29話 病気療養にて夢を見まして
「んー……三十八度二分か。どう考えても風邪ね」
「うぅ……」
今はデートをした日の翌朝。ベッドから起き上がれないあたしは、お姉ちゃんによって熱を測られ、今しがた風邪を引いているという判断をされてしまった。
まあ頭はガンガンするし、ぼうっともしてくる。身体は熱くて息をするのもしんどいほどだ。
うん。これは風邪の症状で間違いない。
とりあえず、世界的なパンデミックを引き起こすような未知のウイルスなんて線は、まず有り得ないことだけは確かだ。
「まったく……。昨日出かけたとき、あんた雨の中ではしゃぎすぎてたんじゃないの? それか、誰かからうつされでもした?」
「わ、わかんなぃ……」
けど、もしかして……。という心当たりはあった。
それは昨日のデートで訪れたラブホテル。そこで湯船にも浸からずに自慰行為をしていたせいかも、と。
だとすると、悲しいかな自業自得に他ならない。
「とりあえず母さんに伝えてくるわよ? その熱じゃあ学校は休みだろうから、今日は大人しく養生しときなさい。ほい、のど飴。あんたが好きなリンゴ味」
「こほっ、ありがとう……」
お姉ちゃんに飴を口へと入れられる。
甘くて美味しい。昔から、あたしはこういうリンゴ味の飴が大好きだ。
どうして? なんて素朴な疑問についてはわからないけどね。理由なんてないのだろう。
「あ、そうだ。朝ご飯はどうする?」
「……ん、無理」
「了解。今日の撮影はないし、講義も休んでいいやつだから、あとで病院に連れてってあげるわ」
お姉ちゃんは体温計を手に持ったままドアを開け、手を振って部屋から出て行った。
「はふぅ……」
あたしは布団をかぶり直し、額に乗ったタオルの冷たさを堪能する。
このタオルは検温中にお姉ちゃんが用意してくれたものだ。ありがたいことこの上ない。
それにしても情けないなぁ。
原因が自業自得と断言出来そうなのが、余計に情けなさへ拍車をかけてくる。
「ユーヤに心配されてたことが……こほこほっ。まさか、ホントに現実になるなんてぇ……」
家に帰ってきた時点で、熱っぽさを感じていたことをお母さんにでも言っておくべきだった。
そうすれば市販薬を飲んだり、緊急外来を訪ねるなりの行動を取れていたはずだ。
なにより、高校に入ってからの無欠席がダメになったことも、精神的には結構つらかったりする。
それもこれも自分のせいなのだから、周りに当たり散らすことも出来やしない。
「はあ……はあ……。解熱……やっぱり座薬が、一番かな……?」
してもらうのならユーヤがいい。のだけど、正直今はつらすぎて興奮することすらダルい状態だ。
下手な妄想のせいで体温が上がるのも困るので、ここは大人しく寝ることにする。
目を閉じてしばらくしたところで、お母さんがやって来たので軽く話をした。
郵便受けを確認するときにちーちゃんと会ったらしく、あたしが休むことを伝えておいたとのこと。もちろん学校にも連絡済みだ。
あと昼から、お母さんは前に面接したバイトのシフトが入っているようで、午後は夕方まで戻らないと話す。その勤め先は近所のスーパーだった。
その後、あたしは一度睡眠から起こされて市販の薬を飲み、身体が楽になったところでお姉ちゃんの車に乗って病院へと向かう。
病院では単に風邪と診断され、いくつかの薬が処方された。
あとは家に帰ってきて水分補給と、食欲がないので薬を混ぜたゼリーを胃に入れてから寝ている。
とはいえ、息苦しくて中々寝られないのが現状だ。
「はあはあ……」
眠れないなら素数を数えるか。……いや、それは落ち着くべきときにすることだ。
ならやっぱり、ここは素直に羊を数えるとしよう。まあ簡単に寝られたりはしないのだろうけど。
……よし。えっと、羊が一匹。羊が二匹。羊が三匹に、羊が四匹。羊が五匹……羊が、六匹……ひつじがななひき……。ひつ……が…………。
「……さん。く……まさん」
……ん? なに? クマさん?
