31話 夢の終わり
「あ〜あ……地味子ちゃんで遊ぶのも飽きてきたところだし、ワンコくんの代わりになる新しいオモチャを探さないとな〜。バレンタインも近いし、やっぱり狙うのなら男か。あとは受験近いし、頭良い系のやつをからかって遊ぶのも面白そう♪」
犬飼はなんの悪びれる様子もない声で話す。
その一言一言で頭痛がする。視界が歪む。胃がきりきりと締め付けられる。
ああ、頭が痛い。目が痛い。胸が痛い。痛い痛い痛い痛い痛い……!
「俺はお前の幼馴染でよかったと思ってる。少なくとも俺に被害が飛んでこないからな」
「余裕かましてると健でもやっちゃうよ〜? やっちゃっていいすか〜?」
「やめろ。そういうことするなら、今後お前の相手はしてやらないからな?」
「健のいけず〜。……じゃあじゃあ、新しいオモチャのことはいいからさ。そ・れ・よ・り・も今はさぁ、健とのお楽しみが先なのぉ♡」
「ったく」
そう話してすぐ、水気を含んだ音が聞こえてきた。
「んっ、あ……ちゅ……♡」
犬飼の悩ましげな、熱のこもった声が耳に届く。
その音や声を発している行為がキスによるものだと気付くのに、さほどの時間もかからなかった。
「……なあ、さすがに人が来ねえ場所だからってここでは……」
「大丈夫よ。来てもあの隠キャな眼鏡ちゃんくらいだし。……何ぃ? もしかしてビビってんの? 図体でかいくせして、肝っ玉は小さいよね健」
「馬鹿言うな。常識的に言ってるだけだ。それに昨日した分でゴムは使い切ってるんだぞ」
「あはっ♪ 仕方ないじゃん。他のやつらと違って、健との相性が抜群なんだからさ〜♡ さて、ここで朗報。なんとお姉の部屋に残ってた未使用品を、実は今持ってま〜す」
「おいおい。準備万端じゃねえか。どんだけしたいんだよ?」
ゴム……。いくらこの当時のオレでも、それが輪ゴムじゃないことくらい分かった。
ただの幼馴染なんじゃないのか? 彼氏って話は嘘だったんだろ?
なのにキスを、その先を……。そもそも、今日が初めてじゃないのか? 他の男子ともすでに?
ダメだ。何がなんだか分からなくなってきた。
あの女が心底気持ち悪くて仕方ない。吐き気が押し寄せてくる。
オレの脳内は、そんな感情によって埋め尽くされていた。
衣服の擦れる音と、犬飼の甘えるような気持ち悪い声が癪に障る。
いっそ、今すぐオレを殺して楽にしてくれよ。と神様に懇願すらしたくなった。
もう嫌だ! 早く終われ! やめろ! 聞きたくない! くっそ! くっそおおおおおッ!!
「つっ!?」
「なんだ!?」
ダンッという乾いた音が鳴り、二人の驚く声が耳に届く。その音は、目の前にある階段の壁に鞄が当たって起きたものだった。
オレがやったんだ。無意識に、持っていた鞄を投げつけていた。
「おい! 誰かいるのか!?」
健という男子の言葉。オレはそれに答えない。
人がいるんだぞ。中断して早く立ち去ってくれ。と目を閉じて必死に願う。
「あ〜♪ 隠キャ眼鏡ちゃんでしょ? ここに来るのあなたくらいだもんね〜? ……そうだ。性経験のなさそうなあなたのために、わたしと健のセックス見せてあげようか? 見ながらオナってもいいんだよ?」
「おい麻美!」
「ねえ、いるんでしょ隠キャの眼鏡ちゃ〜んっ?」
「眼鏡? それはあたしのことを言ってるの?」
「……へ?」
割って入った3つめの声。それはナナシのものだった。
「な、なんであなたが下から来るのよ? ……え? じゃあ上にいるのって誰……?」
「おい! いくぞ麻美!」
「くっ……!」
慌ただしく降りていく二つの足音。
やっと解放された。神様に祈りが届いたとか、そんなことすらどうでもいいと思えるくらい、オレは満身創痍になっていた。
「なんなの? ……あ、そうだ。シンは?」
慌てたように階段を上ってくる音がする。
そして視界にナナシらしき足が映り込んだ。
「シン? ……もしかしてあの女になにかされた?」
「……っ」
オレは息を吸い込む。
