人魚姫の姉は、泡にならない。
妹は馬鹿だ。馬鹿だった。
彼女が死んでから、私はずっとそう思ってきた。
かわいい妹が泡になってから、もうすぐ一年が経つ。
一年は長いようで短かった。絶望のあの日から、私たち家族の時計は止まったままだ。
あの時感じた心の痛みと衝撃は今でも鮮明に思い出される。
妹は人間ごときを助けるために、自らの命を差し出した。
妹が命がけで助けたこの国の王子、クリスは妹が失踪した後、あっさりと隣国の姫と結婚した。
言っておくが、その姫は王子を浜辺で助けた女ではない。
王子を浜辺で助けた女は街の修道女だった。そもそも王子と結婚なんてできなかったのだ。
クリス王子は生前の妹に言っていた。
「僕を助けてくれた人は結婚できない人なんだ。だから、僕が結婚するなら、君のような人がいいな」
思わせぶりなことを言われた妹は舞い上がった。
私たち家族の制止もきかず、甘言に翻弄されながら一途にクリス王子を想った。
そして最後は愚かにも命を失ったのだ。
結局、王子は政略結婚することになった。
政略結婚と言えど、相手の姫の評判はよく、美しい姫と賢い王子の結婚は国中でベタなロマンス話の題材になった。
もちろん、誰も妹のことなど顧みなかった。
そう。
クリス王子は恩人である妹が失踪しても平気で、幸せな日常生活を過ごしている。
絵にかいたような幸せな日々を。
これが本当に妹が望んだエンディングだったのだろうか。
私は今でも、到底納得なんてしていない。
クリス王子を殺してやりたいほど憎んでいるし、その気持ちは月日を経るほど強くなる。
しかし、普段堅牢な城に住む王子にこちらから手出しするのはさすがに難しい。
そこで、私は海に近づく人間の男に目をつけた。声をかけては溺れさせてウサをはらしているのだ。
完全なる八つ当たりだが、こんなことでもしていなければ精神が保てない。
人間の男は馬鹿だ。
ちょっと色目を使えば、ホイホイこちらについてくる。
そんな浮かれた男どもを溺れさせて苦しむ顔を眺めていると、クリス王子にささやかな報復をしているようで少し気が晴れた。
でも、まあ、少し、だ。
心のどこかでは、そんなことをしても妹が帰ってこないのはわかっていた。
クリス王子に大した仕返しになっていないことも承知している。
だけど、だったら、どうしたらいいのだ。
残された私たち家族は、どうやって心を整理していけばいいのだ。
私のかわいい妹を殺したあの男が今日も普通に笑って過ごしているかと思うと、頭を掻きむしりたくなる。
純粋で天真爛漫だった妹はもういない。
二度とこの手に返されることはないのだ。
私たち家族はあの日からめちゃくちゃだ。
父は当時、男手一つで私たち姉妹を育ててくれていた。母が早く亡くなっていたので、姉妹6人と父で家族の絆を確認しながら生きていた。特に末っ子である妹はみんなにとてもかわいがられていた。
彼女は私たち家族の幸せの象徴だった。
そんな中、突然突き付けられた理不尽な不幸がこれだ。
目に入れても痛くない最愛の娘がひどい死に方をしたことに、父は今だ立ち直れていない。
もしかして、王子を憎む気持ちは私たち姉妹以上かもしれない。
妹が泡と帰した直後の、憔悴した父の姿は忘れない。
それでも残された私たち家族は生きていかなければいけない。
せめて妹の無念を忘れないこと。
それが私たちにできる唯一の祈りなのだと、時々考える。
今日も海辺には愚かな人間どもがやってくる。
人魚の美しい姿を一目見たいと不埒な思いを抱いてくる男が多いけれど、中にはもっと強欲な輩もいる。
海の魔女が願いを叶えるとの噂をどこかで聞きつけ、会いたいと請うのだ。
本当に馬鹿。
差し出すべきものなどないのに、願いだけかなえてもらおうと期待する、その魂胆が図々しい。
人間ごときが魔女と引き換えられるなにかを持っているはずがないのに。
そうこう思いながら、海から陸をうかがっていると、波打ち際を歩く一人の男を発見した。
何かを探すようなそぶりのその人間は、人魚の見物に来た典型的な馬鹿なのだろう。もしくは、海底奥深くに住む魔女を探しにきた強欲だろうか。
どちらでも構わない。
私はあいつをいじめて、気を紛らわせるだけだ。
「こんにちは」
よそ行きの声で、私はにっこり微笑みかけた。
波打ち際に裸の上半身を出し、明らかに人魚のしっぽをこれ見よがしにちらつかせる。
これで単純な男は一発で落ちる。
「素敵な方ね。今日はお散歩かしら。暇だったら私とおしゃべりでもしていかない?」
豊かな金髪を、色っぽく見える角度でかき上げる。
この髪色はくしくも死んだ妹と同じ。
妹は「クリス王子がきれいな金髪だって褒めてくれるの」と無邪気に喜んでいた。しかし私は今、この髪で人間を誘い、ひどい目に遭わせている。そうするとなぜだかわからないけれど、一時は気分が軽くなる。
「……あなたは人魚なのですか?」
栗毛の若い男は、落ち着いた様子で私に尋ねた。
人魚である私を見ても、あまり興奮していないようだ。見れば身なりも割と整っている。
貴族……なのだろう。と、いうことは、それほど女に困っているわけでもないし、人魚見学なんて下世話な行楽を楽しむ人種でもない。
男は波打ち際に近づいてきたかと思うと、
なんと……下履きや靴が濡れるのも構わず、ずんずん海水をかきわけ、私の方へ進んできた。
