19話 自分の将来設計
「ふわあああ!」
大きなあくびを一つ。かけた眼鏡をずらして目を擦り、あたしはリビングのドアを開ける。
ドアを開けると食欲を湧かせてくる匂いが漂ってきた。
「あら綾音。おはよう。まだ眠そうね?」
炒め物を作っているらしいお母さんが、こっちをチラッとだけ見てそう言った。
「うんー。おはようお母さん」
「あんたねぇ。休日だからって、少しだらけすぎじゃないの?」
「んー?」
声がした方を向くと、テーブルに着いてテレビを見ているお姉ちゃんがいた。
「あ、お姉ちゃんもおはようー」
「おはよう綾。ねえ、そんなに眠いのなら顔洗ってくれば?」
「もう洗ったー」
「えぇ? 洗ってそれなの……?」
休みの日だと思うとどうにもやる気が出て来ない。
というよりも、精神的に着飾る必要がないのでこうなってしまうのである。
今も猫のようにゴロゴロと床に転がりたい気分だ。休みの日最高。
「綾音、司の言う通りよ。あなた、最近休みの日にだらけ過ぎていない? お父さんがいたら今頃怒っているところね」
「……っ」
お母さんにとっては何気ない言葉だったのだろう。
しかし、即座にお姉ちゃんが険しい顔になった。おそらくあたしも、同じように変わっているはずだ。
「いい加減にしてよ母さん……! あの人は、この家にはどうやっても戻っては来れない。やり直すことなんて不可能なの。そもそも、あと数日で二周――」
「ご、ごめんなさい司……! そうよね。いい加減、あの人のことは忘れるべきだわ……」
お母さんは料理の手を止めてうつむく。
苛立つ様子のお姉ちゃんは、落ち着くためか、テーブルに置かれていたカップを手に取り口をつけた。
空気が重い。あたしもこの話題には過敏な方ではあるけど、お姉ちゃんはそれ以上に、お父さんのことを嫌悪している。
職場の若い女性と不倫をしてでの離婚。それからあたしたち一家を捨てて女の元に行ったのだから、姉妹共々嫌悪するのも仕方がないことだ。
それでもこの空気は変えないと。あたしたち三人まで不仲になるなんてごめんだ。
「そういえば、お母さんはなにを作ってるの?」
「え!? あっと……レバニラ炒めなのだけど」
「えー? 朝からそれは重くないー? まっ、お母さんの作ったやつ大好きだから、全部食べるけど♪」
あたしは会話をしながらお姉ちゃんを見る。
目が合うと「まあ、あたしも好きな方よ。この匂いはたまらないしね」と意図を察してくれた様子で話すお姉ちゃん。
続けて声を出さずに「ありがとう綾」と口パクで告げてきた。
自分の身体が軽くなるのを感じ、あたしはお姉ちゃんが座る対面のイスに腰かける。
「お姉ちゃんも食事はまだなの?」
「ええ。これからよ。あたしの分を作っているところにあなたが起きてきたってわけ」
「なるほどねー。あっ、てことは足りなかったりするお母さん?」
「いいえ大丈夫よ。予め、三人分まとめて作っていたから」
調理を再開していたお母さんがそう答える。それなら安心だ。
「そういえば綾。例の優也くんとかいう男子とはどうなのよ? 最近絡めるようになったとか母さんから聞いているけど、アプローチは出来ているの?」
「へ? あー、えっと……う、うん」
あたしは恥ずかしくなり、歯切れ悪い形で答えてしまった。
「ふーん? あんたのその様子じゃ、中々良い感じでやれているみたいね?」
「ま、まあね。最近はユーヤだけじゃなく、ちーちゃんやクラスの男の子とも一緒に食事してるし」
「ちーちゃん? ああ。倉田さんのとこの千歳かぁ。会ったの何年前だっけ? しかし倉田家……」
お姉ちゃんが言いながら微妙な顔をする。
「司。家柄で区別をしてはダメよ。あそこは一応、真っ当な商売をしている家系だもの」
「別に区別なんかしていないわよ。構成員、違っ……入り浸っている人たちの見た目、完全にそっち系だからさあ」
バツの悪そうな顔で話すお姉ちゃんは、あたしに同意を求めてくるように視線を寄越す。
