27話 あの頃の自分
中学三年目の十二月――。
その頃のオレは、母さんが入院した本当の理由を知ったせいで、精神的にダウンしていた。
末期の癌。母さんの余命が半年だと知らされていたことで、うちの家族の日常は崩れていったんだ……。
仕事人間だった父さんは、入院後は母さんに付きっきりになり、家に帰ってくることはまずなかった。
ただでさえ希薄な親子関係が、この件で更に薄まったのは言うまでもない。
姉ちゃんにとっては、大学のセンター試験が控えてる大事な時期だった。
夜遅くまで予備校に通う毎日。家のことは最低限していたが、家事は主にオレの担当になっていた。
勉強のストレスに加えて母さんの癌まで発覚したことで、姉ちゃんは必要以上に神経質になり、オレによくあたっていたっけ。今だと考えられないほどに。
オレもオレで高校受験が控えていて、誰もいない家に帰っては一人で食事や家事をし、勉強に明け暮れる日々を過ごしていた。
そんな生活に嫌気が差し、気晴らしとして立ち寄ったのが、誰もいないばずの学校の屋上だったんだ。
「……なるほど。それがシンがここにいた理由」
「ああ。家に帰っても勉強する気になれなかったからなぁ。それに、あまり人にも会いたくなかった。ここは薄暗いけど、蛍光灯がちゃんと点くから勉強も出来るし」
「あたしには会ってるけど? それに勉強するには不健康な場所。寒い」
「……うーん、まあな」
ナナシと出会ってから一週間が経っていた。
互いに相手の素性には一切触れず、廊下で見つけても知らぬ存ぜぬですれ違うような関係。
オレたちが話をするのは放課後だけだ。屋上に出る扉の前にある、この開けた空間で過ごすときだけだった。
最初の内は、オレが階段を登ってくるのを見るたびに「またなの?」と表情が読めない顔で聞いてきたナナシ。
なので、オレはそんなナナシを納得させるために自分の家庭環境を教えていたんだ。
「お前は、ナナシはどうしてここがベストプレイスなんだ?」
「言ったはず。あたしは自分のことをしゃべる気はないと」
「オレはしゃべったんだが」
「聞きたいとは言ってない。シンが勝手に話した」
ナナシはオレの言葉を右から左に流しながら、文庫本を読みふけっていた。
まあ、そりゃそう返されるって話なんだがな。
当時のオレとしては、例えこいつ相手でも、話すことで楽になりたいと思っていたんだ。
「そもそも、なんであたしのことを知りたいの?」
「いや、なんか気になったからだけど」
「ふーん? じゃあ、あたしに関することを話す必要性は皆無だ。……でも、もうシンがここに来ること、とやかく言うつもりはないから」
「ん? えっと」
「黙って。話は終わった」
なんて感じで、オレたちの噛み合わない空気に包まれる放課後は続いていく。
そんな放課後に変化があったのは、二学期も終わりに差しかかった頃だった。
ある日、いつも通り暗めな蛍光灯が差すだけの階段で、オレが過去問を解いていたときのことだ。
目標としていた勉強量を終えたとき、隣からナナシの呼吸が聞こえることに気付く。
「ナナシ?」
そちらを見ると、壁の角にもたれかかる形でうずくまり、ナナシは寝息を立てていた。
目をつむって文庫本を抱える姿からは、いつもの生意気さは見当たらず、むしろ清楚で文学的な女の子みたいだと、思わずそんな感想を抱いてしまうほどだ。
「んん……」
けど、ナナシは身震いをするように身体を丸め、再び寝息を立て始める。
時期は冬。暖房がある訳でもない階段に居座ってるオレたちにとって、この場所は確かに冷える。
加えてナナシは身体が汚れないよう、身につけていたジャンパーを足元に敷き、その上に座っているのだから。
「……ったく。仕方ないなあ」
なので、オレは着ていたコートを脱いでナナシにかけてやったんだ。
まだ何枚か着込んでるし、カイロの予備もあるから大丈夫だろう。
そう思いながらオレは休憩を終わらせ、もう一度問題集を解くことに集中する。
