40.運命への歩み
時が立つのは早いもので、気づけばもう木が色とりどりに染まっていた。
「蕾様の髪随分伸びましたね」
「そういえばそうだね」
小夜ちゃんに梳いてもらっている髪はもう鎖骨よりも下まで伸びた。
ここに来たころは肩につかないかくらいだったのに。
そういえば髪が短くて殿たちに男だと間違われたんだっけ。
いや、髪が伸びてからも男扱いされたわ。
「初めのころはこうやって髪を整えてもすぐに終わってしまっていたのに」
「ごめんね、自分でできたらいいんだけど」
この時代の櫛がうまく扱えなくて、こうして小夜ちゃんにお願いしている。
短いときは手櫛で終わらせてたりしていたんだけど、ここまで長くなるとそうもいかなくなった。
「いいえ、蕾様の髪を整えることは私の楽しみですので」
これは気を使って言っているのか。
いや、満面の笑みからは本気だと伝わってくる。
どう返せばいいのか悩み、結局笑って返すことにした。
春から今まで、毛利とは小競り合いが何度かあったものの、両者とも大きな損害が出るような戦は起きず、にらみ合いが続いている。
屋敷は相変わらず騒がしく、最近ではもうすぐ大きな戦が起きるのではと噂が流れ始めている。
このまま何も起きず元就さんが諦めてくれたら、なんて思うけど、それは叶わぬ願いなんだろうな。
「はい、できましたよ」
「ありがとう」
一つに纏めてもらった髪には殿にもらった桜の簪が刺さっている。
短かった時はずっと胸元に入れていたんだけど、毛利から帰ってきてからは使うようになった。
それに殿が気づいてくれた時、すごくうれしそうに微笑みながら頭を撫でてきて、また赤面させられてしまった。
あぁ、思い出したら恥ずかしくなってきた。
暑くなってきて手で顔を仰いでいると、部屋の外が異様に騒がしくなり始める。
何事かと小夜ちゃんと顔を見合わせながら襖を開けてみると、廊下を何人もの男の人が慌てた様子で歩いていた。
「どうしたんだろう」
「何かあったのでしょうか」
様子からしてただ事じゃないということは伝わってくる。
この時期にこんなに騒いでるってことは、おそらく毛利関係の事だろう。
確か今陶さんも屋敷にいたはず。
「え、蕾様どこへ行かれるのですか?」
「ちょっと様子を見に行ってくる」
たぶんあそこにみんな集まっているんじゃないかという目星はある。
部屋を出た私を慌てて小夜ちゃんが追いかけてきた。
********************
「蕾様…… いつもこのような事を?」
「い、いやぁ。たまにかな?」
思った通りいつも会議をしている部屋に男の人たちは集まっていた。
中はざわついていて、見た限りまだ殿と陶さんは来ていないようだ。
私たちは、もう定位置になりつつある表からは死角になっている場所から部屋の中を覗いている。
襖に張り付く少女二人の図は他人から見たら異様な光景だろう。
「これは流石にまずいのでは……」
「しっ、陶さんが入ってきたみたいだから」
陶さんと殿が入ってきたことで、部屋はシンと静まり返った。
いつもと同じように座り、みんなが陶さんの方へ注目する。
「先ほど毛利元就の重臣、桂元澄から書状が届いた」
そう言って陶さんは胸元から紙を取り出し殿に渡した。
受け取って中身を確認した殿は眉をひそめる。
「内容は元澄が大内への内通者となるという申し出、それと今厳島は手薄の状態で、攻めるなら今だという事だった」
その場がざわつく。
元就さんの部下の人が彼を裏切るなんて本当にあるのだろうか。
それに今がチャンスだって教えてくるのも胡散臭すぎる。
「内通の話は信じてよいのか?」
「いや、実際に書状が届いておるからな……」
「手薄というのは真実なのか」
