ノウゼンカズラの家 第五回
湿った風が吹いて、蒼い花球がふわふわと揺れました。前歯の欠けたコズエの笑顔は、女の子に似た何か別の生き物……妖精が笑ったように見えました。
草に覆われたフェンス。薄暗い地面には、まだ湿った夜のにおいが、置き忘れられたように、こびりついていました。蛇のように横たわる朽ち木を、コズエは身軽に飛び越えてゆきます。彼女の影に驚いたのか、茶色の、まるまると肥えたトカゲが、朽ち木の下から這い出してきます。
「気味が悪い。やっぱり戻らない?」
「何言いよるんね。学校は、すぐ向こうちゃけん」
灌木や金網に絡みつきながら生い茂る草を透かして、灰色のコンクリートの壁が見えました。ひび割れ、蔓草に覆われたその建物は、たしかに校舎に似ていましたが、もっとまがまがしい、もし棲んでいるものがいたとすれば、それは人間ではない、闇の中を動き廻る何かに違いありません。
「うそ。これ、学校なんかじゃないよ」
コズエは答えず、笑顔のまま、なかば飛び跳ねるように、その建物へ近づいてゆきます。彼女の背中に、半透明な翅が生えていないのを、わたしは不思議に思い始めていました。割れたガラス窓。朽ちかけたロープで閉鎖された入り口。今にして思えば、そこは廃棄され、取り壊しを待つばかりの団地だったかと思われます。
予算か手続きか、何らかの都合で放置されたままの。
不気味な建物の前を通り過ぎ、場違いなほど、ピンクの花が咲き乱れた灌木の茂みを潜り抜けると、急に視界が開けました。暗がりから出てきたせいか、曇り空の下の風景は、みょうに眩しく感じられました。彼女が言ったとおり、学校がほんの何十メートルか先に見えています。
「やった! 急ごう」
早足で向かおうとしたところ、着いてくる気配が感じられません。振り向くと、彼女は南国的な、あの桃色の花を一つちぎって、手の中で弄んでいました。
「ね、知っとう? この花を食べると死ぬとよ」
「え?」
「お父さんが、言うとったもん。むかし、どこかの偉い王様の大軍が、この木の枝で焼き肉を刺して食べたら、みんな死んでしもうたって。じゃあ、花を食べても死ぬんね? て、訊いたら、わたしくらい小さければ、花をひとつ食べるだけで、すぐ死ぬやろうねって」
聞き慣れぬ歌を口ずさむように、そうつぶやきながら、桃色の花を彼女は唇へ近づけます。匂いを嗅ぐというよりは、今にもドロップを舐めるように、するりと口へ運んでしまいそうで、わたしは、はらはらしながら眺めていました。
彼女は言葉を継ぎました。
「だからわたし、学校へ行く前に、いつもこの花をひとつ、ポケットに入れておくとよ。そしたら、どんないやなことがあっても、これを一つ食べるだけで、よくなるやないね。わたしのほかは、何にもなくなって、よくなるやないね」
いったいコズエが何を言っているのか、幼いわたしには、半分も理解できませんでした。彼女がクラスでいじめに遭っていたことを知った後でも、彼女の言葉は謎を孕んだまま、わたしの胸に苦く纏わりついています。
毒があるという、あの花を食べれば、自分だけが死んでしまうのではないのか。なぜ、自分以外のすべてが、消えてしまうのだと考えたのか……
いじめと言っても、露骨な暴力にさらされていたわけではないようです。わたしも一風変わったところがあり、ともすれば標的にされやすいのでわかるのですが、暴力に及ぶいじめは、氷山の一角に過ぎないでしょう。いじめの基本形は無視、ただひたすら、無視されることに尽きます。
ただ一人でいる孤独に、人は案外耐えられるものです。けれども、集団の中で故意に孤立させられる苦痛は計り知れません。そして学校という、偏狭な価値観の支配する空間に閉じ籠められた子供たちは、つかみどころのない不安の中で、いつしかスケープゴート探しに夢中になります。
コズエは貧しく、片親で、その父親は近所でも噂にのぼるほど、粗暴でした。服装には無頓着でしたが、独自の美的センスを持っていて、また生来の容貌は非常に美しかった。それらの要素が絡み合って、同じ檻に入れられた子供たちの不安を煽ったのでしょう。
(わたし、チコクマやから)
不登校よりはましだということで、担任は彼女の遅刻を黙認していたようです。それも一種の無視と言えましょうか。離婚問題で家がごたついていたわたしの遅刻が、容認されたのと同じように。