2-6 ( 西洋哲学の先生の話 )
西洋哲学の先生の話
(理工学部の先輩の話は興味深かったものの本件にとって特に参考にならなかった。ところで衣装の話に出て来た人物に西洋哲学の先生という人物がいるのでそちらにも当たってみた。
ただし、先に断っておくが、この人は少しめんどくさい上に本件の筋に重要とは思えない。というかきっぱりと重要ではないと言ってもいい。読み飛ばしたとしても特に問題は無いだろう。しかしあえて排除しないでおく。)
*
代々木公園の伝説だと?もちろん知っている。
私を誰だと思っている?代々木公園の真偽定かならぬ茫洋とした噂を最初に証明してみせたのは誰あろう、この私だ。通常の場合、ああいった噂の真偽は最初に耳にしたものが確かめに行くものなのだがな、どうやら大衆には愚民が多いらしい、一人として行動に出ようとするものがいない。そのままでは噂は風化し、本来ならば得られるであろうものも得られないだけでなく、得られなかったという事実すら気づかずに愚民はその日その日を過ごすであろう。いいかな、超越への道はそこかしこに潜んでいるのだが、それを得られる者は極僅か、一握りの優れた認識の所持者だけだ。この私のようにな。事の真偽は私だけが決められる。
大いに嘆くべき事だが愚民はこの私の優秀さに気づいていない。私が歩くその場所その場所に於いて私は私の優秀さを遺憾なく発揮しているというのにこれはどうした事だ?道を歩けばその模範的歩行、道を尋ねられれば違える事などあり得ないような正確きわまりない道順示唆、そして極めつけは私の講義だ。誰かが大学に於ける私の講義を聴いたとしたならば、その者はその生涯に於いておおよそ考えうる限りの最大の栄光を手にしたのと同じ事なのだ。これ以上の栄誉と光栄を探し求める事は過去および現在、未来のあらゆる時間軸にわたって益無い行いと言わざるを得ないと何の憚りも無く断言しよう。
しかしそのことに気づく者は殆どいないようだ。どうやら私は生まれる時代を間違えたようなのだ。私はもっと後の時代に存在するべきだったのだ。少なくとも私の行いが然るべき評価をされる程度の未来には。
だがこの時代の人間がその事に気づかないのも無理は無いと言える。考えてみれば当然だ。私は余りにも高い天空から稲妻で語りかけているのだから地上の微小な存在にこの私の言語が理解できるわけが無いのだ。遠く天空に昇れば昇るほど地上からは小さく見える。そういう事だ。
噂についてだが、これは私の耳に届くまでに様々な人間の耳を経る。本来ならばどのような小さき噂であろうと、それを聞き取った者は何よりも優先して私にその噂を聞かせるべきなのだ。如何に微細な言動であろうと私は他の誰よりも丁重に扱う。言葉の隅から隅だけではなく、裏側まで探るのだ。いいかな、言葉は語られた事がすべてではない。語られた事の裡より語られなかった言葉を聞き取るのだ。それこそが超人へと至る第一歩、そこにはおそらく語った本人すらも気づいていない深淵な事実が潜んでいる。愚民には無理だが私ならば可能だ。
それにもかかわらず噂はそれが発してから幾らかの時間経過を経て私の耳に届く。大方は電子掲示版によってだ。そのため、あるべき順序を無視して届いた噂は解決済みのものばかりで私の出番は無い。だがそういったものは最初の時点に於いてからして既に私が出る程の価値は無かったものだ。あるべき姿と言ってもいいだろう。ところが時折、未解決の噂が私の元に届く。当然の事だが、いずれも愚民の手には負えないものばかり。私が動かなくては事は動かない。私が時を進めるのだ。
