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ノウゼンカズラの家 第七回

「一緒に行かん?」

 色素の薄い、透きとおった目で、コズエはわたしを見つめながら、そう言いました。無頓着に日差しにさらされても真っ白な肌といい、彼女の母親は、日本人ではなかったのかもしれません。あるいは、アルピノに近い病気だったのでしょうか。

「えっ、どこ?」

「決まっとうやないね。もう一つの公園」

 夏休みが近づいていました。

 わたしの父は、日曜日も外出するようになり、同じ家に住みながら、まるで別居しているように、ほとんど顔を合わせなくなりました。意識的に、わたしたち二人を避け始めたのでしょう。

 ただ、ひと頃のごたごたがなくなり、来客もめっきり減りました。母の奇矯な行動も、だいぶ治まったように思え、ダイニングテーブルに、ぼんやりと頬杖をついている姿を、よく見かけました。誰も観ていないテレビが、急にがらんと広く感じるようになった家の中で、空しく騒ぎたてていました。

 二人が別れたら、じぶんはどっちに「貰われて」行くのか?

 子供部屋の布団の中で、独り繰り返された問いの答えも、ほぼわかりかけていました。母ばかりか、わたしをも避け始めた父の態度を見れば、愚問だったと言えましょう。

 おのずから、自問の内容も変容しました。父は、わたしを愛していたのか? そしてわたしは、父を愛しているのか……と。

 いま、そこにあるものが何もかも壊れて、ばらばらになってしまいそうで。それでいて、何事も起こらない状態。極度に緊張した中に、奇妙な落ち着きを孕んでいる。まるで泣いている自身を冷静に見つめる、もう一人のわたしがいるような、冷ややかな視線を感じていました。

「サエは、お父さんのこと、どう思う?」

 いつものように、独りで遅い朝食をとっていうとき、不意に声をかけられました。

 思えば、母と正面から顔を合わせることも、久しく絶えてなかったのです。わたしはお茶碗を落としそうなほど、びくりと肩を震わせたと思います。

 魂の抜けたような、力のない母の声は、きつく叱られるより、恐ろしく感じられました。

「どう、って?」

 なるべく平気を装って、尋ね返しました。母は肩も露わな、くすんだ水色のワンピースをぞろりと着て、落ちくぼんだ目の上に、ほつれた髪がかかっています。左手に包丁が握られていることに気づいて、わたしは覚えず、ひっ、と息を呑みました。

 何も気づかなかったように、母は言います。

「お父さんのことが、好きなの?」

 もし好きだと答えたら、あの包丁で刺されるのだろうか?

 そんな恐ろしい疑問が、まず胸を圧しました。

「わからないけど」

「わからないことはないでしょう?」

 虚ろな目をこちらに向けたまま、語気を強めるでもなく、相変わらず弱々しい声でした。だらりと垂らした左手の包丁は、その存在を忘れられているようですが、ひとたび怒りを注がれれば、野獣の眼のようなまがまがしい光を帯びる……そんな気がしてなりませんでした。

 何か答えなければ。そう焦れば焦るほど、見えない手で喉を圧迫されるようです。

 遠のくような意識の中で、毎晩、布団の中で転々としながら考え続けた疑問が、繰り返されます。

(わたしはお父さんが好きなのか?)

 覚えている限りでは、両親が睦まじくしていた記憶がありません。食卓での二人の会話には、常に冷ややかな緊張が漂っていました。お互いに話しかけても答えないことが多く、もちろんわたしが学校での出来事を、得意げに喋る余地などありません。

 だれも観ていないテレビの音だけが、騒々しく鳴っていました。

 家族旅行にも、ほとんど行きませんでした。夏休みが終わると、みんな真っ黒になっているのに、わたしだけ蒼白いまま。始業式の日の会話にも、ついてゆけません。ならば旅行に行きたかったのかと問われれば、首を振ったでしょう。家の中の冷ややかな空気が、旅先ではさらに険悪さを増すことを、何度も経験していますから。

 日曜日、父はお昼近くに起きて、テレビを観ます。その間母は、「教室」にかかりきりです。

 だから友達の両親が、楽しげに冗談を言い合うのを見ると、うらやましいというよりは不思議でした。まるで別の世界で起こっていること、別の世界の風習を垣間見るように思えたのです。テレビが空々しく流す、異国のニュースみたいに。

 ……すみません、わたしの家のことなど、長々と話してしまって。ですが何となく、あの不可思議な出来事と、当時のわたしの家庭内でのトラブルが、必ずしも無関係ではないように思えるので。

 けっきょくわたしは母の質問に何と答えたのか、今でも思い出せません。答えが出せたとも思えません。いつの間にか母はいなくなって、テーブルの上に包丁だけが放り出されていました。

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