32話 負の連鎖
土日休みを挟んでの翌週。
バレンタインが近づいてきて学校全体が騒つき始めた中で、あたしは一つの噂話を耳にしてしまう。
「なあ聞いたか? 母ちゃんが言ってたんだが、二組の進藤、母親が死んじまったんだってよ」
「え? あの進藤の!?」
「マジかよ……。陸上部卒業してからはたまに話すだけだったけど、あいつそういう素振り一切なかったのに……。病気とかじゃなく急だったのか?」
「あー。お前、進藤と同じ部活だったっけ?」
「そうそう。で、どうなんだ?」
「いや、なんか前から病気とかだったって話でさー」
……ん? 進藤? それってシンのこと?
あたしは文庫本から思わず視線を外し、話している男の子たちの方を向いた。
母親が死んだ……? それって、癌だって聞いていたあの母親が……?
本を持つあたしの手が小刻みに震えていた。
今の話が信じられず、身体が拒絶反応を起こしているのだろう。
母親のことはシンが何度も口にしていた。
どこか子供っぽくて、自分たちと同じ視線で物事を考えてくれる優しい母親だったと。
もちろん面識なんてない。それでも、あたしが相槌を打って聞き、それによってシンが楽しそうに話していた姿が、どうしても脳裏に浮かんできてしまう。
きっとシンにとって、自慢の母親だったことは言うまでもないはずだ。
あたしの思考をさえぎるようにチャイムが鳴る。それに合わせてみんなが席に着き始め、担任が教室へと入ってきた。
「授業始めるわよー。早く席に戻りなさい」
こうして日常は流れる。おそらくシンは、今日登校しては来ないのだろう。
それでもお構いなく、あたしたちの時間は過ぎていく。それが日常というものなのだ。
犬飼への告白はどうなったのだろうか?
シンはどれくらい学校を休むのだろうか?
あたしはこれから、なにに希望を持てばいいのだろうか?
今日はずっと、そんな思考ばかりが頭の中を渦巻いていた。
数日経ち、シンが来ない日が続いたある日。
廊下でちーちゃんが窓の外を眺めている姿を見つけたので、あたしは声をかけてみることに。
「久し振りちーちゃん」
「っ!? ……え? あ……綾、ちゃん?」
「うん」
……なに今の反応?
明らかにビクつきながら肩を上げ、ちーちゃんは恐る恐るという様子で振り返ったのだ。
ここ数ヶ月まともに話せていなかったけど、その間になにかあったとでも言うのだろうか?
「えと、最近会うことなかったけど元気?」
「あ……うん。大丈夫。私はいつも通りだよ」
変な返答だ。どこか自分に言い聞かせるような言葉にも思えてしまう。
それに、作り笑いをしているように見える顔つきも気になった。
「それで何か……用、だった?」
「あ、うん。ちーちゃんは進路どうするの?」
「し、進路……。えとね……れ、連城高校に行く予定……だよ」
「連城高校……」
その名前には聞き覚えがあった。
確か……そう。シンが受ける高校の名前だったはずだ。ということは、ちーちゃんもそこに通うつもりなのか。
「そうなんだ。あたしの知り合いも一人、そこを受けるって言ってた」
「へ、へー。綾ちゃんは……?」
「あたし? あたしは――」
「おまた〜! 地味地味な倉田ちゃ〜ん♪」
「――っ!?」
推薦された私立の学校には合格したよ。と伝えようとしたところへ、聞いたことのある声が届いた。
この声は……! と虫唾が走る感覚に襲われながら視線を動かす。
すると、女子トイレから出てきた犬飼と出会した。
「って、な〜んだ。ネガメガな鞍馬さんもいたし。もしかして二人でお話してた?」
ネガメガ……? 眼鏡をかけてるネガティブキャラってこと? 失礼な。
「別に。あなたには関係ないでしょ?」
「話には関係ないかもだけど〜。ほら、わたしと倉田ちゃんってクラスメートじゃない。だ・か・ら〜、優しい倉田ちゃんはここで待っていてくれてたのよ。アンダスターン?」
「それで?」
「もう! わっかんないかな〜? つまり、わたしにも話に混ざる権利があるってわけ♪」
どういうわけなのか問い詰めてやりたい。
ううん。関わり合いたくもないから、やっぱりいいや。
あたしはわかりやすく嫌そうな顔をしてみせる。
そんなあたしの方を見て、犬飼は小憎たらしい笑みを浮かべた。
「あー、出すもの出したら喉渇いちゃったな〜」
「あなた、もう少し言葉選んで話したら?」
「え〜? おかしかった〜?」
犬飼は両手を口元に持っていき、驚いたような表情をした。
わざとらしい動作のせいで、これまたイライラが募ってくる。
「でもでもぉ、喉が渇くのもおトイレも〜、生理現象だから、ねっ。倉田ちゃんもそう思わない? あたしは午後ティーとか飲みたい気分なんだけどな〜!」
「え? あ……そ、うだね。よ、よかったら買ってこようかっ? 私も飲みたくなってきたからっ」
「え!? マジ!? い〜の? 倉田ちゃんってば話わかるね〜」
「す、すぐに買ってくるねっ!」
「ちょっ、ちーちゃん!?」
あたしが止める間もなく廊下を駆けるちーちゃん。
意味がわからない。今の会話で、どうしてちーちゃんが飲み物を買いに行く流れになるの?
