1話 かつての黒猫は眼鏡男子に恋をしていまして
ここからは『Nanasi√』ことヒロインである綾音編となります。
主人公の優也視点にあたる『Sin√』と同時間軸で進む物語ではありますが、綾音視点だからこそ焦点が当たるキャラクターや、優也視点では明かされなかった謎の解明などが描かれています。
いつからだったのだろうか? 自分の感情を表に出せなくなっていたのは……。
たぶん、父があの女とキスを交わしている現場を、たまたま見てしまったときからかもしれない。
それを母に言うべきか迷い、両親が代わり映えのない日常を過ごすせいで苦悩し続け……。
いつしかあたしは、ふとした拍子で自分の考えが筒抜けにならないよう、感情を押し殺すようになっていた。
そんな父も、母とは二年以上も前に離婚しており今は……。
家庭の崩壊によって心が荒んでしまったあたしが、とある一人の少年と出会った。
恋に落ちたのを自覚して破れ、それでも彼のために変わろうとしたことで、運命という名の不確定な存在が、これからあたしが歩むべき道を指し示してくれたのだろう。
ああ、そうだ。きっとそうに違いない――。
「なあ……。……、やや。なあ、あやや! ちゃんと聞いとるんか!?」
「――え!?」
その声にハッとし、あたしは我に返る。
目の前には眉間にしわを寄せ、あたしを睨んでくる女の子がいた。
そうだ。今は授業と授業の間の休み時間。
クラス内のざわつきが収まらない中、あたしは自分の席で、前の座席であるこの子と話をしていたのだった。
「え、えっと……」
「はあああぁぁっ! その反応、やっぱり聞いとらんかったんやろ?」
「あ、あはは……ごめんねミャーコ」
あたしは苦笑いしながらミャーコに謝った。
ミャーコ。本名は園田宮子。あたしこと鞍馬綾音にとって、一年生からの友人だ。
髪は赤茶色でひじほどまで長さがあり、ウェーブがかかった活発そうな雰囲気の女の子。
性格は底抜けに明るく、関西の出身ということで関西弁を話している。彼女が話す方言はあたしの管轄外なので、正直なところ詳しい出身はわからない。
そんな目の前の席に座るミャーコが、手に持つ雑誌を持って口を開く。
「せやから、こっちとこっちのコーデ、あやや的にはどっちがええと思うん?」
ミャーコは見開きになったページに載っている、二人のモデルを交互に指差してながら聞いてくる。
一人はSNSでバズり始めた新人の子。もう一人はあたしの姉だった。
まあ、モデルの情報はこの際どうでもいいとして、今はミャーコの質問に答えるとしよう。
「うーん、個人的にはこっちかにゃー。モデルの人抜きで、コーデとアクセのバランスがいいし」
とお姉ちゃんの方のページを指差す。
ミャーコには姉の素性は知らせていないので、この答え方が無難だろう。
「せやろか? ウチ的にはこっちが好きなんに……」
聞いた意味! ……どうやら参考にされることすらないようだ。
内心でツッコミを入れながら、あたしは再び彼へと視線を戻す。
あたしがボーッとしてミャーコの話を聞いていなかったのは、窓から外の様子を眺めている、その彼を見ていたからだ。
名前は進藤優也。あまり人付き合いはよくなく、女子生徒と話している場面など、おおよそ見ることのない男子生徒だ。
身長は百六十五センチほど。どこか億劫そうな、細く切れ長な目。
そして! そんな彼の視力を補強するための――!
メ・ガ・ネ!!
あー、やっぱいいなー眼鏡男子♡
てかてか、あのシンが眼鏡かけてるとか、マジやばたにえんじゃん!
着用し始めた理由は……まあ、だいたい予想がつくけど。あー、でもやばい! マジかっくいーよお!
っと、脳内でまでギャル化が進んできてるか……。これは少し危ない兆候だ。
あと『シン』とは、彼に対するあたしなりの愛称である。
しかし、真面目に彼と結婚がしたい。
付き合ってもいなければ、高校に入ってからまともに話した記憶もないけれど、あたしはシンのことがそれほどまでに好きすぎて仕方がないのだ。
「あややがまた妄想の世界に旅立ってもーた……」
「も、ももも妄想の世界ってなに!?」
ちゃんと聞こえていたミャーコの声に即座に反応するあたし。難聴系女子ではない。
「なんやなんやー? 見とった方に、誰か好きな男子でもおったんかー?」
「はいセクハラー。ミャーコの敗訴ね」
「なんでや!? 今のはセクハラ関係ないやろ!? というか、負けるの早すぎや! 反神ティガースでもゴールドゲームなるまでは粘るっちゅーに!!」
ミャーコのツッコミが入る。これが関西特有のノリというやつなのだろう。
そんなとき、チャイムが鳴り始めた。同時に教室の前側の扉が開き、担任が室内へと入ってくる。
このクラスの担任の先生は現代国語の教科担当でもあり、今から始める授業のために来たわけだ。
その先生がなにかに気付き、あたしの方に向かって歩いてきた。否、彼はあたしを通り過ぎて教室の後ろまで行き、未だに黄昏ているシンの元に辿り着く。
「そうか。なら先生のゲンコツとどっちが欲しい?」
「いや、そんなの答えるまでもないじゃないですか。もちろん彼女……え?」
振り返ったシンが驚いた表情をしていた。おそらく先生が側まで来ていたことに、今になって気付いたのだろう。
「そうかそうか。では俺のゲンコツと、今から授業を受けるために着席する権利。お前はどっちが欲しいんだ進藤?」
「……着席、出来る権利をください」
そのやり取りに注目していたクラス一同が、各所から笑い声を発し始める。
ミャーコも「あははっ! シンドー怒られとるやんけ!」と爆笑していた。
そんなシンがしょんぼりとしながら席へと戻っていく。
目で追っていたが、先生の「ほら! さっさと授業始めるぞー!」という声にならって、あたしは机から教科書を取り出す作業に移った。
このときのあたしは、まだシンに対して、密かな想いを胸に秘め続けることしか出来なかった。
それがなんの因果か後日、彼に積極的なアプローチすることになってしまう。逃してはいけないチャンスだと思えたからだ。
経緯はどうであれ、きっとあれは、気まぐれな神様があたしにくれた最後のチャンスだったのかもしれない……。