「ちょっと、あんた濡れて」
「突然失礼します。あなたは人魚ですね。魔女のことはご存知ですか? 海の底には願いを叶える魔女がいると聞いたのです」
男は私の制止も聞かず、真剣な表情で私の側までやってきて、海中に跪いた。
ここは浅瀬だけれど、肩までずぶぬれだ。
この男は願いを叶えてもらいたい強欲組だったらしい。
「そうね、まぁ知ってるわ。魔女について詳しく聞きたい?」
「はい」
希望を持たせて突き落とす。
そんな嫌がらせもいいかもしれないと思った。
私は波打ち際から砂浜にずって上がって、栗毛の男を手招きした。
「魔女に願いを叶えてもらうには、タダってわけにはいかない」
「はい」
栗毛の男は、私の話を真剣な顔で聞きながら相槌を打つ。
と、いうか、手元の羊皮紙の切れ端にメモまでし始めた。
真面目そうなこの男、年は20歳くらいだろうか。生きていたら妹と同じくらいだ。
「あんた、いくつ?」
「20歳です」
「妹と同じ年だ。うちは年子で6人姉妹だから、私の方が一個上ね」
「そうなんですか」
男は一応相槌を打っているけれど、それ以上の反応はない。私に対して質問してくることもない。
なんていうか、こう……そっけないのだ。
はっきり言って、私は妹には負けるかもしれないけれど、相当な美人だ。
人間ごときに興味の端にもかからぬような態度をとられると、気分が悪い。
「近くで見ると、あなた、とてもかっこいいのね。私たち年も近いから仲良くなれそう」
男の頬の輪郭を、誘うように指先でなぞる。
男はビクリ、と身体を震わせ戸惑ったけれど、嫌がっている様子ではなかった。
「あ、あの……それで魔女のことなんですけれど……」
男は赤面しながら目を逸らし、慌てて話を戻す。
楽勝だな。
私は心で嗤った。
「いいわよ。あなたのことが気に入ったから何でも教えてあげる」
「ほ、本当ですか?!」
「でも、ダメよ。ここに通って私に誠意を見せないと。雨の日も風の日も毎日毎日、一年間欠かさず私に顔を見せにきて。そうしたら魔女に会わせてげるわ」
舞い上がらせて、苦労させて、そうして最後は海の底に沈めてやろう。
私が胸の内でほくそ笑むと、
「あ、……ありがとうございます!!!」
栗毛の男は心から嬉しそうに、何度も何度も私に頭を下げた。
彼は最後に立ち上がって私の手をとった。
「ちょ、濡れるわよ。海臭いし」
「本当にありがとう」
男があまりに無邪気に嬉しがるので、こちらが戸惑ってしまった。
なんだか、こいつ、誰かに似ている。
誰だろう。こっちが拍子抜けするくらい真っ直ぐで。
……ああ、わかった。死んだ妹に似ているんだ。
無邪気で人を疑わなくて……馬鹿なところが。
「ぼくはハンス。君は?」
「……ソフィア」
私の名前は頭がいい、という意味。
ちなみに妹はカタリーナ。純粋、という意味だ。
「ありがとうソフィア! とても優しい人に会えてよかった。 明日から必ずここに来るよ!! 本当にありがとうね」
ハンスは何度も何度も同じ言葉でお礼を繰り返し、踵を返した。
……明日、本当にくるかな。
私は値踏みするように、帰路につく彼の背中を見送った。
まあ、三日坊主ってとこかな。
だって明日からは稀に見る大しけの予定。
海のにおいと空の様子でわかる。
はっきり言って人間なら海に近づくこともできない荒天となるだろう。
まあ、来ても来なくでも、どっちでもいいけどね。
……なんか人間に意地悪するのも飽きてきたし、ここらが潮時なのかもしれない。
つまらないゲームはやめようかな。
ハンスがどうなろうと別にかまわないけれど、本当の馬鹿でないなら、明日はここに来ない方がいい。
波にさらわれたって、こんな広大な海では骨のひとつも拾ってやれない。
次の日の朝。
さすがにこんな早朝にこないだろう、と思いつつも海面から浜辺を覗いてみると、いた。馬鹿ハンスが。
明け方から続く雨は暴風を伴い、今はまさに横から降っている状況だ。
こんな天気に海に近づくなんて、人間、まじ馬鹿だ。
ハンスは私が波間に隠れて呆れているのも知らないで、必死に私を探して海の方向を向いている。
本当もう勘弁して。
ハンスは、徐々に海に近づいてきて、とうとう腰まで海中に入り込んできた。時折くる大波にさらわれそうになりつつも、必死に自分の身体を流されないよう保っている。
早く高台に帰ればいいのに、荒れ狂う海のなか一生懸命私を探し、キョロキョロしている。
……私も、馬鹿相手に下らない遊びをしてしまった。
「あ!! ソフィアーーー!!!」
私が上半身を見せて居場所を知らせると、ハンスは嬉しそうに波をよけながら、波打ち際を走ってきた。
犬か。
「ちょっと! あんた、なんで来たのよ?!」
「だって約束したじゃないか!! 毎日くるって」
ハンスが無邪気に笑顔を浮かべ、叫ぶ。
声が暴風にかき消されそうになるけれど、負けない元気の良さだ。
てか、びしょびしょじゃん。人間って水にぬれると簡単に風邪ひく下等生物なんでしょ。
「……あほらし」
私は呟いて、背後から大波が来た時に適当に海に潜った。
馬鹿の相手、飽きた。かえろ。
海上の雷の音をBGMに、のんびり家路につこうと……したところ。
「ぎ……ぎゃーーーーーー!!!!」
優雅に海中を泳ぐ私の横に水死体……じゃ、なかった、気を失ったハンスが漂ってきた!!!!
