35話 鞍馬家の家庭事情
階段を降りる途中。一階で待ち受けるようにして立つ女性の姿を確認する。
スーツを着ていて、髪を後ろで一本に結った黒髪の女性だった。
「あなたは誰? 泥棒なら通報するわよ?」
その手にはスマホと果物ナイフが握られていた。
すでに番号は入力され、いつでもかけられる状態なんだろう。にしても、さすがにナイフは怖いな。
「と、とりあえず名乗らせてください。オレの名前は進藤優也って言います。綾音さんのクラスメイトで、今日は見舞いに来ました」
「あの子のクラスメイト? 進藤……優也……」
怪訝な顔をされてしまう。まあ、そういう反応をされるのはしょうがない。
「ええ。来たときは司さんもいたんですけど、急な仕事で出て行かないといけなくなったらしくて。代わりに、居合わせたオレが留守番と綾音さんの様子を見る役目を承りました」
「司の名前まで。……それを信じろと?」
「どうすれば信じてもらえますか?」
「そうね。とりあえず手を上げた状態で降りてきてもらいましょうか」
まるで犯人のような扱いだな。と思いながらも素直に従う。
一階に辿り着くと、オレは手を上げたまま、母親らしき人にブレザーをまさぐられた。スマホを仕舞った手でまさぐられているので、今もナイフを突きつけられている状態だ。
くすぐったさを必死になって耐えていると、胸ポケットから生徒手帳を抜き取られる。
それを開くと、オレから視線をそらさないようにしながら確認し始めた。
「……なるほど。名前は偽っていないか。確かに所属するクラスも一緒のようね」
「アレでしたら司さんに確認を取りますか? モデルの撮影中だと、電話に出られないかもしれないですけど……」
「……ふぅん? 司がモデルなのも把握済み……ね。いいでしょう。認めるわ。疑ってごめんなさい。あとナイフを向けたことも謝るわ」
「いえ、誤解が解けたようでなによりです」
どうやら納得してもらえたようで、オレは鞍馬の母親にリビングへと通された。
「あ、そういえばこの鍋は?」
ナイフを元の場所に戻すため、キッチンに向かった鞍馬の母親がそう呟いた。
どこに置くかを迷った末、オレは鍋や食器を流し台に置いておいたんだが、それを鞍馬の母親が気にしたようだ。
「すみません。食べ終わったあとに、オレがそこへ置いておきました。たぶん、鍋自体は司さんが用意したものだと思います。中は雑炊だったので、くら……綾音さんに食べさせました」
「……そう。もし彼が毒を入れていたら綾音は……」
「し、してませんから! まだオレの疑い晴れませんか!?」
「一応家長なものでね。我が子のためには疑ってかからざるを得ないのよ」
かちょう……? 課長は違うよな? なら家長の方か?
「それは家の長って意味の漢字ですか? ……あれ? じゃあ鞍馬の父親は?」
「離婚したわ。何年も前に」
「え!?」
離婚!? 鞍馬家って片親だったのか!?
そんな話、一言たりとも二人から聞かされたことがないぞ!?