「あ。鞍馬さんも飲みたかったり〜? それにしても『ちーちゃん』なんて、可愛いニックネームで呼ぶんだ? 以外〜♪」
「くっ! 今行かせたのわざとでしょ……!」
あたしは犬飼を睨むように目を細める。
明らかにそう動くように誘導していた。
気の優しい、頼まれると断れないちーちゃんを動かして、わざと買いに行かせたとしか思えない。
「わ〜怖〜い! でも! 睨まれたって、犬飼麻美は負っけないんだぞ〜! なーんちゃって♪」
犬飼はぶりっ子口調で言い、握った右手を天高く伸ばす。
「ふざけるのはやめて!」
「も〜、お堅いな〜。わたしはただ、喉が渇いて、倉田ちゃんに同意を求めたってだけでしょ? そしたら勝手に買いに行ったの。それだけの話。じゃなかったら〜……うーんうーん……あっ! わたし、もしかして倉田ちゃんに何かしちゃってた〜?」
「っ!」
悩む動作をし、眉毛を八の字に下げる犬飼。自分の頭に軽くげんこつする様は、やっぱりわざとらしい動作に見えた。
この女を相手にしていると血管が切れそうになってくる。相性が悪いと言うより生理的に無理なのだ。
「ありゃ? もう行っちゃうの鞍馬さん?」
「あなたと話していると頭が痛くなる」
「え〜!? ひっど〜い!」
あたしは背を向け、振り返らずに犬飼の元を去る。
「……ひっど……ぁ、……子……一人……置い……んて本……わいそう。ふふっ、あ〜……よっかな……」
そんな声が一部分だけ聞き取れたけど、あたしは深く考えずに歩き続けた。
あの女、相当性格が悪い。男相手には媚を売って誘惑し、女には自分を引き立てるよう誘導させる。
きっと、他の生徒にも今みたいなことを平然としているはず。そうに違いない。
けれども、彼女からそういった噂を一切聞かない。むしろ、悪い噂は一つたりとも見つからないのだ。
もしかしてあたしの勘違いなのだろうか? ……いや、あいつはそういう風に立ち回っているだけ。
あの性格で、一つもマイナスの要素が出回っていないなんて、どう考えてもおかしい。絶対になにか裏があるはず。
「……やっぱり、あんなやつにシンを渡すわけには」
あたしはそう呟き、犬飼の周囲を探ることを決意した。
学校が終わったので、あたしはちーちゃんの家の門にもたれかかり、未だに戻らない彼女の帰りを待つ。
ちーちゃんの家は純和風の作りで、四方を木製の壁に囲まれている。庭には鯉が住む池や竹製のししおどしがあり、旅館のような佇まいとなっていた。
どうしてちーちゃんの家にあたしが?