馬鹿、ここに極まれり!!
こんな荒れ狂う海の中で、命がけの冗談やめてほしい!!
「ちょっと! ちょっと!! 大丈夫なの?! ねえ、ねえったら!!!」
私が海岸にハンスを引っ張り上げると、ハンスは劇画みたいにぴゅーっと口から水を吹きだして、ゴボゴボむせる。果てしなくダサい。
「ぐ、ごほっ、ソフィア……無事かい……?」
「あんたが無事かって話!!!」
「よかった……急に姿が見えなくなるから、てっきり溺れたのかと……。こんな大波じゃ、いくら人魚だからって言っても油断できないから。僕は泳ぎが得意だから助けに行こうと思ったんだ」
泳ぎ得意って、どんだけ?!
人魚相手に本気で言ってんの? 天然だったら相当なツワモノだ。
このバカにはマジでついていけない……。
「明日も来るね」
「……は?」
「明日も君に会いに来る。溺れたらいけないから、波の弱い所で待ってるんだよ」
……どうかしている。
「あんた……明日は東の河口付近にきてよ」
「でも」
「あたしはあっちに用事があんの?! わかった?!」
東の河口の防波堤は石垣が険しくて、正直、尾びれのある私は近づくのさえ、めんどくさい。
けれど、このバカがまた海岸に来て溺れたらかなわない。
「あとその時に、街のパティスリーのショコラケーキ買ってきて。二つよ。両方私が食べるから。わかったわね?!」
こいつを困らせてやろうと咄嗟に考えついた策は、行列店へのお使いだった。
別にケーキが食べたいわけじゃない。こいつにめんどくさい事をやらせてウンザリさせよう。そう思っただけだ。
二つ頼んだけれど、実は甘いものはそんなに好きじゃない。だから、どうしてもっていうなら、一つやってもいいけど。お使い賃として。
「じゃあ三つ買ってくるよ」
「え?」
「君が二つ。僕が一つ。一緒に食べようね」
……ハンスがずぶぬれになりながらニコニコ笑うので、私は呆れて言った。
「勝手にすれば」
わかったから早く帰れ。
そんな気持ちで言い捨てて、海中にざぶりと潜り込んだ。
なるべく溺れているように勘違いされないよう、注意して泳ぎながら、家路についたのだった。
次の日もハンスは来た。ケーキを3個持って。
て、言うか、その次の日も次の日も来た。毎日来た。
私はその度「あのケーキ屋のクッキー買ってこい」だの、「あの果物屋の珍しい果物買ってこい」だの、ここぞとばかりに遠くの人気店の逸品を所望した。
繰り返すが、私は甘いものは嫌いだ。(ちなみにハンスは結構好きらしい。とてもおいしそうにケーキを頬張る)
私はただ、わがままを言って、手に入りにくいものを所望し、男を困らせてやろうと思ったのだ。
そうすればもうここに来るのも面倒臭くなるだろう。
「ソフィアは甘いものが好きなんだね」
ハンスがなんの疑いもなく、キラキラ輝く瞳を向ける。
「僕、ソフィアが食べる姿を見るのが大好きなんだ。おいしそうに食べてくれて、本当に嬉しいんだよ。噛むのも惜しんで丸呑みするぐらい好きなんだろう?」
バカ。丸呑みしてるのは嫌いだからだ。
思い切ってそう言おうとしたけれど、あまりに無垢な笑顔でニコニコするので、言い返す気がなくなってしまった。
別にコイツと会う期間もそう長くはない。だから、私の食の好みなんて、ぶっちゃけ誤解されていても構わない。
「まあね……」
私がぞんざいに二つ目のケーキを口に放り込むと、ハンスは心から嬉しそうな顔をして、私を見つめた。
「ねえ、あんた、なんで魔女に会いたいの?」
ハンスが通い始めて半年。
私は何気なく尋ねた。
「兄が病気なんだ。治してもらいたくて」
ハンスは、恒例の二つ目のケーキを私にすすめながら呟いた。
お兄さんの病気を治す。願い事がそれって、ハンスらしい。
「兄はとても賢くて優しくて、本当に尊敬できる人なんだ。有能で跡取りとしても、とても頑張っている。兄を元気にしてあげたいんだ」
ハンスのことは詳しく聞いたことはないけれど、身なりからして高位貴族であるのは間違いない。
長男であるハンスの兄が家督を継ぐのだろう。人間の世界はそこらへん色々大変だ。
「じゃあ、ハンスは自由な次男坊ね」
他意はなかった。なんとなくそう思ったことを口にしただけ。
けれども、ハンスは少し顔を赤らめて、
「うん、そうだね。僕は自分の好きな人と結婚だってできる。兄は家の為に頑張ってくれてるけどね。だからこそ、僕が兄を元気にしてあげたいんだ」
……なんか、変な方向に話の水を向けてしまった気がする。
「ねえ、ソフィア、僕は」
「ストーーーーーップ!!」
私は緊張した面持ちで間を詰めるハンスの鼻先を、手の平で止めた。
ハンスの眼差しと体温が熱い。
なに、この甘気な雰囲気。
これじゃあまるで、ハンスは私に、
「あの、僕、ソフィアに話したいことが」
「あの、うちのお父さん、超がつくほど人間が嫌いでさ」
私は慌てて話を変えた。
ハンスが良からぬことを言い出しそうな気配を見せたからだ。
「お父さん……人間のことが?」
「そう」
