瀕死のスルタン
崩壊暦215年10月9日19:46
スルタン・サッダームはダマスカスにある。ユースフ元帥はスルタンが籠る地下壕に帰参した。
「わ、私はこれから、どうすればいいんだ?」
スルタンは震える声で言った。
「先程大日本帝国からあったように、和平を求めるべきでしょう。我々は、負けたのです」
「負けた…負けた、のか?」
「はい。最早、我が軍に国土を防衛する力は残されていません。リヤドは既に落城、他の都市は機能不全で、艦隊へはロクな補給も行えません」
「は、はは。そうか。そうか…」
スルタン・サッダームは、乾いた笑い声を上げたきり、かつての気性を全く失ってしまった。
リヤドは、ダマスカスでの決戦に勝利した後に奪回する計画であった。故に、その決戦で敗北すれば、もう為す術はない。ただソビエト共和国軍が跋扈するのを眺めるしかないのだ。
また、ダマスカスにて始まった反政府的なテロは各地に飛散し、軍部にそれら全てを抑える力はなかった。
戦争に負け国内の統治すら崩壊した。アラブ帝国は今や完全に瓦解してしまったのである。
「陛下、もう一度お聞きします。ソビエト共和国及びローマ連合帝国に講和を持ち掛けましょう。宜しいですか?」
スルタンは小さく頷いた。
「陛下、ここは安全ですが、他は保証出来ません。くれぐれも、ここから出ることはありませぬように」
「わかってるさ」
「後のことは、このユースフにお任せ下さい」
ユースフ元帥は退室し、名ばかりの大本営に向かう。暗い地下には、疲れきった人だけがあった。
さて、ユースフ元帥はその扉を開く。その中には彼の部下がいる訳だが、加えてそうではない者がいた。
ユースフ元帥の予定にはない人間である。もっとも、その正体だけならば、それが纏った黒い外套が教えてくれる。
「屍人の男、何の用ですかな?」
「これは、あなたがユースフ元帥閣下ですか?」
外套の下から覗いたのは若い男の顔であった。全てを見透していると言わんばかりの不敵な笑みを浮かべている。
「ええ。私がユースフ元帥ですが?」
「私の名はヘイムダル、まあし私が何者かというのは、お話しするまでもないでしょう」
「それで、あなたのようの人が何の用ですかな?」
「簡単に言えば、和平の仲介にやって参りました」
「ほう?」
それはユースフ元帥の予想から外れた回答だった。
ここで和平が成ったとして、損をするのは彼ら屍人だ。彼らの望むような停滞した世界を維持するには、人類を泥沼の戦争に引きずり込むのがよかろう。
ではどうして彼らは和平の仲介などと言い出すのか。
「信用してもらえてないみたいですね」
「人を簡単に信じてはならないのは、人間関係の基本では?」
「まあ確かに。では、こうなった経緯を説明しましょう」
「どうぞ」
「まず、我々の行動原理が世界の現状維持であるのは、ご存知の通りです。そして、今回我々が仲介人の役を買って出たのは、単にそれが我々の目標の為の最善の手段であったからです。
世界の秩序は、日米が開戦した日から、急速に崩れ始めました。人類と我々の関係だけでなく、人の勢力同士も均衡もまた我々の秩序には必要でしたが、それはもう崩れてしまった。
おまけに人類は、半信半疑とは言え、我々の秩序を知ってしまった。
現状の体制をそのまま維持することは、殆ど不可能と言っていい
そこで我々は、新たな世界を創造することにしたのです」
「新たな世界?」
ユースフ元帥は今度こそ本当に怪しんだ。新たな世界なぞ、新興宗教団体かそこらの常套句ではないか。
「ええ。新たな世界です。我々は、地表を人類に返すこととしたのです」
「失礼ながら、そんなことをすれば、あなた方の居場所はなくなるのでは?」
「いいえ。我々は、我々だけの領域国家を建設するつもりでいます。これは、我らのお姫様も了承した計画です」
「領域国家とは、本気でやるおつもりですかな?」
地球上の如何なる土地も、どこかの国が本来の領土と見なしている。領域国家などを造ろうとすれば、必ずどこかと衝突が生じるだろう。
ユースフ元帥にしてみれば、それは机上の空論そのものである。
「もちろん。具体的な場所は、オーストラリアと北米になるでしょう」
「紛争地帯ですか。それなら、確かに多少の可能性はあるかもしれません。しかし、もし彼らが反抗してきたら、どうするおつもりで?」
「そりゃ、もちろん…」
ヘイムダルは指で銃の形を作って見せた。そしてそこらを「撃った」。
「武力を以て独立を勝ち取ると?」
「ええ。我々には百万の不死身の戦士がありますからね」
ヘイムダルは不気味に笑った。
「なるほど。戦後構想はともかくとして、和平の仲介に関しては、願ってもないことです。宜しくお頼み申し上げます」
「お任せを」
そしてヘイムダルは去っていった。