その噂の一つが、その代々木公園の噂だ。ただし噂と称する事はふさわしくない。愚民が手を伸ばす事すらままならなかった噂が私の元に届くのだ。ならば噂ではなく、伝説と呼ぶ事こそがふさわしい。伝説を扱い生み出し、解を与える事ができるのはこの時代でただ一人、私のみだからだ。伝説とは通常、偉大な事柄が時を経て口伝えで全世界的に拡大し囁かれ讃えられたものであり、時間による風化、否、濾過によってのみ可能になる事柄なのだ。その内容は過去にしか存在し得ない。然し例外がある。いうまでもない、この私が例外だ。
代々木公園の伝説だが、私の耳にはこのように届いた。
”あの泉になんか投げ込むとなんか起こる”
と。どうだ?完璧ではないか。このような曖昧模糊とした言説を実行に移す事ができるのは私を措いて他には居ない。恐らく愚民どもはこの言説を愚説と断じ、せせら笑っている事であろう。せせら笑われているのは自分である事にも気づかずにだ。然し私はそういった言説にも敢然として立ち向かう。今回のようにだ。
この伝説を一聴したとき、私は賢明にも次の事に思い当たった。この言動には如何なる証左も示されていないであろう、と。私は即時、電子掲示版を探査した。すると、当然の事だが私の正しさが証明された。この言説ははたして如何なる証左も示されていない、と。
それならばこの私が動く他は無いであろう。早速、代々木公園に私が訪れるという栄誉を与える事にした。ただし、何も持たずに訪れてはならない。泉に投げ込むべき物が必要だからだ。私は早速、己の研究室を見回した。するとそれは簡単に私の目に飛び込んできた。きらびやかな光を放ち、神々しいまでの力強さを裡に秘めた聖剣、エクスカリバーだ。
私はよくこういった供物を受け取るのだ。私の研究室の横に慎ましやかな広場があり、供物はそこに供される。炬燵や電子レンジ、小型冷蔵庫などだ。供物は直接私に供される事は無い。私に贈られる供物はどういうわけか多少の欠陥がある。炬燵は足が足りず、電子レンジは皿が無く、小型冷蔵庫はコードが切断されている、などだ。これらを供する者はそういった欠陥を自ら恥じ入り、黙って置いて行く他に私に供する手段を知らないようなのだ。私以外の者がそれらの欠陥を備えた品々を供されれば成す術の無い己の無力に愕然として立ち尽くすであろう。だが、私ならば足りないものを補って使用する事ができる。そういった供物の一つに今この私が述べた、聖剣エクスカリバーがあったのだ。
なぜエクスカリバーとわかるかだと?愚問だ。そんなものは見ればわかるであろう。このように神々しいエネルギーを裡に蔵する剣など他にあるまい。然し愚民にもわかるような標も付されていた。柄に”エクスカリバー”と書かれた札が巻き付いていたのだ。これでは如何に愚民といえども間違える事は無いであろう。言うまでもない事だが、ここにあつまるのは聖剣エクスカリバーだけではない。見ろ、これは天之叢雲という刀だ。これも私に献呈されるべく広場に鎮座されていた。この柄にもある。見えるだろう、天之叢雲、という文字が書かれた札が。小さく四桁の数字があるが、これは敵に与えられるダメージ数だ。然しこれはつい先頃、供された物だ。代々木公園にはこれではなく聖剣エクスカリバーを持って行った。伝説を目にするのだ。当然だろう。
そうして私は聖剣エクスカリバーを携え代々木公園に至った。伝説に於いて、私がエクスカリバーを投げ込むべき当該箇所は泉だが、代々木公園に泉は無い。そんな事は当然知っている。然し噴水ならばある。噴水とは天空へ水を恒常的に放つ事で清々しい精気を周囲を放つ装置だが、恒常的に放つといっても一時の休みも無く放ち続けるわけではない。定期的に放水を停止するのだ。放水の停止時間は噴水の盆は静まり返る。すると見よ、それはもはや噴水ではなく、泉と呼ぶべき配置物があるではないか。これこそが伝説に於ける泉であり他に該当物など存在し得ない。この考えは私が代々木公園に足を踏み入れるや否や、稲妻のように私の思考を照らした。なればこそ私は何の迷いも無く伝説に於ける泉、代々木公園の噴水の前の大地をいとも容易に踏みしめる事ができた。