私はケーキをどんどん口に運びながら大きく頷いた。
「うちの妹、人間の男にひどい目に遭わされてね。それ以来父は、人間の男を見ると発狂しそうなほどの怒りを抑えきれないのよ。一応海の王ともあろう者なんだけれど、難儀なもんよね。本当、困ったもんだわ」
暗に、お前も私に近づいたらただじゃ済まないよ、と釘を刺したつもりだった。
告白を断るのなら「私も人間嫌いだけどね」って言えば、簡単に済むとは後で気づいた。
この時はなんとなく父親のせいにしよう、そう思った。本当になんとなくだけど。
「…………」
「まあ、そういうことだから」
ハンスが深刻な顔で俯いた。
さすがに海の王を敵に回すのは怖いんじゃないかと思う。
かわいそうなくらいうなだれているけれど、これでいい。
人間と人魚がこれ以上交わっても、ろくなことはない。
「……帰るね」
私たちも、もう終わり。
もう来ないでいい、と私から言おうとした。
気まぐれで強欲な魔女がハンスの願いを叶えてくれるかどうかはわからない。
だけど、ハンスは人間にしては優しくて、根性があって、穏やかで、なんていうか、割といいやつだ。
まあ……私が自ら、魔女の家に赴いてやる事もやぶさかではない。
ハンスのお兄さんがどんな病気なのかはよく知らないけれど、治療だって早い方がいいだろう。
私が魔女から薬をもらってきてやればいい。
そうすれば、私は今後ハンスと会う必要もなくなる。
それが一番いいと思った。それなのに、
「……明日、また来るから」
ハンスは私の話を聞いていなかったかのように、呟いた。
「ねえ、明日は」
「明日また必ずここに来るから。ソフィアも来てくれるよね?」
切なそうな、懇願するような瞳だった。
捨て犬か、と思った。
私の返事を待ちながら、そのまま黙って私を見つめる。
私はふうーーっとひとつ、大きなため息をついた。
「……山の上のパン屋のシュトーレンを買ってきて」
気まずい空気を避けるように、ぽつりとつぶやくと、ハンスはパァ、とまた無邪気な笑顔を弾けさせた。
ああ、そうだ。
私、この無垢な笑顔に弱いんだ。
死んだ妹もいつもニコニコしていた。
本当バカみたいにいつも笑っていたんだ。
「明日、必ず買ってくるね」
ハンスはそう微笑んで、足取り軽く家路についた。
次の日。
いつまで待っても、ハンスはこなかった。
何かあったのだろうか。
正直だけが取り柄のハンスが約束を破ったことなど、今までで一度もない。
私が山の上のパン屋、と、言ったから行く途中に事故にでも遭ってしまったのだろうか。
それとも、山賊に襲われたとか。あの人はいつも海辺に場違いな、いい服を着てきていた。
もっとボロい服を着ないと目立つ、と注意したけれど、「これが一番地味なんだ」と、困った顔をしていた。金目のものを持ち歩いてそうな風貌はとても危険なのに。
本当にハンスは愚図。
どれだけ金持ちなのか、身分が高いのか知らないけれど、私のところに来るときはいっそ裸でいてほしい。
ハンスの持っているものは全てが邪魔だ。
金の刺繍のコートも珍しいお菓子もなんにもいらない。て、いうか、人間の男であることさえ煩わしい。
海に婿入りするには、丈夫な身体以外、なんにもいらないのだ。
……。
例えば、だ。
例えば、人魚の彼氏を気取りたいなら、そんな感じって、話。
それにしても、ハンス……遅い。
どうしよう。本当にハンスが来なかったら、私が魔女に二本足をもらって探しに行かなければならない。
二本足歩行は、ガラスの破片の上を歩くように痛いのだ。
実は私は一度経験がある。
陸にいるあの、人でなし王子の城まで歩いて行って投石してやったのことがあるのだ。
……。
つまらないことしてるな、と言われても言い返す言葉はない。
ただ、妹がどんな気持ちで王子に尽くしたのか、王子は真実を知るべきだと思ったのだ。
だから、わざわざ二本足にになってまで城に出向き、手紙を括りつけた石を投げこんでやった。
王子が手紙を読んだかなんて知らない。だけど、二本足歩行は痛いから、私はもうやらない。
でも、ハンスが来なければ仕方ない。二本足にでも三本足にでもなって探しに行かなければならない。
ハンスに何かあったらどうしよう。わがままを言って振り回したことを、私は生涯後悔するのだろうか。
ああいやだ、胸がザワザワする。ハンスになにかあったら、私……。
「ソフィア」
入江の岩の上で、胸をぎゅっと抱えてうつむいていた私に、ハンスの呼び声がかかる。
「なによ、ちょっと、あんた遅いじゃない……!」
怒ったつもりが安堵の笑顔と混ざって、顔が引きつってしまった。不細工だな、と恥ずかしい思いで顔を上げると、砂浜にはハンス……と、もう一人、男の人が立っていた。
ハンスと同じ栗毛。着ているものも高価そうだ。どことなく顔もハンスに似ている。
この人、もしかしてハンスの……
「兄だ」
ハンスが真面目な顔で私に紹介する。
ちょっと! 私、いきなり親族に紹介されるなんて思わなかったから、いつも通り半裸ですけど?!
