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ノウゼンカズラの家 第二回

  ◇

 象の墓場から抜け出すと、陽はすでに傾きかけていた。動物園から吐き出される親子連れも、この日はやけに少ない。

 森の中、侘びしげなカラスの声を聴きながら、駅へ向かった。女と肩を並べて歩いているのに、まるで独りきりでいるような気がした。

 およそ気配というものを感じさせない人だとは、以前から思っていた。もう一人、気配を消すのがおそろしく得意な女を知っているが、タイプは真反対といえる。いま隣を歩く時嶋サエからは、自己主張がすっぽりと欠落していた。

 霊異研究家を名のり、堀川にくっついて廻るくらいの女だ。この評言は似つかわしくないかもしれないが、それでもどこか、投げやりと言おうか、他者任せな感は否めなかった。

 Let it be…そんな歌詞どおり、生きているように見えた。

 ちなみにもう一人の女は、気配どころか現在、行方ごと消えているのだが。おずおずと、私は尋ねた。

「喫茶店にでも入りますか」

「はあ」

「それとも、お腹空いてます?」

「あまり」

 自身、額縁入りの優柔不断なので、この手合いとは、会話の糸口を得るのに難儀する。つい好奇心に駆られて「話」を聴く気になったものの、芥川ではないが、三十分も顔を突き合わせていれば、疲れ果てるのではあるまいか。

(ぜひ先生に、聞いていただきたいことがあるのです)

 それにしても、顔と名前は覚えていたけれど、ただそれだけの関係。まともに会話した記憶すらない女が、しかも偶然、博物館で行き逢ったばかりの私に、どんな話があるというのか。

 しかもそれは、「まだほとんど、誰にも話したことがない」のだから。作家として、あるいは男としての、下心が疼かずにはいられなかった。

 けれども、象の墓場で長話するわけにもゆかず、私たちは彰義隊の亡霊がうろつく上野の森へ、さまよい出たわけだ。

 スターバックスやデニーズやマクドナルドには、入る気になれなかった。地下鉄の駅の方へ下って、アメ横まで歩いた。行き交う人込みの中、「千円、千円」と方々から投げ込まれる、売り手のだみ声が響いていた。路地を一本逸れると、すぐに理想的な店とぶつかった。

 看板にはシンプルな絵とともに、「黒猫」の文字。漂ってくるコーヒーの香りが、私の脳を太古の墓場から呼び返してくれるようだ。

 カウベルの音を鳴らして扉を潜った。常連らしい数人が、カウンター席に腰かけているばかり。パキラとおぼしい観葉植物に隠れて、二人掛けのテーブル席が目にとまった。

 二人とも、キリマンジャロを注文した。

 表の喧噪から取り残されたように、店内は静か。音量を絞ったBGMも、ピアノの微妙なタッチまで聴こえるほど。

「サティの『グノシエンヌ』第一番ですね」

 ブラックのまま、持ち上げたカップを中途で止めて、サエはつぶやいた。やっと思い出したという口ぶりだ。

「はあ、そうなんですか」

 これまでに何度か、音楽にまつわる事件と関わってきたので、名前くらいは知っている。けれども、サティとドビュッシーの区別がつかない、無粋さは相変わらず。私の生返事に、気を悪くするでもなく、彼女は続けた。

「タイトルはサティの造語。諸説あるようですが、私にはグノーム、すなわちグロテスクな小人が想起されます。とくにこの第一番なんか、絵が浮かんでくるようです。月光に蒼く照らされた岩山は荒涼として、地下から小人たちが這い出してくる……」

「はあ」

「サティは、薔薇十字団員だったそうですね」

 ひたすら地味で、無口な印象しかなかった彼女が、音楽に憑かれたように喋りだすさまを、面食らう思いで眺めた。霊異研究家という肩書きが、あらためて思い起こされた。話す間、彼女の視線はやはり、宙空をさまよっていた。

 小人が蠢く岩山を、そこに探すかのように。

「話があると、うかがいましたが」

 せっかちなのはわかっていたが、できれば話題を変えたかった。「グロテスクな小人」にまつわる事件に、つい先日、巻き込まれたばかりだったから。

 相変わらず、カップを中途で支えたまま、彼女は目を大きくしばたたかせた。ようやく聴きとれるほど、急に声をひそめた。

「酒井先生が、『妖』に書かれている連作なんですが」

「お恥ずかしい限りです」

「あれは、実話なのですか?」

『妖』と書いて「あやかし」と読む。大手のK社が隔月で出している、怪談専門誌である。監修に「堀川蒐怪」が名を連ねており、かれの子分たちにとっては、「『妖』に載る」ことが、ひとつのステイタスとなっていた。

 私はそこに『家政婦奇談』という、巫山戯たタイトルの連載を持っていた。戦前の探偵小説に倣って、いかにも絵空事めいた、大上段に構えた作風。似たようなニュースに思い当たっても、読者はまず、時事ネタを酔狂に歪めた創作と認識するだろう。

 覚えずコーヒーで噎せそうになったのは、時嶋サエの言葉が、図星に近かったからだ。

 それは週に一度、私の家に来る風変わりな家政婦をモデルにしたものだった。

 気配を消すことが得意なばかりでなく、その家政婦は二つのずば抜けた才能を有していた。一つは、奇妙な事件に巻き込まれる才能。そしてもう一つは、

 難事件を解決する能力である。

 私の『家政婦奇談』は、だから彼女が実際に遭遇し、解決した事件を、わざとおどろおどろしく、フィクションめかしたものだ。本当はノンフィクションとして発表したほうが、段違いに面白いと思うのだが、顔や名が売れることを、彼女は極端に厭がった。

 家政婦の名は、勅使河原美架という。そして現在のところ、杳として行方が知れない。

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