流石に怪しいとほとんどの人はこれは罠だろうと話している。
様々な意見が飛び交う中、陶さんが咳払いをする。
「書状の内容が真実かは分からぬが、わしは今が厳島への進軍の機会だと考えておるのだが」
全員が目を見開く。
書状が真実か分からないのに進軍するなんて無謀すぎるだろう。
しかし、男たちは一瞬困惑した表情をしたものの、次にはやっと来たかという風に興奮した表情を浮かべた。
「まて、そう安易に書状を信じるのは危険ではないか?」
興奮気味の空気の中、そう冷静に反論したのは殿だ。
興奮していた男たちは何を言っているんだと言いたげな表情を殿に向ける。
またこの空気だ。
一番冷静に考えているのは殿のはずなのに、みんなが陶さんの意見に賛同し、殿の意見を聞こうともしない。
この場で一番決定権があるのは殿のはずなのに。
だけど今回は少し違った。
「いや、今回は御屋形様の意見が正しいのでは?」
そう言ったのは部屋の後ろの方に座っている初老の男だった。
多分昔から大内に仕えている人なんだろう、周りの男たちが驚いた眼をしている。
「ほう。お主も意見するか」
「書状を全て信じることは危険すぎまする。これが全て毛利の罠ならば取り返しのつかないことになりますぞ」
進軍だと傾いていた空気が緩み始め、若い人たちもだんだん冷静になっていく。
中には殿の意見が正しいのでは、という声まで出始めた。
今までにない展開に殿自身も驚いているみたいだ。
今までにない空気が流れ始めたその時、バンっと大きな音が鳴り響いた。
音がした方を見ると、陶さんが書状を床に叩き付けていた。
その顔には怒りが浮かび、背筋が凍るそうな雰囲気を醸し出している。
「お主はこの書状が毛利の罠だとして、このまま進軍すれば我々が敗れると申しておるのか?」
問いかけられた初老の男は顔が真っ青になっている。
もう言葉が出ないのか、何度か口を開いた後が彼から言葉が出ることはない。
「御屋形様もですぞ。先ほどの発言からはそう言っているように感じます」
男を見ていた目線を殿に移す。
あんな目で見られたら私なら泣き出してしまいそうだ。
だけど殿は怯むことなく陶さんを真っ直ぐ見ている。
「そうは言っておらぬ。進軍することはいささか無謀ではないかと言っているだけだ」
「しかし厳島が手薄というのは可能性があるのでは?ここ半年厳島にはそれほど多くの軍は入っておりませんでしたし」
「それは……」
殿がはっきりと陶さんの意見を否定するのは初めてだ。
そのあと陶さんの発言に少し口ごもると、周りも殿に対して非難の声が飛び交った。
陶さんも発言を返しつつも驚いた顔をしていた。
だけどそのあとにニヤリと口角を上げ、その表情はいつもの倍以上嫌な感じがする。
「たとえ全てが毛利の罠だとしても、我らならば敵方を壊滅させることができましょう。
総力を上げて戦に臨むのならば問題はあるまい」
自信に満ちた陶さんの言葉に、今度こそ全員の気持ちが一つに固まった。
気合を入れるように声を上げる男たちにはもう殿の声がかき消されていく。
もう誰も彼らを止めることはできない。
そのまま厳島への進軍は決定された。
きっと今回の戦いは今までの比じゃないくらい大きな戦になるだろう。
そして多くの人が死んでいく。
赤い記憶が脳裏をかすめ、キュッと手を握る。
するとその手を小夜ちゃんがそっと握りしめてくれた。
青い顔をしているのに私を心配そうに見てくれている。
私につき合わせて嫌な場面に立ち会わせてしまった。
「帰ろうか」
「そうですね。でもいいのですか?」
「何が?」
「殿のお傍に行かれた方がよろしいのでは」
確かに心配ではあるし、今彼の声を聞きたいと思っている。
だけど今は少しでも早く小夜ちゃんをここから離れさせることの方が大事だ。