「ちょっと、やだ、お兄様を連れてくるなら、先に言ってくれれば」
「クリス王子だ」
私のへらへらした顔が一瞬で凍る。
「僕の兄でこの国の第一王子、クリス王子殿下だ。そして」
ハンスが真剣な表情でため息を吐く。
「君の妹さんは兄の恩人だよね」
――――吐きたい。
世界が一瞬で真っ暗になった。嗅ぎなれたはずの海のにおいが、ひどく気持ち悪い。
「あんたが……クリス王子……」
唐突に告げられた、一番聞きたくないその名前を、口の中でつぶやく。
そして、ハンスが言った言葉とその意味を、もう一度自分の中で確認する。
こいつが妹を――――。
目の前に晒されたひどい現実を理解すると、ふつふつと私の中からどす黒い感情が湧き上がってきた。
粘度が高くてドロドロしたその思いは、最近浮かれていた私の心を、瞬く間に覆いつくした。
しかし、当のクリス王子は不自然なほど表情を変えず、ぼんやり海の方を向いている。
信じられない。
妹を死に追いやった犯人が、こんなにも平然としていられるなんて――――。
「ソフィア」
「騙したわね!!!」
なにを騙されたのかはよくわからないけれど、私は狂ったようにそう叫んだ。
実際は騙されたわけではない。ハンスは黙っていただけだ。
けれど、
「騙したのよ……」
妹は確実に騙された。本人はどんな気持ちで泡になったのかは知らないが、少なくとも私はそう思っている。
それなのに、王子はよくものうのうと私の前に現れたものだ。
「君を騙してなんて」
ハンスが青ざめた顔で言いかけた。
けれども、クリス王子は悠々とした態度で海を眺めている。
本当に……馬鹿にしてる……っ!!!
「クリス王子……! いいえ、人殺し! 妹を返せ!! 自分だけ幸せになって……。妹が……カタリーナがどんな思いであんたの側にいたかも知らないくせに!!」
私は入江の岩場から、王子に向かってあらん限りの声で叫んだ。
こんな奴の為にカタリーナが泡になったかと思うと、悲しみを通り越して、怒りが無尽蔵に湧いてくる。
二本足で同じ陸地に立っていたら、絶対に殺している。
私は血走った目でクリス王子を睨んだ。
「……カタリーナ?」
クリス王子はぼんやりと海を見ていたが、妹の名に反応してやっと私の方を向いた。
「そうよ! カタリーナ!! あんたが殺した人魚よ!! よくも妹をあんな目に遭わせて平気でいられるわね? 思わせぶりな態度ばっかりしながら振り回して……さぞ今は幸せでしょうね? カタリーナの純粋な心の上に成り立ってる日常は楽しい?」
妹の名を出した途端、クリス王子は正気に戻ったように私をまっすぐに見つめた。
最初は妙に焦点が合っていない目つきの王子だったけれど、今はいくらかマシだ。
「カタリーナ……すまない……」
「謝罪なんていらない。妹を返して」
冷たくそっぽを向いた私の……私のいる入江に、なんとクリス王子は服のままざぶざぶと入り込んできた。
「え」
何なの、この男?!
「クリス!!」
一心不乱にこちらへ向かうクリス王子にハンスが叫ぶ。
けれど、王子はなにかを見つけたように目を血走らせて、私の方に迫ってくる。
なに、これ。
すごく……怖い!
「カタリー……ナ。……カタリーナッ!!」
クリス王子は変な発音で妹の名を叫び、私の腕を掴んだ。
ハンスが王子を追って止めようとしていたけれど、間に合わなかった。
私は事態が飲み込めず、腕をものすごい力で掴まれたまま固唾を飲んだ。
痛くて振り払いたいけれど、クリス王子の目つきが明らかに尋常でないので、困惑したまま身体が固まる。
「カタリーナ……僕はなにも知らなかったんだ……。君のことも、君がしてくれた全てのことも」
クリス王子は涙を流した。落ちくぼんだ目から、大粒の水滴が次から次へと溢れる。
て、いうか、私、カタリーナじゃない。
怖い。クリス王子の眼差しが真剣だからこそ、気持ちが悪い。
なんで王子は私をカタリーナと間違えているの?