「あなたのその驚き様、あの子たちからは聞かされていないみたいね?」
「え、ええ。そういう話は一切……」
「……そうね。その辺りの事情を少し話そうかしら」
そう言うと鞍馬の母親は、リビングのソファーまでオレを案内した。
「座ってちょうだい。飲み物は……今簡単に出せそうなのはコーヒーくらいだけど、それでもいい?」
「あ、はい」
「砂糖やミルクは?」
「あっ、えっと……両方とも入ったものを」
「分かったわ。ほら、立ってないで座りなさい」
「は、はい」
オレは二度目の着席を促されたことでソファーに座った。
突然のもてなしで緊張してるのもあり、オレは気を紛らわそうと部屋の中を見回す。
タンスの上に写真立てが置かれていた。
その写真を見ると、不自然に破られたような跡があって……。
「その写真、旦那のところだけ破り捨てたのよ」
「え? あ……」
視線を戻すと、鞍馬の母親がポットとカップが載ったおぼんを持って立っていた。
「私がね、あまり写真を撮るの好きじゃないのよ。だから家族写真が少なくて。まともなものがそれしかなくてね……」
「えと、その……」
「ん? どうかした?」
手に持っていたものがテーブルに置かれたところで聞き返される。
「あなたのお名前は? まだ聞いてなかったので」
「私? 私は沙苗よ。それで?」
沙苗さんがカップにコーヒーを注ぐ。それを見つめながら、オレは離婚のことについて尋ねた。
「沙苗さんはどういった理由で離婚を?」
「そうだったわね。その辺りについて話すと言った以上、まず最初に伝えておくべき話題かしら」
「でも、元はオレから聞きたいと申し出たわけじゃないですし、無理にとは……」
「構わないわ。前々から、あなたには知っておいてもらいたいと思っていたから」
沙苗さんはオレの目の前にカップを置き、オレの隣に腰かけた。
クラスメイトの母親と部屋で二人っきり。しかも同じソファーに座る状況とか、空気が張り詰めてなければツッコミを入れてるところだ。
いやいや! そもそもオレに離婚話を知らせておきたいって、どういう心境なんだこの人?
てか今の言い方って、以前からオレのことを知ってる口振りじゃないのか?
「原因から言うとね、旦那に浮気されてたの。職場の若い子と」
「あ……」
うっ……コメントしづらいなぁ。
そもそも、冷静に考えると赤の他人に離婚話する状況って本当になんなんだ?
「実は私と旦那、デキ婚だったの。運悪く……っていうとあの子に悪いのだけど、司を身篭っちゃってね。旦那の親にも私の親にも見放されて、絶縁されながらも結婚したわ。始めは、とにかく必死だった。司が生まれ、少し経ってくると生活も安定してきてね。そうなると、もう一人欲しいと思ってしまって綾音を身篭ったわ」
沙苗さんがカップに口をつける。
オレはそれに合わせてミルクとガムシロップのふたを開け、コーヒーに注いで混ぜた。
「それがいけなかったのかしらね……」
「え?」
オレは手を止めた。
沙苗さんはカップをテーブルに置くと、視線を下げて続きを話し始める。
「二人目となると育児にも慣れが出て、同時に司のときほど夫婦で協力することもなくなっていたわ。その頃から、あの人はまっすぐ家に帰らなくなった」
「それってやっぱり……」
「ええ。綾音が中学に進学する頃にはね。新任の子の教育係になったことで、仕事に集中……いえ、妻以外の女に夢中になってしまったんでしょうね」
結婚は人生の墓場とか聞くけど、こういう実体験を聞かされると、結婚も考えものだと思えてくる。
「ああ、ごめんなさい。こんな話、聞かされても困るわよね?」
「え? いや……あはは……」
「あなたに愚痴を聞いてもらいたいとか、そういう気はないの。ただ、司や綾音にはそんな思いをして欲しくなくて、それであなたには、このことを話しておきたかったのよ」
「……あの、気を悪くされたらすみません。その話にオレがどう絡んでいるのでしょうか?」
あくまで鞍馬の見舞いに来ただけだ。
そのオレが、どうして家庭事情を話されなきゃいけないのか、皆目検討もつかない訳で。
「だってあなた、進藤優也くんなんでしょ?」
「え? え、ええ。そうですけど……」
確かにナイフを向けられたときに名乗った。が、沙苗さんのその言い方には含みがある気がする。
「綾音が毎日のように話してるのよ。今日は優也と出かけたとか。何々を話してどう思った、なんてことをね」
「え?」
「あの子があなたという人間をどう想っているのかくらい、親としては、会う前から検討がついていたのよ。最初はあなたが本人かどうかが分からなかったから、念のために疑っていたのだけどね」
そう言って、沙苗さんは口元を押さえながら苦笑し出した。
オレはというと、鞍馬の気持ちが親バレしてることに対して呆れるべきか、それとも怒るべきか。なんて困惑することになったのだった。