ダメだ。気付かれる。止まってくれない。と体育座りをしていたオレは、顔や声を隠すようにして太ももに頭を埋める。
「ねえ」
目の前にいるナナシがしゃがんだ気がした。
「……シン? ……え? 泣いて、るの……?」
「……っ……」
バレた。嗚咽がもれているのがバレてしまった。
「どうして? なんで泣いてるの?」
答えられない。ナナシは知らないんだろう。
あんなことをしているのを、オレが聞いたことを。
「ねえシン……」
もう何もかもが嫌になっていたんだと思う。自分の中のぐちゃぐちゃな感情をどうにかしたかったんだ。
今でも、このあとにナナシにした行為は最低なことだったと思ってる。
「くっ!」
「なっ!? 痛っ!」
「はあ! はあ!」
「し、シン……? 痛い……! なんで……!?」
オレはナナシに掴みかかり、押し倒していた。
仰向けで床に押さえつけられたナナシの顔が、痛みも合わさって歪む。
正直に言おう。このときのオレは、嫌悪しながらも二人の行為によって下半身が反応していたんだ。
その劣情をナナシにぶつけようとしていた……。
「シン……?」
オレは押さえつけたまま、ナナシの顔に自分の顔を近付ける。キスをするつもりだった。
荒い息を上げながら、オレは徐々にナナシの顔との距離を詰めていく。
「……うん、いいよ……シンなら」
オレの意図を察したナナシが目を閉じた。
「ナナ、シ……! ……あ」
唇が触れるか触れないかのところで、オレは我に返ってナナシから退いた。
ナナシが目を開け、ゆっくりと上半身を起こす。
「……シン?」
「ご、ごめんオレ……!」
泣いていた。静かに、ナナシの閉じた目から涙が流れていたんだ。
それに気付いてやっと、自分がどれだけ酷いことをしたのかを理解した。
「オレ帰る。ごめん。もうここにも来ないから。本当にごめん」
オレは落ちてた鞄を乱暴に拾い上げる。
「ち、違う! 別に嫌だったわけじゃなくて……! やだ……行かないでシン……! あたし、あたしはシンのことが――」
ナナシの言葉を振り切り、息を切らすほどのスピードで階段を降りる。
あいつが言おうとする言葉を聞きたくなかった。それを知る権利なんて、あんなことをしたオレにはないと思ったから……。
結局、オレはその日以降、屋上に繋がる階段を訪れることはなかった。
校内でナナシと顔を合わせても、互いに一言も交わすことなくすれ違うだけ。犬飼が相手でも同じだ。
更に月日が経ち、オレは受験も終わらせ、今通う高校にも合格した。
そして卒業式の日。なんとか見つけ出したナナシに無言で手紙を渡した。
あの日したことに対する謝罪の言葉を書き綴った手紙だ。
そんなものでナナシへの贖罪になるとは思えなかったが、せめて自分なりの謝罪をナナシに伝えておきたかった。自分でも酷いエゴだとは思ってる。
卒業後はナナシにも犬飼にも会ってない。そもそもの話、二人がどの高校を受けたのかも知らなかった。
でもこれでよかったんだ。オレはあの二人に関わらない方がいい。
もうあれ以上、ナナシのことを傷付けたくなんてなかったから……。
オレはそう自分に言い聞かせ、今ものうのうと生きてる。
積極的に近付いてくる女子は苦手になり、倉田のような裏表のない純朴な子が気になるようになった。
積極性の塊である鞍馬が、真っ直ぐな好意をオレに持っているのは理解してるつもりだ。
でも、どうしても犬飼の影が浮かんで、鞍馬に対して足踏みをしてしまう自分がいる。
それに『倉田を好きになったという気持ち』を自分から捨てることはしたくなかった。
犬飼のときとは違う。今度こそ『自分の好きになった気持ちに間違いはないんだ』と、信じたかったからかもしれない。
これがオレの初恋にして失恋であり、オレが鞍馬の気持ちに応えられない理由の一つだった。
不意に確信する。これから目を覚ますんだと。
やっとこの悪夢から解放されることに、オレは安堵と共に懐かしさに襲われる。
そんなノスタルジックな感覚も悪くないなと思いながら、オレはゆっくりと目を覚ました――。