ダマスカス地下壕にて
崩壊暦215年10月5日17:56
「は?奴ら、何を考えているんだ?」
東條少将の演説を聞いて、スルタン・サッダームが最初に発した言葉はそれであった。
東條少将の口にしているのは、この世界の秩序をも破壊しかねない言葉だ。アラブ連合の簒奪者であるスルタンが壊そうと考えすらしなかったものを。
さて、スルタン・サッダームは取り敢えずユースフ元帥を地下壕に呼び出すことにした。
「これをどうする?元帥」
「どうするも何も、敢えて何かをする必要はありますまい」
「必要はないだと?」
「はい。仮に陛下が一人の市民であったとしましょう。それで東條少将の言うようなことを聞いたとして、それを素直に信じますか?」
「信じない、な」
東條少将が言っていることは確かに事実である。だが同時に、一般的な感覚からしてそれは荒唐無稽に過ぎる。
2世紀に渡った存続した世界の形が幻であったなどと言われて、普通の人間は信じるだろうか。ただの妄言だと思うのが普通の思考ではなかろうか。
ユースフ元帥はこのようにスルタン・サッダームの懸念を否定したのだ。
「陛下は、何もなさらないのが得策でしょう。下手に動かれれば、かえって民に不穏なる動きを招きます」
「そ、そうだな。私の心配は杞憂だったようだ」
「はい。この程度のことに心を動かされてはなりません」
「わかった」
東條少将の演説が終わった時点では、ユースフ元帥もスルタン・サッダームも、その脅威は無視出来る程度であると判断した。
だが、その自信を揺るがす事件がスルタンの地下壕の上で起こった。
「陛下、市内にて何者かによる攻撃がありました」
ユースフ元帥は報告に参じた。
ダマスカス市内にて不自然な爆発が発生し、それが何者かによるテロ攻撃であると判明したのだ。
「誰がやったんだ?」
「それは、目下捜査中であります。しかし…」
「まさか、東條少将に賛同するようなものではあるまいな?」
スルタン・サッダームは低い声で尋ねた。
仮にそうであった場合、スルタン本人の身にも危険が及びかねない。それに、彼のアラブ帝国が崩壊する可能性すら見えてきてしまうだろう。
「それは、わかりません。捜査中でありますので…」
「そ、そうだったな。軍と警察で共同し、事態に対処するように」
「はっ」
しかし、更によろしくない報せが入る。
ユースフ元帥のもとに通信が入ってきた。そしてその途中から、ユースフ元帥は苦虫を噛みつぶしたような顔になった。。
「何だった?」
「陛下、犯行を行ったと自称するものから、軍本部に通信があったとのこと」
「そいつらは何と?」
「その者は、『我々は人類を解放せんとするものである』と伝えてきたそうです」
「やはりか…」
このタイミングでこれまで一度もなかった反政府的な活動。その正体が東條少将に賛同する者であるというのは、確かに想像がついていた。
しかし、スルタン・サッダームには焦りが出ていた。彼は自身の地位か脅かされることを非常に恐れていたのだ。
「犯人は直ちに捕らえよ。軍も動員せよ」
「しかし、陛下、そのような過度な反応は、民に良い印象を与えません」
「テロリストが出たんだぞ。軍が出ても不自然には思うまい」
「はっ。なれば、御意のままに」
ユースフ元帥は、完全に納得した訳でかったが、そうしたところで別に問題はなかろうと、スルタン・サッダームの勅命に従うことにした。
だが、この行動はダマスカスに想定外の騒乱を引き起こすこととなる。
「何だと?反政府のデモ?」
「はい。そのようです。平和的なものですが」
それは決して過激なものでも何でもない。平和的な行進で、政府に事実を教えて欲しいと求めるだけのものだった。しかし、今ここで事実を教える訳にもいかず、対応に困るのも事実ではある。
「どうする?」
「相手をする必要もありますまい。適当に遊ばせておけばいいでしょう」
ユースフ元帥の判断は、このデモについては無視するというものだった。騒ぎを広げなければこれ以上悪いことは起こらないだろうと。そして、騒ぎは自然に沈静化していくだろうと。
だが、スルタン・サッダームはそうは思わなかった。
「いや、そいつらは軍で鎮圧せよ。我らに仇なす者は許すな」
「し、しかし、彼らは政府や陛下に抗うようなものではありませんし、軍を動かすようなものでは…」
「ならん!全ての不穏分子は摘み取らなければならない」
「陛下、本気ですか?そのようのことをすれば、何が起こるか…」
「これは勅命だ。元帥は黙って従え」
スルタン・サッダームは聞く耳を持たなかった。これまでの聡明な姿と比べれば、まるで別人になってしまっていた。
「…陛下がそう仰られるのならば、その御聖断を信じましょう」
かくして、ユースフ元帥はデモ隊に対して武力による制圧を開始した。それが恐らく敵を利すると理解しながら。