「鞍馬さん……起きなさい」
くらま……? 誰のことを呼んでいるのだろう?
もしかしてあたし? いや違う。あたしではないはずだ。だってあたしの苗字は、く――。
「起きなさい! 鞍馬綾音さん!」
「――っ!?」
あたしはその声にビクッとして顔を上げる。
「あ……えっと……?」
起き上がって周りを見る。
まず目の前には女性が一人。これは担任だ。
そして視線を左右に動かすと……他には誰もいなかった。
西日が差していることから夕方。机や椅子が等間隔で置かれている空間ということで、ここはおそらく教室なのだろう。
どうやら、授業後に寝てしまっていたらしい。
「おはよう鞍馬さん」
「その……おはようございます先生」
鞍馬綾音。そうだ。それが今のあたしの名前……。
今年――中学二年生の二月に、あたしの苗字は変わった。両親が離婚したからだ。
その後、家を出て行った父は、進級してすぐである今年の四月に亡くなった。男女関係のいざこざによって……。
あれから半年以上が経ったけど、あたしは未だに鞍馬という呼ばれ方には慣れないでいた。
それはそうだ。生まれてから十数年間、母方の苗字が鞍馬なんてことも知らなかったのだから。
それが離婚なんてもので変わっても、やっぱり実感なんて湧かないのだからしょうがない。
「それで、なにか御用でしょうか?」
担任が未だに寝ているあたしを見つけ、ただ単に起こされた。そう捉えるのが自然だけど、きっとなにかあるのだろう。
そう確信めいた予感があった。
「ええ。進路希望の高校、いい加減絞り込んでくれないと。あなただけよ。先月の三者面談でも決まっていないの」
ああ……そのことか。
「私立なら、今月の下旬までには願書を出さないといけないのに……」
季節は冬となる十二月。あたしはまだ、受けるべき高校の進路先が決まっていなかった。
これは異常だ。本来なら先月の時点で決め、すでに面接の練習を始めている生徒もいるほどの時期。
その状況にも関わらず、あたしは私立に行くのか公立に行くのかすらも不鮮明な状態だった。
そんな生徒が見放されない理由は一つ。鞍馬綾音という生徒が、この学校での成績のトップに位置する人種だからだ。
不良生徒でもない、少し事情のある生徒なので、あたしは丁重に扱われているのだろう。
故に許され、あたしはそれに胡座をかくことで過ごしていた。
「決めます。今週中でいいですか?」
「え、ええ。お願いね。……あなたの家庭の事情は把握してるけど、ニートなんて馬鹿な真似だけはしないでちょうだい」
「……わかりました」
あたしの返事を聞き、担任の女は教室から出て行った。
事情を知っているからなんだと言うのか?
