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ノウゼンカズラの家 第四回

「わたし、チコクマやから」

 コズエはそう言って、屈託なく笑ってみせました。前歯の乳歯が一度に抜けたその笑顔が、みょうに痛々しく感じられたことを、よく覚えています。

 あれは、消防署の分署か何かだったのでしょうか。雑草に絡みつかれ、すっかり錆びたシャッターの前で、いつしか毎朝、彼女と顔を合わせるようになっていました。

 本格的に夏が始まる、少し前だったと思います。

 梅雨に置き去りにされた雲が、どんよりと立ちこめて、夏空に目隠しをしていました。湿っぽい風に触れられると、シャッターは生き物が哀しげに鳴くような音をたてました。

 初めて逢った朝も、コズエは、わたしの家とは反対の方から、ゆっくりと歩いてきたのです。

 駆けてきたわたしが、分署の前で息を喘がせていると、目の前に立ち止まり、ランドセルを重たげに一度、揺すり上げました。

「中の消防車、見たことあるん?」

 だいぶ欠けた前歯を見せて、コズエは笑っています。こんなふうに笑う子は、きっと悪い子ではないだろう。なぜかそのとき、ぼんやりとそう考えました。

 わたしは首を振りました。

「ない」

「そうなんよ。もう何十年も、鍵を開けたことないらしいとね。その鍵、どうなったと思う?」

 わたしはまた、呆然と首を振るしかありません。彼女は悪戯っぽい目で、さっと辺りを見回すと、内緒話をする口調で、

「あのね、町内会に預けておいた鍵を、だれかが持ってったきり、見つからんらしかとね。やけん、中の消防自動車、本当はとっくに盗まれとってね。この倉庫はずっと空っぽのまんまって噂なんよ」

 ショートというより、おかっぱと呼ぶほうが似つかわしい、無造作に切り揃えた髪を踊らせながら、また微笑んでいます。しばらく呆然と眺めたあと、ようやくわたしはこう言いました。

「学校、急がないと。あんたも西小の子でしょう?」

「とっくに遅刻やないね」

 そうして彼女は、

(わたし、チコクマやから)

 と、言ったのです。

 仕方なくわたしたちは、肩を並べて歩き始めました。

「お母さん、起こしてくれないの?」

「おらんから」

「亡くなったの?」

「最初から。見たことなかもん」

 コズエの家庭の事情を把握するのには、当時のわたしは幼すぎたようです。仲好しになった後も、少なくとも死別以外の理由で、彼女は「最初から」彼女の母を見知らなかったこと。土木作業員らしい父親と、あまり裕福とはいえない二人暮らしであることなどを、漠然と把握したに過ぎません。

 ただ、ひとつだけ言えるのは、崩壊寸前の両親の関係を、じくじくと気に病んでいたわたしの胸に、コズエの存在が慰めをもたらしてくれた、ということです。同様に無邪気な笑顔にしても、彼女の微笑みは、幸福なクラスメイトたちの笑顔とは全く違う効果を持つようでした。

 彼女自身は意識していなくとも、コズエの笑顔に感じられた「痛々しさ」の中に、わたしは、自身のずきずきと疼く胸に清涼感を与える、魅力的な薬効を感じていたのかもしれません。

 付け加えておかなければならないのは、彼女は間違いなく、美しい少女だったことです。その事実が、成長するにつれて、あの不可解なわたしの記憶の上にのしかかり、わたしの胸を責め苛む要素となるのですから……

 思わせぶりな言い回しで、先走り過ぎたでしょうか。

 なるほど、美しい、と申しましたが、彼女は髪型にも服装にも無頓着でした。ませた口調で恋を語るタイプからはほど遠い。ふつう「女の子」が厭いそうな、路傍の昆虫などを目ざとく見つけては、その都度歓声を上げてその場にしゃがみ込んでしまうような子でした。

(綺麗なトカゲがおるよ。見てこの尻尾、宝石でできとおみたい)

 ゆえに、わたしたちはますます、学校へ辿り着くのが遅くなったものですが。

 ともあれ、彼女の美しさは、いつも擦り剥いている膝小僧ですとか、石鹸でしか洗ったことのない髪ですとか、サイズの合わない服や、穴の空いた靴下には、決して損なわれない輝きを秘めていました。

 わたしは自分の体と彼女の体とを、何度取り替えたいと夢見たことか知れません。

「いい加減にして。あんまり遅くなると、怒られるよ」

 ヒルガオにびっしりと絡まれた金網の間へと、不意に彼女は身を滑り込ませました。てっきりまた、「綺麗なトカゲ」でも見つけたのかと思ったのです。

 ちなみに遅刻してきたわたしを、担任が叱ることは、まずありませんでした。「家庭の事情」を知悉しているような、みょうに理解を示す対応は、かえって突き放されているように感じたものです。

 鬱蒼と茂る木の下闇に、咲き残ったアジサイが幾つか、蒼く浮いて見えました。まるで陰火のような花球の前で、コズエが大きく目をしばたたかせるのがわかりました。

「こっちのほうが、近道やから」

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