しばらく経った頃にナナシが目を覚ました。
あいつは小さくあくびをしながら、訳が分からないといった顔で、オレがかけてやったコートを見つめている。
「起きたか?」
「あ……うん。……これは?」
「そのまま寝てると風邪引くと思ってかけてやった。ありがたく思えよ根暗眼鏡」
「……えっと?」
ナナシはキョトンとした顔でオレとコートを交互に眺める。
「どういう……こと?」
「ん? だから風邪引いちまうだろ? 寝てる間に」
「え?」
「だから! そのコート、オレが着てたやつをお前に被せてやったの。アンダスターン? お? 今の発音よくね?」
寝起きとはいえ、こいつの反応の鈍さはすごいな。
「あとさ。特に理由がないのなら、図書室とかで勉強しないか? ここ寒いし」
オレはわざとらしく肩を抱いて、寒いぞアピールをする。
でコートを抱いたまま、相変わらず何を考えてるのか分からない表情をするナナシだったが。
「そこは無理。この時期のこの時間、結構混んでる。空き教室だと電気点けたら教師が飛んでくるし、あたしはここがいい。シンは好きなところに行けばいい」
と辛辣な言葉を返してきやがった。
「ひでぇ……。このシンさんでも手厳しいことばかり言われると泣いちゃ――ふぁっくしょん!」
オレはナナシから顔をそらしてくしゃみをする。
鼻をすすりながらナナシの姿を視界に収め直すと、あいつはイヤそうな顔をしていた。
「とりあえずこれは返す。もう暗いし今日は帰る。それじゃ」
と言ってナナシはオレにコートを渡すと、さっさと階段を降りて帰ってしまった。
「やっぱりひでぇ……。なんだよなんだよ。礼の一つもなしかよ」
結局その日、オレも家へと帰宅したのだが、問題は次の日だった。
「三十八度七分……。風邪だね優」
「ごめん姉ちゃん」
「謝らないでよ。謝るくらいなら最初から風邪なんて引かないで。この大事な時期にうつされたりしたら困るから」
「……うん。分かった」
オレは翌日風邪を引いた。理由は、薄着になって寒い場所で勉強をしていたから。
まあ、当時はナナシを責める気はなかったが、今思うと理不尽だと思えてくる結末だ。それに……。
「お願いだから迷惑かけないで。わたしの勉強の邪魔にならないで。食べたいなら自分で作って。タオルや飲み物は自分でなんとかして。お母さんに加えてあなたまで死んだら、わたしの人生はぐちゃぐちゃになるの。だから死ぬならセンター試験が終わってからにして。本当……なんでこんなやつの面倒をわたしが見なきゃいけないの……?」
そう言って姉ちゃんは部屋から出て行った。
今とはまるで違う。オレに対し、こんな風にキツい言葉を当たり前のように浴びせてくる人間。
それがこの頃の姉ちゃんだった。
受験のストレスや母さんのことだけじゃない。姉ちゃんが思春期をすぎた辺りから、オレたち姉弟の仲がズレ始めたせいだ。
母さんの死をきっかけにして今では変わってくれたが、改めて思い返すと、中々容赦のない責め方をされてたんだなと震えてくる。
結局、その日も合わせ二日ほど学校を休み、オレはまた放課後に屋上を訪れた。
扉は施錠され、人が用事で訪れる教室すら周囲には存在しない寂れた階段。その一番上のスペースに、この日もナナシはいた。
「よう」
「……え? し、シン!? なんで!?」
ナナシが驚いた顔をして立ち上がる。
「いや、日課だから来たんだが」
「だって! 昨日も一昨日もシンが来なくて! あたし、あんな風に接したせいでシンに嫌われたんだと思って……!」
「え? あ? ……うん? いや、実は風邪を引いちまってさ」
「……風邪っ? そう、だったんだ……」
半月経って初めて見た。あいつが驚く顔を。
それまでポーカーフェイスで固まっていた顔が面白いくらい変わる。
もしかしたら、やっと本当のナナシを見れたのかもしれないと、オレは自然と笑みを浮かべていたんだ。