噴水の放水は、言わずともわかるであろう、止まっていた。この私が現れたのだ、噴水の方でその意図を察し止まるべき使命を感じ取ったのだ。そして私は聖剣エクスカリバーを構え、投げ込んだ!中天に輝く太陽めがけて全力で投擲した。するとどうであろう、聖剣エクスカリバーはこれ以上の優美さは考えられないような美麗さを備えた弧を描き、伝説の泉の正確に中央に突き刺さり、そのまま垂直に水飛沫を飛来させながら沈み、姿を消した。水面を割る音さえも美麗であった。単に水面を無造作に叩き付けたような騒々しい無様な音ではない。その場所に存在した水と空気を断ち割り、空間も己が切り裂かれた事すら気づかないような鋭い音を奏でたのだ。それほどの音だ、もしもあの泉が岩であったならば深々と突き刺さり、アーサー王ですら引抜く事のかなわぬ新たな聖剣の伝説が誕生したであろう。即ち、代々木公園の岩に刺さった剣を引抜いたものは王となり、己に仇成す魔王を八つ裂きにするであろう、と。だがそうはならなかった。遺憾だがそれは岩ではなく泉だったのだから。魔王が現時点で存在しないという事実もそうならなかった原因として考慮する事ができる。ここに伝説が発祥しなかったのは不幸な偶然が重なり合った結果と言わざるを得ない。
私が聖剣を泉に投げ込むと、ほどなくして精霊が現れた。泉の中央の水面に立ち、後光を放っていた。後光は私もろとも世界を照らし、そして私に話しかけた。
「旅人よ、あなたが投げ込んだのはこの金の聖剣エクスカリバーか、銀の聖剣エクスカリバーか。」
私は驚いた。精霊は私を旅人と呼んだ。旅人!それこそまさに私をあらわすのにふさわしい言葉だ。私を理解できる程の精神的高みに達したものは殆どいない。それどころか私の偉大さをたたえる事ができる程の魂の至高性を保有するものさえも滅多にいない。己の精神的位置を更なる高みに押し上げる為に私は私と対等な者の存在を探している。それは望みが薄いにしても、私の高みを知りうる者は僅かだが存在し、私はそのような存在に対して手を取り合う事ぐらいならば許していいとさえ考え、求めている。このような振る舞いを行う者を旅人と言わずに何と言う?精霊が私を呼んだ旅人というその称号は私を名指す以上の目的では存在しない。愚民ではその名を思いつく事すら望みが薄い。だから精霊がその名を言い当てた事は称賛に値する。なればこそ、私は精霊の問いに正しい解を示そうと、次のような答えを与えた。
「私は聖剣エクスカリバーを投げ込んだ。金の聖剣エクスカリバーや銀の聖剣エクスカリバーではない。」
すると精霊はこう返した。
「正直な旅人よ、誠実なあなたには金のエクスカリバーと銀のエクスカリバーの、両方を差し上げましょう。」
そして手に持っていた金の聖剣エクスカリバーと銀の聖剣エクスカリバーを天に放ると数回転して泉の前の大地に勢いよく突き刺さった。土塊は跳ねず、刺さった分だけ僅かに周囲の地面を盛り上げただけだった。その後、あろう事か精霊は忽然と姿を消した。そこに見えるのは波一つ確認できない静まり返った水面、それと大地に聳立し煌めく金と銀の剣。一瞬前には泉の中心に何かが存在していた事実などそのときには既に空無であるかのように何の痕跡も無かった。私の持ってきた聖剣エクスカリバーは返ってこなかった。私は虚を突かれ立ち尽くし、刹那の後、突き刺さった金と銀の剣を手に取り、引抜いた。いずれの剣も容易く大地からはなれ私の手に収まった。そして、持ち上げてみた。非常に重かった。
