ノウゼンカズラの家 第一回
(さよなら、ごめんね)
◇
夏休みが終わった後の上野の博物館は、ひっそりとしていた。あたかも平日の、遅い午後である。薄暗い順路にずらりと並べられた、哺乳類の歯の化石を見入っている暇人など、そう多くいるとは、思えなかった。
「恐竜の化石に比べると、どうしても華がない」
連れもいないのに独りつぶやく私を、怪しむ者もいない。壁際に立つ警備員が、眠そうな目をしばたたかせたばかり。
そうは言いながら、子供時代も含めて「大恐竜展」を観た記憶がないのだ。今日だって、ふらりと電車を降りたところで、「太古の哺乳類」という、少々マニアックなタイトルに惹かれた恰好。もし、T・レックスのような大スターのお出ましとあっては、それこそ原始哺乳類のように逃げ出したろう。
どうも私は、主流を敬遠する性質が根深い。
白亜紀の恐竜、とくにティラノサウルスは、あまりにも大きく堂々としており、あまりにも完璧すぎる。これ以上ないほど、機能的に洗練され過ぎている。
それよりも私は、三葉虫が蠢ていた頃の、わけのわからない、不完全な生き物に魅力を感じた。あるいは「太古の哺乳類」のように、現生動物へ至るまでの、試行錯誤する苦渋の痕跡を好んだ。
要するに、ひねくれ者なのだ。
「酒井先生でいらっしゃいますね?」
遠慮がちに声をかけられたのは、象の頭部の化石の前。白く磨きあげられた骨の表面には、装飾古墳を想わせる模様が、鮮やかな朱色でびっしりと渦を巻いていた。
なぜこんな模様を、誰がいつ描いたのか、非常に興味深かったが、名を呼ばれた以上、振り向かないわけにはゆかない。
「はあ」
寝ぼけたような返事をして眺めた。黒っぽい、薄手のチュニックにレギンス。肩にかかる髪は軽く縮れている。二十代後半といったところか。
近頃は目に見えて記憶力が衰え、他人の名前と顔が一致しない。ゆえに彼女の名前を言い当てられたことを、奇跡のように感じたが、思えば数日前、確かに顔を合わせている。
時嶋サエ。
本名かどうかは不明だが、だいぶ前にもらった名詞には、「霊異研究家」と刷られていたはず。
このおどろおどろしい肩書きからして、あの堀川秋海の子分であることは、断るまでもない。数日前に逢っていたのも、かれが主催する立食パーティーに、むりやり私も呼びつけられたからだ。
人付き合いが厭で「文士」になったのに、人の世の煩わしさは、どこまでも追いすがる。永井荷風のような生き方は、よほど環境に恵まれない限り、そう許されるものではない。
堀川秋海。別号、蒐怪。人呼んで文壇の妖怪、もしくは妖星。
作家なのか評論家なのか、はたまたタレントの一種か。怪しげな雑文を書き散らし、ここ数年の間にめきめきと台頭した。星の数ほどいる「作家の卵」を子分に囲い込み、様々なメディアを利用しつつ、たちまち一大勢力を成した。
佐藤春夫あたりがボスだった時代には、ちょっと考えられない。文壇そのものが崩壊しかかっている今だからこそ出現し得た、まさに妖星であろう。
堀川が主宰するほとんどの会合に、彼女は出席しているらしい。出不精な私が行けば必ず、いかにも地味な、彼女の姿が目に止まった。だから、覚えていたというのもある。
「あ、先日は、どうも。時嶋さんも、化石にご興味が?」
我ながら間の抜けた質問だが、ほかに巧い言い廻しもない。そもそも私は、とくべつ化石好きではない。
どこか焦点の合わない目つきで、しばらく無言で見つめられた。それから小さく首を振って、
「なんとなく、タイトルに惹かれて。先生は?」
この呼称で呼ばれるたびに、二の腕が粟立つ思い。事実はともかく、何の因果か堀川の側近の一人と見なされているのだ。おかげで多くの子分たちから、根も葉もなく嫉視され、敬遠されて、ますます堀川の会合が疎ましい自分なのだが。
「おれもです。夏休みの間でこそ、家族連れで満杯だったでしょうけど。残暑を避けて半日をつぶすには、ちょうど好さそうで」
「ご執筆は、夜になさるのですか」
乾いた笑い声を、たてずにはいられなかった。警備員が鋭く一瞥したあと、すぐに気のない表情に戻った。
「それほど忙しければ、こんなところで、ぶらぶらしちゃいません」
自嘲のつもりが、相手にとっても非礼だと気づいた。慌てて付け足した。
「もちろん、ぶらぶらするのが、作家の仕事みたいなものですし」
それから、並んで順路を歩いては、足を止め、ぼそぼそと二言、三言。何を話したか、よく覚えていない。
気がつけば、メインの展示とおぼしい「ナウマン象の親子」を、二人とも無言で見つめていた。牡の大人の象でさえ、ずいぶん小さく感じらる。館内が閑散としていることも相まって、そこはかとない侘びしさが漂っていた。
見かけによらず低い、乾いた声で、時嶋サエが切り出したのは、たしかこのときだ。
「ぜひ先生に、聞いていただきたいことがあるんです」
「えっ」
「まだほとんど、誰にも話したことがないんですけど……」
驚いて横を向くと、彼女はまだ、じっと化石を見上げていた。
博物館の薄闇の中、青い照明の映えた彼女の瞳は、やはりどこか、焦点が合っていないように感じられた。