「兄は……心を病んでいる」
ようやくクリス王子の背後に追いついたハンスが王子の手をとり、私の腕からそっと外させた。
「数年前、兄はカタリーナと心を通わせていた。突然カタリーナが行方不明になった後も、兄は大変心配して方々を探させたんだ」
クリス王子の焦点がまた合わなくなった。
ぼんやり水平線の彼方を眺める。
「カタリーナはどこを探しても見つからなかった。けれども、兄に悲しむ暇はない。王位継承第一王子としてそれなりの結婚をしなければならない。兄は隣国の姫と結婚した」
「でも……でも、幸せだったんでしょう」
「王子妃はまあ、よくやっていた。兄も国政にいそしんで、つつがない毎日を過ごしていた。あの投石があるまでは」
私は全身の血の気が引いた。
「当初いたずらと思われた投石には、カタリーナについてこと細かく記された手紙が添えられていた。でたらめと片付けるには詳しすぎる彼女の熱い気持ちと最期の顛末が書かれていたんだ」
詳しく書いた。
だってそうしなければカタリーナが報われないと思ったから。
カタリーナがどれだけクリス王子を大事に思っていたのかを知ってほしかった。
「兄はそれを読んで大変なショックを受けた」
知らしめて、ダメージを与えたかったわけではない。
だけど、少しは苦しめばいいと思った。良心の呵責を感じ、幸せな日々に後ろめたさと感謝を感じればいいと――――。
「自分の幸せの礎をカタリーナが作ってくれた。そこに胡坐をかいている自分が許せなかったんだ。兄は眠ることも食べることもできず、徐々に心を病んでいった」
そうなることも考えなかったわけではない。そうなってもいいと思っていた。いや、当然そうなるべきだ。私も、私の家族も王子の不幸を望んでいた。思惑通りにことは運んだという事だ。
「死ぬことさえ考え、実行に移そうともした」
それなのに、全然嬉しくない。
嬉しくないのはなぜなのか。
「でも死にきれなくて今に至る」
ハンスは、クリス王子の両肩に手をかけた。
クリス王子は人形のように微動だにしない。
「僕はたった一人の兄を、もとの笑顔の兄に戻してあげたい。こんなことを君に頼むのは間違っていると思う。けれども、僕を魔女に会わせてはくれないだろうか」
ハンスはいつものはにかむ笑顔を封印し、真剣な表情で私を見つめる。
ずるい。こんな時に限ってしっかりしている。
ハンスなんて純朴でなにもできない弟みたいな――――。
「――――弟なんて思ったことないけれど」
「え?」
「ううん。なんでも。それにしても、あんたは勝手ね。魔女に会いたい? 魔女は……会えるかわからない。気まぐれで強欲な人だから。だけど、私の方がよっぽど気まぐれよ。はっきり言ってクリス王子がどうなろうと、私は知ったこっちゃない。あんたとも、もう会わないわ」
ハンスは表情に出さないように堪えていたけれど、確かに悲しんでいた。
ハンスは悲しい時に下唇を噛む癖がある。
私と別れる時間になると無意識にそうしていたからわかる。
「最後に明日、ここにきて。一人でね。兄さんの為とはいえ、あんたは欠かさず毎日私に会いに来てた。約束の報酬をもらう権利があるわ」
「毎日来ていたのは、兄の為だけじゃない」
ハンスはまっすぐに私を見た。
わかってる。
ハンスはバカ正直な人間なので、なにを言いたいのか言葉で聞かなくても、顔をみればわかる。
でも、その気持ちを私は安易に喜んではいけない。受け入れてはいけない。
それではきっと妹が浮かばれない。
「私が哀れなカタリーナの姉と気づいたのはいつ?……いや、あんたは知ってて近づいたのかしら。とんだ詐欺師ね。兄弟そろって」
「違うんだ、ソフィア」
「王子の血縁者と言葉を交わしていたなんて、今考えると反吐が出そう」
私はハンスに背を向けて、一度水面に顔をつけて目の周りを濡らした。
こうすれば泣いているのが分からない。
「妹を殺した奴の弟と、のんきにお茶をしていたなんて笑っちゃう」
「ソフィア」
ハンスが、今まで見た中で一番悲しそうな顔をした。
そんな彼の顔を直視したら、自分の中の大きな芯が揺れてしまう。
そう思って私はすぐに目を逸らした。
「明日、必ずここに来て」
私はそれだけ言い残し、海の中へ勢いよく潜った。
海上でハンスがなにか叫んだ気がした。穏やかで優しい彼が声を上げるなんて珍しい。
けれども、私は聞こえないふりをして泳いだ。
暗く深い海の底を目指して、一心不乱に――――。
「おかしな話だね。で、あんたは、そのクリス王子を治す薬がほしい、と」
魔女は物珍しい生き物を見るように、私を見た。
岩屋でできた自宅の中で椅子にもたれかかり、大きな身体を気だるそうに投げ出した彼女は、やれやれ、とため息をついた。
呆れた、理解できない、そんな風に言われた気がした。
「あんたには関係ないわ。代価は私の髪でいいわね」
私は妹みたいに大事なものは決してあげない。
髪はまた伸びてくるので坊主になるのなんて構わない。
「おや、まあ、あんたの自慢の金髪をくれるのかい? ご執心なことだ。王子なんて放っておけばいいのに。狂わせておけばいいじゃないか。その方が面白そうだ」
魔女は愉快そうに煽った。
私は、魔女のようにあいつらを気軽に面白がるつもりはない。もうこれ以上かかわりたくないだけだ。
クリス王子を治して、さよならするだけ。
一応約束だし、二度来られたらたまらないから、薬を押し付けるだけだ。
「別に、私のせいだと思っているわけじゃないけど」
私は自分自身に呟いた。
私の投石で真実を知った王子が狂った。
決して、やりすぎたとは思っていない。けれど、招いたのは意外な結末だった。
王子がひどい目に遭うのは当然の報いだと思うし、私には関係のない結果だけれど、そうなる過程で……王子は一体どんなことを考えたのだろう。
カタリーナの顛末を知って、クリス王子はなにを感じたのだろう。
カタリーナを失って、悲しんだのだろうか。
カタリーナのことを、どんなかたちでも、いくらかは愛していたのだろうか。
狂うほどには想っていた。そう理解していいのだろうか。
「薬はやるよ。だけど治るかね」
「治らないの?」
「治すのに必要なのは薬じゃない。赦しだ」
魔女は私の背後に回り、私の髪を掴んで、うなじの当たりでバッサリ切った。