言いたいことはわかるのだけど、素直に頷くのはちーちゃんに失礼だと思って反応しないでおく。
「千歳ちゃん、たまには遊びに来ればいいのに。私としても、久し振りにあの子の顔を見たいと思っているのだけど」
と、お母さんがテーブルに食器を置きながら寂しそうな声で話す。
「あ、ごめんお母さん。言ってくれれば、あたしが運んだのに」
「いいのよ。たまの休日だもの。だらけるなとは言ったけど、手伝えとまでは言わないわ」
料理が盛りつけられた皿が次々に置かれていく。
「さて、それでは召し上がりましょうか」
「うん。いただきます」
「お腹減った減った。いっただきまーす」
なんて感じで家族三人での朝食が始まった。時刻は午前八時を少し回ったところだ。
カチャカチャと食器同士が触れる音が鳴り続く中、あたしは箸でレバニラを摘む。
レバニラ炒め以外におひたしや味噌汁、ご飯などがテーブルに並んでいて、あたしはバランスよく箸をつけていく。
「そういえば二人共、今日の予定は何かあるの?」
不意にお母さんから問いかけの言葉が出た。
「うーん? あたしは特にないかなー?」
「あと一時間で出かけるわ。この後撮影があるから、歩いて事務所に向かう。昼は外で食べてく予定」
「そう。実は私も昼前に面接があるのよね。どうする綾音? あなたもお昼は外で済ませる?」
「あ……うん。そうする。だから作り置きしなくてもいいからね」
あー、そっか。お母さんはパートの面接だった。
今更な話だけど我が家は母子家庭だ。
離婚時に受け取った慰謝料とお姉ちゃんのモデルの給料が、月々の支払いや生活費へとあてられている。
お母さんは娘に生活費を入れてもらうことに負い目を感じているらしく、最近になってバイトやパートの面接などを受けにいっていた。
けど若くして子供を産み、専業主婦としての人生を送っていたお母さんでは、自分に合う働き口が中々見つからないみたいだ。
「別に無理に探さなくてもいいのよ母さん? あたし一人でも二人を養うだけのお金はもらえているんだから」
「それは分かっているのだけどね……。あなたたちだって、いつかは嫁ぎ先を見つけて出て行く身なのよ。それを考えれば、いつまでも親が娘のすねをかじる真似は出来ないわ」
嫁ぎ先……か。
ユーヤと恋人になれれば、いつかは彼のお嫁さんとして嫁ぐことにもなるんだよね?
そうなったらマイホームを買ったりペットも飼ったりして、子供も一人……ううん。やっぱり二人くらいは欲しいなぁ。
……というか、子作りってことはユーヤとその……え、エッチなこともするんだよね……?
妄想のせいで身体が熱くなる。自然と食べる手も止まってしまう。
「綾はどうなの? 今後のライフプランは?」
「へ!?」
唐突に湧いたお姉ちゃんからの質問。あたしはそれにビクッと驚きながら顔を上げる。
あたしは思わず、「ユーヤと結婚して一戸建てを買うよ。あとペットはゴールデンレトリバーを飼いたくて、子供は兄妹で二人は産んであげたいかな」なんて言いそうになるも、とっさに耐えた。
危ない危ない。さすがにそんな人生設計を明確に考えているなんて重すぎる。むしろ気持ち悪いと思われそうだ。
「あたしみたいなモデル業兼任って訳にもいかないでしょうし、とにかく就職だけはやめときなよ。今時、高卒で真っ当な仕事に就くなんて無理な話だから。専門校か大学。どちらかにせよ、進学することを勧めておくわ」
「う、うん」
「綾音は勉強が出来るもの。お母さんも綾音は進学するべきだと思うわ」
あたしは箸を口にくわえながら考える。
進学……ね。まあ高卒は自分でも先行き不安なことは理解しているし、それが無難なのかもしれない。
でも本格的に、真剣に考えていかないといけない時期なのも事実だ。
もう二年生になったし、ユーヤとの恋云々を抜きにしても、自分の未来について向き合っていく必要がある。
あたしのやりたいことってなんなんだろう……?
まだ見当たらない将来設計に一抹の不安を覚えながら、あたしは朝食を平らげるのだった。