俘虜やその他諸々に関する交渉
「では、回線、開きます」
「ああ。やってくれ」
戦艦ソビエツカヤ・ロシアの会議室に集まった一同が緊張しているのは、その通信の相手が日本軍だからである。
平時なら何も考えずに操作するパネルが、今日ばかりはパンドラの壺のように押す可からざる何かに思えた。
「ズドラーストヴィチェ(こんにちは)、ソビエト共和国軍の皆様」
応答してきたのは、見るからに高位の将官であった。しかしその雰囲気は一般的な日本兵とは違い、どちらかと言うと貴族的な印象があった。頭に被った二角帽が特に目立つ。
その後ろには副官と思しき人々が数名。こちらと同様の配置である。
「私は大日本帝国近衛師団の鈴木大将です」
「ソビエト共和国国家人民陸軍のジューコフ大将です」
「まあここは戦場ではありませんし、肩の力を抜いて話しましょう」
「そ、そうですね」
思っていたのの数倍にフレンドリーな態度に、ジューコフ大将は寧ろ強張ってしまう。あるいはそれすら鈴木大将の作戦なのかもしれないが。
「もっとも、私が今イルクーツクにいる時点で、あなた方からしたら安らげなどしないでしょうが」
「ははは。なかなか面白いことを仰りますね」
「おっと、これは失敬」
まあ根本的に仲良くはなれない。だが、今こうして話し合いの席についているだけでも十分ではある。
「ふう。早速ですが、クラミツハという兵士を、ご存知ですか?」
「もちろんです」
「では、彼女が今我々の手にあるということは?」
「それも知っていますよ」
「良かった。それなら話が早い」
一応の確認である。クラミツハは自らを傭兵と呼んだが、それが方面軍レベルの取引かは判然としていなかった。直に聞く方が早い。
「まずは彼女の状態について聞かせてもらえますかね?」
「はい。それについては、ロコソフスキー少将、頼む」
「承知、しました」
ジューコフ大将は、クラミツハについて最も良く知っているのはロコソフスキー少将だろうと、彼に話を振った。
ロコソフスキー少将は現状を簡潔に語る。その予定だったが、ロケットランチャーで撃って体を真っ二つにした下り、つまりかなり序盤の方で、女性の驚いた声が聞こえた。
「どうされましたか?」
「い、いや、死にますよね、それ」
「確かに、それもそうですな」
「え、え?」
ロコソフスキー少将は困っていた。上手な対応が全く思い浮かばない。
この情緒豊かな女性に比べると、クラミツハの何と話しやすいことか。クラミツハとこの女性とは、別の生物なのだと考えた方が良さそうだった。
「少将、取り敢えず話を進めたらどうだ?その方が分かりやすいだろう」
ジューコフ大将は言う。まあ確かに、質問に答えようと努力するよりそちらの方が効率的そうである。
そういう訳で、ロコソフスキー少将は、クラミツハの現状について語った。
「そうなのですね。ご迷惑を、すみません」
「誰しも普通はそう思います。気にされることはありませんよ」
「あ、ありがとうございます」
ジューコフ大将の慈愛に満ちた会話術、もしくはスルー術は成功した。話が逸れたが、自然な流れでクラミツハの状態を説明出来たのは都合がよかった。
「さて、このように、あなた方にとって、クラミツハを取り返す徒はあるわけです」
「なるほど。で、あなた方は何を望まれるのですか?」
話が早い。クラミツハを返す代わりに欲しいものはいくらでもある。
「まずは、最大の要求をしましょうか」
「ええ。どうぞ」
「まず、貴国に囚われている全ての戦争捕虜の返還。また今回の戦いにて拿捕された艦艇の返還、以上です」
「ほうほう。これまた大きく出ましたね」
「まあ最大の要求ですから」
たった一人の人間と交換するにしては巨大な代償だ。だがクラミツハはただの人間などではない。千の兵士に相当する価値がある。
「いいでしょう。その要求、全て受け入れます」
「え、ほ、本当ですか?」
ジューコフ大将も度肝を抜かれた。まさか、その回答だけは予想外だった。何なら交渉決裂の可能性の方が遥かに高いと思っていたくらいだ。
「ええ。その代わり、クラミツハは必ず無事に届けて下さいね」
「は、はい。本日中にでも船を送りましょう」
「では、この件はこれにて」
「そう、ですね」
重要だったのは、これで全てだ。本当に一瞬のうちに交渉は終了した。もっとも、これを交渉と呼ぶべきかすら疑問だが。
その後、両軍共に小さな艦隊を敵地に送り、捕虜の返還を行った。
但し、ジューコフ大将にとって誤算だったのは、イルクーツクの艦艇が悉く自沈していたことである。結局、飛行艦隊の中で鹵獲されたもの数隻が返ってきただけだった。
さて、ここら辺で西部戦線の動きは停止した。以後暫くは膠着が続くこととなる。
崩壊暦215年3月のことであった。
これで今章終わりです。