元々私が持ってきた聖剣エクスカリバーはそうではなかった。聖剣エクスカリバーは聖剣ゆえに軽いのだが、金と銀に変えられた聖剣エクスカリバーは単に重いだけの剣なのだ。ならばそんなものは要らぬ。道理であろう。もちろん、要らぬ、とはいってもその場に放っておいたのでは代々木公園の秩序に反する。だから然るべき場所に移す事にした。……意外そうな顔をしているな?勘違いしているようだから言っておく。私は秩序を重んじる。それが私自身の秩序に反しない限り。そして代々木公園のその秩序は私の秩序には反しない。
金と銀の聖剣エクスカリバーの然るべき場所とは私の手元を除けば籠の中だ。籠は二つあり、伝説の泉よりほどなく離れたところにあった。札が貼ってあり、もえるゴミ、および、もえないゴミ、とあった。金と銀となり重くなった聖剣エクスカリバーなど、もえるゴミとして扱う事こそが正しい。私は2本を、もえるゴミの籠に投げ込んだ。
そこに於いて、代々木公園の伝説の検証は終焉を見たように思えた。しかし伝説はまだ終わらない。
もえるゴミの籠の横に私は奇妙な物を発見したのだ。その奇妙なものをそれ以前に私は見た事がある。愚民はそれを「たからばこ」と呼んでいた。「たからばこ」は二つあった。箱とは内部を蔵する構造をしていて、外からは見えない内部を明かす事は謎を解くという行動と似ている。謎であるならばそれは即ち私への挑戦だ。受けて立たない理由は無い。
謎は論理構造をしている。論理によって多重に解を覆い隠し、場合によっては周囲を欺き、己を謎とは見做されるよう隠蔽している。だから謎を発見した場合、謎を発見するという段階は突破できていると言ってもいい。しかし問題はそこからだ。謎を構成する論理を展開しなくては解は得られない。論理の成立条件を観察し、一つ一つ方程式を展開し、その果てに解は存在する。その解こそが謎の中心、謎の存在理由なのだ。
この「たからばこ」の場合、論理は極めて単純だ。底をおさえ、蓋を開けばいい。注意するべきはただ一つ、箱の内側に危険な内容物が潜んでいないかどうかを知る事だ。私がそのときに開いた「たからばこ」がそのいい例だ。私が「たからばこ」を開くと、中身は「ミミック」だった!あれは決して「ひとくいばこ」などではない。……、見た目は殆ど変わらないのに何故わかるかだと?愚か者め、即死呪文ザキを唱えてきたからに決まっているだろう。もしも私に「いのちのいし」を持ち歩く習慣が無かったら人類は私という偉大な存在を損失するという致命的な傷を負ったであろう。
然し「たからばこ」が薬草や「ひとくいばこ」ではなく「ミミック」であろうと幾らでも対処法がある。たとえばもえるごみの籠だ。この中には私が捨てた金の聖剣エクスカリバーや銀の聖剣エクスカリバーの他に電子ジャーが入っていたのを慧眼なる私は既に確認していた。早速私は電子ジャーをもえるゴミの籠から取り出すと蓋を開き、「ミミック」に向かって、マフゥパを唱えた。マフゥパとは電子ジャーに敵を封じ込める奥義で、嘗て世を混乱に陥れた魔族の王、ピッコ口を封印した技だ。マフゥパを前にしては如何に「ミミック」であろうともなす術は無くおとなしく電子ジャーに封印されざるを得ない。ミミックは私の唱えたマフゥパによって激流のような大気となって電子ジャーに吸い込まれた。だが「ミミック」は電子ジャーに封印されなかった。電子ジャーに穴があいていたからだ。どうやら私が金の聖剣エクスカリバーと銀の聖剣エクスカリバーを捨てたときに貫かれていたらしい、電子ジャーの蓋上部にその痕がくっきりと残り、そこから電子ジャーの内側が見えた。