そして、耳元で囁きながら薬の入った小袋を手渡す。
「効かなくても返品は受け付けないよ。だって治す方法は教えたんだからね」
私は小袋を握りしめ、無言のまま魔女の家を後にした。
私は家に帰って、家族の皆に、事の顛末を話した。
4人の姉たちは口々にクリス王子の悪口を言った。
天罰が下ったと喜ぶ者もいた。私がハンスと会っていたのを咎める者もいた。
父は最後まで黙って話を聞いていたけれど、ぽつり、と呟いた。
「明日は私も行こう」
父は心配なのかもしれない。
私が第二のカタリーナになることを恐れているのかもしれない。
でもそんな不安は杞憂だ。 私は二度とハンスと会うつもりはない。
と、いうか、会ってはいけない。
これは私の気持ちの問題ではない。
物事の道理なのだ。
「お父様が行ってどうするの?」
「お前が泡にならぬよう、見張らなければ」
馬鹿みたい。
賢い私が泡になるはずなどない。私はカタリーナとは違う。
踏み外したり、盲目になったりなどしない。
愚かな人間と交わした、小さな約束を履行しに戻るだけだ。
そう、決して、それ以外の目的はない。決して。
次の日。
入り江の海面に顔を出すと、すでに波うち際にはハンスが立っていた。
天真爛漫な彼からは一度も見たことのない神妙な面持ちで、私を待っていた。
一人でこいと言ったはずだが、なぜか傍らにはクリス王子も佇んでいる。
私は、彼らに近づくことなく、薬の小袋だけを投げた。
「王子を治す薬よ。人間が魔女の家に行けるわけがない。水圧でつぶされちゃうからね。本気で行くつもりだったの? 本当にバカね」
「ソフィア!」
ハンスは顔をくしゃくしゃにして、私の名前を呼んだ。
「ソフィア……! 君、髪が……」
みっともない頭は波打ち際に隠したつもりだったけれど、あっという間にばれたようだ。
最後くらいかわいい姿を見せたかったけれど、残念だ。
クリス王子は私に気がつくと、昨日の奇行の再演のように、私の方に向かってきた。
ハンスはそれを視界の端に捕らえているはずなのにとめもせず、私と王子をじっと見守っている。
「カタリーナ」
狂ったクリス王子は、腰までつかる海水を気にも留めず、私のそばまで近づいた。
「カタリーナ、すまない。君が助けてくれたなんて知らなかった。本当に知らなかったんだ」
クリス王子は、完全に私をカタリーナだと勘違いしている。
涙を流しながら、私の両手を握る。
「誰かを殺してまで助かりたいと願ったことなど、一度もない。愛するお前ならなおさらだ。今まであった誰よりも大切だった。そんなお前を犠牲にしてまで、私が生きていけると思ったのか? 私は最低の人間だ。お前を殺したんだ」
クリス王子はみっともないくらい泣きじゃくっていた。
必死に縋る姿を見て、私は思った。
クリス王子に必要なのは薬じゃない。
「死にたい。愚かな僕を罰してくれ」
赦し、だ。
「……許すわ」
「え」
「あなたを許す」
私は握られていた手をそっと外し、ためらいながらも、その手でクリス王子を抱きしめた。
王子はびくりと身体を震わせたが、されるがままに身を任せていた。
「あなたを許す。愛していたことに後悔はない。あなたが幸せに暮らすのが私の幸福。私の分まで幸せになって」
本当はわかりはじめていた。
カタリーナが満足のまま、死んでいったってことを。
泡に消えたことに後悔はなかったってことを。
その人の為ならば自分がどうなっても構わない。そんな人がいること自体が結局、幸せだってことを。
だけどそれを今さら認めるのは、都合がよすぎる気がした。
私は自分の幸せを通して初めて、妹の真意を理解したのだから。
「カタリーナ……」
王子はただ静かに泣いていた。
本当に彼を許せるかなんて、実際にはわからない。
だけど、王子は、カタリーナの死を共に悲しむことができる側の人間だ。それが分かっただけで、今は十分だと思う。
いつの間にか王子の横にはハンスが寄り添い、私から離れた王子の腕を支ている。
「ありがとう、ソフィア」
ハンスはとても穏やかに、そして少し悲しそうな顔で私に、
「ありがとう」
と、繰り返し、王子を陸に促した。
陸へゆっくり向かうハンスの後姿を見つめ、私は何か声をかけるべきか迷ったけれど、やめた。
ハンスはわかっている。
完全には癒えていない私の心の傷口が、ハンスに会う事自体でぱっくり開く可能性があることを。
だからハンスの方もなにも言わなかった。
このまま私たちは別れた方がいい。彼もそう思っているのだろう。
脱力するクリス王子を、ハンスは砂浜に座らせた。
クリス王子が完治するかどうかは、カタリーナの加護次第だろう。
これで全ては終わった。
カタリーナと王子の悲劇も。私とハンスの小さな恋も。
私は二人に背を向け、ゆっくりと沖に泳ぎ出した。
「ソフィア!!」
砂浜からハンスが叫んだ。ないはずの後ろ髪を思いっきり引っ張られた気がした。
だけど、このまま行こう。こんなひどい顔は見せられない。
「ソフィア!! ソフィア!!」
ハンスは馬鹿の一つ覚えみたいに何度も私の名前を繰り返す。
ざぶり、と水に飛び込む音がした。
もしかして追いかけてくるのかもしれないけれど、ハンスはやっぱりバカだ。
人魚相手に競泳を申し込んでどうする。
「ソフィア!! ソフィア!!」
今日は天気も良くて海も荒れていない。
泳ぎが得意と言うハンスなら、そのうち諦めて泳ぎ帰るだろう。
私とて、振り返るつもりはない。
もう涙と鼻水がひどい状況になっているからだ。
しばらく、ハンスの叫び声を無視して泳いでいた。
私の方が水中に入ってしまえばそれで済むのに、海面に頭を出して泳いでいるところに、自分の女々しさを感じる。
本当は追ってほしかった。
やっぱり一緒にいようと言ってほしかった。
だけど、もうハンスの呼び声はない。
いよいよ本当の別れがきたと覚悟し、思い切って振り返る。
すると……。
いない。広い海辺にハンスの姿がないのだ。
私は慌てて砂浜のクリス王子を見る。
クリス王子は顔面を蒼白にして、叫んだ。
「ハンス!!!」
クリス王子の視線の先を見ると、小さく波立つ海面が。
よくよく見ると、人の指先のようなものが、白い波の間でもがいている。
「あのバカ……ッ!!!」
また溺れてる! あいつ、本当に泳ぎが得意なの?