その理由は――学校でちーちゃんに関われば、十中八九、顔の広い犬飼の目が及ぶ可能性が高いからだ。それは今のところ避けておきたい。
だからこうして、わざわざあの子の家までやってきたのである。
廊下での犬飼との接触後、恥を忍んでクラスメイトであるシンの友達と話し、今週いっぱいシンが休むという情報を聞き出しておいた。
その間に犬飼の弱味となるネタを手に入れたいあたしは、放課後のルーチンを放り出してでも、倉田家を訪れることにしたのである。
なんとかして、シンがあの女を嫌いになるような弱みを手に入れないと……。
「中には入らないんですかい綾音さん?」
「……家の中だと息が詰まるので」
「ははっ、相変わらずな用心深さで。……あっしらはこの辺の土地を仕切っちゃあいますが、あくまでカタギの人間。警戒されるほどじゃあねえんですがねぇ」
「あたし、任侠物苦手なので」
「……さいですかい」
あたしに話しかけてくるのは、ちーちゃんの家の使用人、という名目の構成員。いわゆる門前での見張り役の人だ。
まあ、別にそこまでの警戒心を抱いてはいない。それは、この人が昔からの顔見知りだからである。
ただ、黒いスーツに柄物の赤いネクタイ。その上、サングラスにスキンヘッドと。警戒しない方がおかしいその風体については、常々どうにかしてほしいとは思っていたりする。
「で、お嬢に何か用なんですかい?」
「まあ少し。……女の子同士の話なので、鶴頭さんはその時に席を外してください」
「……ふむ。承知しやした」
それから五分ほど無言で過ごし、道の向こうから沈んだような足取りのちーちゃんがやってきた。
「……綾音さん」
そこへ鶴頭さんがあたしの名を呼ぶ声がした。
「はい?」
「最近、お嬢の様子が変なんです。その辺り、聞き出しちゃあくれやせんかね?」
「ご自身でやってみては?」
「それが上手くいってるようなら、こんな話を持ちかけちゃあいやせんよ。いつも、なんでもないと笑って誤魔化されてしまいやして」
「なるほど」
ごもっともな回答だ。どのみち、ちーちゃんと犬飼の関係性は聞いておきたいところだし、会話上、その辺りの話題にも触れることにはなるだろう。
「わかりました。でも上手くいくかまでの保証はしませんから」
「ええ。お願えしやす」
地面を見つめるように顔を下げているちーちゃん。その顔が少しだけ上がり、あの子の目とあたしの目が重なり合うように交わる。
「――っ!?」
「こんにちは、ちーちゃん。今から時間いい?」
「綾……ちゃん……? な、なんで?」
「だから少し話が――」
言い終わる前にちーちゃんが踵を返して走り出す。
「なっ!?」
「お、お嬢!?」
あたしと鶴頭さんが同時に声を上げた。
すかさず追いかけるあたし。それに続くように鶴頭さんも駆けるが。
「鶴頭さんはここにいて! あたしがちーちゃんと話つけるから!」
「しかし!」
「あなたの本来の役目はなんですかっ?」
「む……! 分かりやした。お嬢を頼んます」
「はい!」
あたしは急いでちーちゃんを追いかける。
運動が得意じゃないあの子相手なら、あたしの脚力で充分間に合うはずだ。
あたしはちーちゃんを視界に収めながら走り、その距離を段々と縮めていく。
住宅街の路地を駆け、気をつけながら角を曲がり、ついにはちーちゃんに手が届く距離に。
「ちーちゃん逃げたりしないで! 闇雲に走ったら危ないから!」
「つっ!?」
あたしの手がちーちゃんの左手を掴む。
ちーちゃんは諦めたように速度を緩めると、あたしに手を掴まれたまま足を止め、その場に座り込む。
「はあっ! はあっ!」
「はあ……! どうして急に走って――」
目が見開き、言葉が止まる。
「っはあ……っ! 綾……ちゃ……?」
前を向いたままだったちーちゃんが、ゆっくりとこっちを向いた。
「…………ちーちゃん、なにそれ?」
今まで彼女のスカートに隠されていたものを見つめながら、なんとか声を振り絞って尋ねた。
「……え?」
「その痣、どうしたの……?」
「あ……!?」
聞かれ、動揺した表情に変わるちーちゃんの顔。
そのちーちゃんの左の太ももには、故意につけられたような複数の痣が出来ていたのだ。
「こ、これは……っ」
慌てた様子で裾を直し、ちーちゃんはその痕を隠してしまった。
「ちーちゃん……。とりあえず、一回落ち着ける場所に行こう。話、ちゃんと聞かせて」
あたしはちーちゃんの手を引き、近くの公園へと向かう。自分の心臓は――痛いほどに鳴り続いていた。