テストで毎回トップの成績を収める生徒に良い高校を、あわよくば名門私立を受験して合格して欲しい。
そんな担任としての箔を欲して、あたしを焚きつけたいだけのくせに。
腫れ物のように気を遣ってくるのが見て取れる。
そして、その成功を糧に昇進を目指そうとする魂胆すら丸見えだ。
相手に寄り添おうとせず、上部だけで接してくるその態度。あの男を、父を見ているようで心底気に入らない。
「大人なんてみんなそうだ。子供がどんな風に見ているのかすら気づけない。バカみたいだよね。ホントにみくびり過ぎ……」
あたしは億劫な気分で鞄を持ち、いつも放課後に訪れる屋上を目指した。
屋上とは言っても、当たり前だけど施錠されている場所だ。なので、あたしの目的地はその扉の前の空間である。
蛍光灯もあるその空間に座り、暗くなるまで一人で過ごすのが日課となっていた。
しかし、今日そこには先客がいたのだ。
男子生徒。学年まではわからない。黒っぽさのある栗色の髪は、思わず見惚れてしまうほど綺麗だった。
けど、彼は扉にもてれかかる形で寝ているようだ。
個人的なベストプレイスなので、他人がそこへ侵入している状況はあまり看過出来ない。
とりあえず起こしてどいてもらおう。素直に従ってくれる人だといいのだけど。
「……起きて。起きないとイタズラする、かも」
狸寝入りならこれで起きてくれるかもしれない。
だけど、彼はピクリとすら反応せずに寝息を立てている。
どうやらホントに熟睡しているようだ。
仕方ない。あまり気は進まないけど、揺すってでも起こすとしよう。
彼の肩に手を置き、前後に軽く揺すってみる。しかし――。
「む……揺すっても起きない」
どうしたものか。とあたしは悩む。そのすがら周りを見てみるも人影や気配すらない。
「……他には誰もいない、か。こんな場所だし、当たり前だった」
なら彼は一人でこの場所で眠っていた? だとしたら無防備なことこの上ない。
ここに人は寄りつかないし、あたしが言うのもなんだけど、あまり褒められたものではない行為だ。
「はあ……あたしのお気に入りの場所だったのにな。でもいいか。ボッチでここに来続けるの、やっぱりさびしかったし。彼は……あたしと同じなのかな?」
離婚以降、お母さんは少しノイローゼ気味になっていた。生理が重なる日なんてヒステリックになるほどだ。
あの父が住んでいた家であり、母がそんな状態の家になんか、あまり帰りたくはない。
加えてお姉ちゃんも大学受験が控えているので、その邪魔をしたくないのもあった。
だからこそ、放課後はこんな風に学校で過ごしているわけで。
そんな自分と似たような境遇でここにいるのなら、もしかしたら彼と仲良くなれるかもしれない。
淡い希望のようなものがあたしの胸にくすぶる。
「ねえ? あなたはどうしてここで寝てるの?」
あたしはなんとなしに彼の前髪に触れる。
栗色髪の触り心地が気になっていた。なんて理由で触れていることに、やってから気づく。
「……ん?」
「あ……目覚めた」
まさかホントに起きてしまうとは……。
「……誰だお前?」
目が覚めた彼が目と口を開いた。
それに対して、あたしは内心では動揺していたものの、平然とした態度で見つめ返す。
父の不倫を目の当たりにしてから、感情を表に出すのが苦手になってしまった弊害のせいとも言える。
「名乗る名前はない。……あと、そこはあたしのベストプレイスなんだけど」
追い返すのなら今の憮然とした態度の方がいいと思い、あたしは表情筋を動かさずに答える。
「ベストプレ……?」
「お気に入りの場所。本当は少し違う意味だけど、その英語はあなたも授業で習ってるはず」
「いや、英語は苦手でよく覚えてないんだよ。あ、そうだ。オレの名前は進ど――」
「聞く気はない。勝手に名乗らないで」
あたしは彼の言葉をさえぎった。
名乗られれば、自分も名前を言わなければならなくなる。
なるべくなら、離婚後に名乗るようになった苗字は告げたくなかった。鞍馬という名前は好きじゃない。
以前の友達は……苗字が変わった意味を知ってからあたしを避けるようになり、今では疎遠になってしまったから……。
「お前……!」
「あたし、『お前』って上から目線で言ってくる呼び方は嫌いなの」
「はあ? じゃあ名前言えよ!」
「名乗る気はない」
だから名乗る名前はないと言ったはずなのだけど。
でも下の名前くらいなら……いや、名乗らない上に名乗らせなかったのだ。
それならいっそ、名無しの権兵衛とでも名乗って押し通るとしよう。
「から……そう。……ナナシ。名前のない名無しでいい」
あたしは眼鏡のフレームを指で押し上げながら告げた。
「あなたのことは……シンド……。ううん。シンと呼ばさせてもらう」
「……え? シン?」
「不満?」
「い、いや……別にいいけど」
困惑する彼、もといシン。
居心地が悪くなったようで、シンはその後すぐに帰ってしまった。
しかし、翌日以降もシンはこの場所へと現れる。その理由を、あたしは一週間経ってから知ることになるのだった。