私はもがく指先を目指して、全速力で泳いだ。
ばたつくハンスの上半身を捕まえて支え、顎先を海面に出させる。
「ぐぶ、ごほっごほっ……!!」
「ねえ、あんた。今生の別れをギャグにするつもり? もう二度と海に近寄らない方がいいわよ。泳げないんだから」
「泳げないんじゃない。海底からなにかに引っ張られて――――」
言いかけた時だった。
ハンスの身体が、本当に何かに引きずり込まれるかのように、再び海の中に沈んだ。
私は慌てて水中に潜り込む。すると、
「お父様……」
海王である父が、ぐったりするハンスの足首を掴んで、こちらを睨んでいた。
「やめて!! お父様!!!」
「海の中で息もできない下等生物に、お前は入れあげているのか」
私は慌ててハンスの手首を取り、海面に上がろうとする。
けれども、身体は鉛に留め置かれたようにびくともしない。
「やめて!! 放して!! ハンスが死んじゃう!!」
「死ねばいい。クリス王子も最愛の家族を失う苦しさを味わえばいいのだ」
ハンスは完全に意識を失い、水圧に揺れている。
「だめよ! ハンスがいなくなったら苦しむのは王子じゃない! 私よ!」
私は猛スピードで海面に出た。そして肺に目いっぱい空気を吸い込み、ハンスの元に戻る。
ハンスはなんの反応もなかった。
けれども、私はハンスの口に自分の口を当て、一生懸命空気を送り込んだ。
溢れる涙がその作業の邪魔をする。嗚咽をするとうまく空気が入っていかない。
「ソフィア……」
「放して!! 放してよ!! ハンスが死んだら私も泡になる!!!」
私は狂ったようにハンスを抱きしめて、泳いだ。
水面を求め、上を目指す。必死で。とにかく必死で。
すると突然、ふ、とハンスの身体が軽くなり、海面に向かって浮上した。
「お父様……?」
私がハンスの足元を見ると、すでに父はハンスの足首から手を放していた。
父はとても、とても悲しそうな顔をしている。
「娘が二度、死ぬ姿をみたくない」
父はそれだけ呟いて、暗い海の底へ静かに消えていった。
私は切なそうな父の背中をただ見送った。かける言葉が見つからなかったけれど、今はとにかくハンスを助けることが先決だ。
彼を抱えて浜辺へ急ぐ。
砂浜に横たわるハンスは、微動だにしなかった。
冷たく冷えた体に、青白い顔。もちろん息はしていない。
私は自分の息も止まりそうなのを感じながら、必死に口移しで空気を送る。
「やめて! 行かないで!」
何度空気を送っても変化はない。ぐったりとした指先は動かないままだ。
「お願い! 一人にしないで! 私は泡になんてならないわよ?! あなたの為には死なないんだから!!」
そう叫んで、胸板を叩いた時だった。
コプリ、という小さな音とともに、ハンスの口から海水がこぼれた。
「……ハンス?」
私の呼びかけに、ハンスは咳込みで答えた。
大量に飲んだ海水にむせて、大きな咳を繰り返す。
「ハンスーーー!!!!」
私は、大声で叫び、豪快にハンスに抱きついた。
クリス王子が見ているけれど、関係ない。
良かった。それしか頭に思い浮かばない。本当に良かった。
彼が生きて私の側にいてくれたら、もう、とにかくそれだけで良い。
絶対に放さない。自分から手放すような真似は金輪際しない。そう心に誓った。
「ソフィア……」
ハンスは弱々しく私の首に手を回し、私のぼさぼさに切られた坊主頭を撫でた。
「髪……短くなったね」
直球で痛い所をつかれた。みっともないのはわかっているけれど、別に気にはしていない。髪は生える。
だけど、不細工なことをハンスの方から指摘されると、思いのほか凹むもので。
私は切なさをごまかすように、ハンスの胸倉を掴み、八つ当たりを兼ねて「あ〝? 悪かったわね?!」と、ガラ悪くにらみつけた。
すると、
「僕は短い髪が好きだ。僕のために短くしてくれたんだろう? 恋人である僕の為に」
突然の恋人認定に、殴ろうかどうしようか迷って振り上げた拳の行き所に困る。
「ソフィア」
ハンスがにっこりと微笑む。
「これからも一緒にケーキを食べようね」
本当は甘いものは嫌い。
王子だって、人間だって、嫌い。
だけど、
「……私が二つよ。あんたは一つ」
食べ続けてみたら、味覚は変わるかもしれない。
とりあえずケーキは好き嫌いしないで食べてみよう。そう観念した。
長いお話を最後まで読んで頂き、ありがとうございます(._.)精進します☆