがないの」
「っ!? じゃ、じゃあキミの父親はいったいっ?」
「黒月逸人。……茅野くんたちの担任だった人だよ」
言葉を失っていた。あたしの告げた話で、茅野くんの顔から血の気が引いていく。
「そんな……黒月先生が鞍馬さんの父親……?」
彼の憤りの感情が目に見えてしぼんでいった。
よし。これなら冷静に話が出来る。
「そうだよ。……それでも、あたしのお父さんがしたことのせいで、あなたたちの未来を奪ったことには変わりないんだけどね……」
バスジャック犯の手によって運転手が刺殺され、バスの自由は奪われた。
けど、そんな生徒たちを守ろうと思ったお父さんが運転中の犯人と揉み合いになった末、走行中のバスは高速道路から落下したのだ。
フロント部分から落下バス。更には衝撃で漏れ出たガソリンが引火して爆発。
唯一、バスから這い出ることが出来た茅野くんだけが生き残ることになった。
「もう少し深く考えて行動すればよかったのに。バスが走っている状態で犯人を取り押さえようとか、あの人どうかしてるよね……」
正義感が強い父親だった。ルールとかマナーにも厳しい人で、小さい頃はよく叱られた覚えがある。
だとしても、あまりにも短絡的過ぎではないか。受け持つ生徒を守りきるんじゃなく、死なせてしまうだなんて。
不倫のことも含め、自分の中で、お父さんへの嫌悪感がふつふつと湧き上がってきてしまう。
あたしの目が、その事実から目をそらしたいと訴えるように、ゆっくりと細まっていき――。
「それは少し違う」
「……茅野くん?」
茅野くんの声に釣られてスッと目が開く。
「黒月先生は悪くないんだ。あの時、運転手が刺されて遺体が車内に残る異常な状況で、女の子たちが精神的に限界を迎えようとしていた。その状況を打開しようと、一部の男子が犯人を取り押さえようと行動に移したんだ」
「え?」
「しかし、その中の一人が犯人の持つナイフに刺されて倒れた。それで頭に血が上ってしまったであろう黒月先生が、犯人を取り押さえようとして……」
なに? じゃあ、お父さんは自分の生徒を助けるために犯人を? そんな……。
「キミの父親がバスの運転手だったのならば、俺はキミをなんの罪悪感もなく罵倒出来ただろう。だが、黒月先生の娘となれば別だ……。あの人は最後まで生徒のために行動していたから。前年度もあの人のクラスだった俺だから言える。黒月先生は不倫なんて馬鹿げたことをしたのかもしれないが、生徒思いで真面目な教師だったことは揺るがない……と」
お父さんの最後を見て、唯一生き残った彼が口にしたのならば、それは嘘偽りのない事実なのだろう。
少なくとも、お父さんのことを語る彼の目は一切よどんではいなかった。
「それにしても……ははっ、そうか。……俺は、俺は黒月先生の娘の背中を押すことを今まで……。まったく、何の因果なんだこれは……?」
どこかやるせない顔で呟く茅野くん。
彼がなんのことを口にしているのかまではわからないけど、なぜか、その顔は酷く自嘲じみているように見えた。
「……鞍馬さんが話したかったことはこれで全部なのか?」
「……あ、うん。単に、あなたに知っておいてほしかったのと、たぶん贖罪をしたかったんだと思う」
「その贖罪というは……鞍馬さん自身が、この事情を俺に話すことによって報われるという意味でか?」
茅野くんの問いにあたしは頷く。
「そうか。俺も……いや、やめておこう。今はそのタイミングじゃない。きっと話せば、キミは俺のことを許せなくなるはずだ。今はまだやめておこう」
「許せなく?」
あたしが聞き返したタイミングで通知音が鳴った。
自分が設定しているスマホの音じゃない。だから、茅野くんが持つスマホのものなのだろう。
それを証明するように、茅野くんがジャージのポケットからスマホを取り出した。
しかし、画面を見てすぐに怪訝な顔になる。
「知り合いから?」
「ん? ああ、そうだ」
誰だか聞きたい衝動に駆られた。けど、もしかしたら中学生時代の知り合いかもしれないと、悩む頭の中でそんな考えが浮かんだ。
今日という日も考慮すればおかしくない。もしそうだったとするのなら、ここで彼に聞いてしまうのは野暮というもの。
「これから知り合いに会うことになった。もう用が済んだのなら、俺はこのまま向かうつもりなんだが」
「えっと……あ、最後に一つだけ」
「なんだ?」
「その……事故後に同い年くらいの女の子が訪ねて来たりした? バスジャック事件について詳しく聞いてくる子が」
「女の子? …………ああ、そういえば一人いたな。茶色い髪の子で、話したあとに難しい顔をしたかと思えば、静かに笑みを浮かべていた。それが印象的だったから覚えている」
「そっか。ありがとう」
やっぱり犬飼が接触していたか。
事故の詳細を茅野くんから聞いて、お父さんのせいで事故になったと知った犬飼が、娘であるあたしを目の敵にする形で復讐を思いついた。
きっと、その憶測で間違いないのだろう。犬飼らしいと言えばらしい結論だ。
「しかし、なるほど。それが本来の、素の鞍馬綾音ということか」
「……ん、まあね。これでも昔は、もっと気難しい性格をしてたんだけど」
「そうか」
茅野くんはそれだけ言って歩き始めた。その背中が寂しげなものに見えてしまう。
あたしと話したことで、精神的に揺らいでいるであろう茅野くんが、このあと会う人ときちんと話せるといいんだけど。
今の自分ですら気分が重いのだから、きっと茅野くんはもっと辛いはず。やっぱり、話すタイミングがよくなかったのかも。
「ははっ……こんなのただの自己満足じゃんか……。そんなものに茅野くんまで巻き込むことが、ホントにしたいことだったのかな……? ねえお父さん。茅野くんを傷つけるのが怖くて、あたしじゃあもう、これ以上彼の心に踏み込めそうにないよ……。教師だったお父さんなら、こういうとき、どうやって向き合っていたの……?」
自分の中でグチャグチャになった感情が、グルグルと渦を巻いて胸の奥に巣食う。
ただの懺悔。誰にも言えないことを当事者にぶち撒ける自己中心的な思考。短絡的なのはお父さんなんかじゃなく、あたしの方だったのかもしれない。
茅野くんは、あたしと話したことでどう思っていたのだろう?
嫌な気持ちになったのかもしれない。あたしを嫌いになったのかもしれない。思い出したくもない過去を思い出して嫌悪感に襲われていたのかもしれない。
「……はあ……あたしって最低な女だ……」
あたしは持っていた袋をギュッと握りしめる。
そうやって、茅野くんが立ち去ったあとになってからやっと、後悔し始める自分がいたのだった……。