そのようにして私のマフゥパを「ミミック」は回避した。流石「ミミック」であると言わざるを得ない。マフゥパはもう使えない。すると最後の手段を持ち出す以外にはなくなった。私はミミックを捕まえ蓋を閉めるともえるゴミの籠に放り込んだ。そして銀の聖剣エクスカリバーを使い、貫こうとした。だが銀の聖剣エクスカリバーは金の聖剣エクスカリバーと互いに複雑に絡まり合い、一本のみを抜き出す事は不可能に思われた。このように私とて極めて稀だが誤謬をおかす事があるのだ。それならば已む無し、金と銀の聖剣エクスカリバーを共に抜き出し、「ミミック」を貫いた。「ミミック」はもえるゴミの籠の中で暴れ回っていたが、私が金と銀の聖剣エクスカリバーで貫くと途端に静かになった。私の偉大さを思い知ったからであろう。
「ミミック」を調伏した私はもう片方の「たからばこ」に向き直った。「たからばこ」は二つあり、片方は「ミミック」だった。ではもう片方は?そのとき私は想像した。「ミミック」を調伏するという試練を通過した私にふさわしい宝物、たとえばスーパーファミコン内蔵型15型ハイビジョンテレビなどが入っているに違いない、と。その「たからばこ」には入らないものだが、そんな事は関係ないだろう。私の為ならば「たからばこ」の方でそんな道理も覆すからだ。尤も、試練とはいっても私にとっては児戯にも等しい行為、あしらう事など雑作も無い事だが。
私は「たからばこ」を開けた、試練を乗り越えた者だけが手にする事ができる称号とも呼ぶ事ができる物を期待して。そこには、しかし私の予想に大いに反し、紙屑にも等しい物が入っていた。入っていたのは夥しい程の貴金属類、王冠や首飾りや腕輪だった。が、それらすべては紙により成っていたのだ。私は憤怒にかられた。「たからばこ」を持ち上げ、手頃な容器に中身を流し込んだ。
その手頃な容器が伝説の泉であった事に気づいたのは「たからばこ」の中身を流し込んで、泉より精霊が現れてからだった。
「旅人よ、あなたが落としたのはこの金のゴミ屑ですか?それともこの銀のゴミ屑ですか?」
精霊は私にそう告げた。もちろん私はそんな物は知らない。それよりも私の元々の所持物である聖剣エクスカリバーを精霊から奪還せねばならぬと私の直感が私に告げた。
「そんな物は知らぬ。そんな事よりも私の聖剣エクスカリバーを返せ。」
「正直な旅人よ、あなたにはこの金のゴミく……財宝と銀の財宝を上げましょう。」
私の言葉が聞こえなかったのか、精霊は金の財宝と銀の財宝を残して、またしても忽然と消えた。そこにあるのは静まり返った伝説の泉、それと夥しい量の金や銀の財宝であった。成程、この財宝を聖剣エクスカリバーと引き換えようという事か、そのように私は解釈し、財宝を装備した。どのような出で立ちとなったかを一つ見てやろうと思い、私は泉に己の姿を映させ、見た。意外な事に、なかなか悪くない。精霊には褒美として空になった「たからばこ」を与えてやってもいいという気になり、伝説の泉に投げ込んだ。そして私は背を向け、伝説の泉を背にした。すると私の背後の彼方、伝説の泉の方向から光が射した。私の祝福を讃えているのだ。精霊のその様子を背にしながら、精霊が犯した幾つかの罪、私への無礼な態度に対して恩赦を与えてもよいという気になった。
そしてその財宝が、いま私が身につけているものだ。
なかなかの重量であるせいか、すばやさが3下がったようだ。が、それは財宝の輝きを身に纏う事の対価という物だろう。
ところでこの財宝、外そうとしても外れないのだが、何故だと思う?
私の研究室の愚生徒は、教会に行った方がいいのでは、などという。
教会とは解毒と解呪と蘇生を行うサービス機関だ。
私が呪われてるとでもいうのか?
莫迦な。財宝が私の魅力に惚れ込んだだけであろう。