このままここに居続けたら誰かに見つかってしまうかもしれない。
私は何度も盗み聞きをしていて、捕まったとしたら自業自得なんだけど、小夜ちゃんが捕まって罰を受けることになったら申し訳なさすぎる。
「今日はいいよ。それより早くしなきゃ誰かに見つかっちゃう」
「そうですけど、私なら一人で戻れますので蕾様は殿の所へ行ってください」
「いや、でもさ……」
正直今殿に逢って何て声をかければいいのか分からない。
そんなやり取りをしていると、いきなり横の襖が開いた。
二人同時に顔をそちらに向ける。
「やはりライか」
立っていたのは困った顔をした殿で、私たちはほっと胸を撫で下ろした。
今ので寿命縮んだよ。
そういえば覗いてた時何度か殿と目があった気がしたけど、勘違いじゃなかったみたいだ。
まぁ毎回ここから覗いているから殿には完全に見抜かれていても不思議ぎゃないんだけど。
「で、では私は先に戻っていますね。お食事はお部屋にお持ちしますから」
「えっ、ちょっと!?」
安心してその場に座り込んでしまった私を置いて、小夜ちゃんは止める暇もなく走って行ってしまった。
確かに殿と話せばいいって言ってたけどさ、これは気まずすぎるでしょう。
空をつかんだ手を下しながら彼の方をチラッと見てみる。
じっと黙ったまま見つめてくる瞳は今の私には直視できない。
「あーっと、いや、そのぉ……」
言い訳も出てこずとりあえず笑顔を浮かべてみる。
すると殿はクシャクシャと頭を撫でてきた。
「うわっ」
「本当にお主は懲りぬな。私に見つかるのは何度目だ?」
「うっ、ごめんなさい」
いつもこんな感じで殿に見つかってしまう。
結構気配を消しているつもりなんだけどなぁ。
「反省しろよ?」
「うん……」
乱れた髪を整えてくれながらするこの会話ももう何度目の事か。
懲りない私に毎回こうすることは殿にとっては楽しいのか、毎回クスクス笑っている。
「置いて行かれてしまったな」
「殿がいきなり現れるから驚いちゃったんだよ」
「そうは言ってもな、お主たちの会話は部屋まで筒抜けだったぞ」
「え、うそ」
小夜ちゃんとの会話に夢中で声の音量の事考えてなかった。
「残っていたのが私だけでよかったが他の者がいたら危なかったのだぞ」
「おっしゃる通りです」
もし陶さん辺りに見つかっていたら……いや、考えるのはやめよう。
「次からは気を付けろよ」
「うん」
「なら戻るか。ライの部屋でよいのか?」
「うん、ありがとう」
今の事を詳しく知りたいっていうのもあるけど、こうやって部屋まで送ってくれて話す時間ができることもあり毎度盗み聞きし来てしまう。
いや、我ながら悪い子だとは思うけど、こういう機会がないとなかなか殿と会うことができないのだから大目に見てほしい。
血気盛んな空気が漂う廊下を二人で歩く。
少し前を歩く殿の後を追いながら背中をうかがう。
さっきまでいつも通りの感じで話していたけど、やっぱり彼の空気は重い。
だけどこの機会を逃したらいつ話せるか分からないから、今疑問に思っていることを聞いてみる。
「ねぇ、さっきの話の書状って本当に信じても大丈夫なのかな」
「ライはどう思う?」
「えっと……」
毛利で見た元就さんの事を思い出す。
「私は元就さんの臣下の人が簡単に裏切ることはないと思う」
「そうか」
「殿もそう思ってるんじゃないの?」
「真偽はともかく、厳島が手薄だということはどうかと思ってはいるな」
「だけど最近はあんまり兵がいなって言ってなかった?」
「確かにそうだが、それも相手の作戦かもしれぬ。半年近く小競り合いのみだったとはいえ、緊迫状態の厳島を手薄にするのは考えにくい」
確かに。
聞いた話によれば毛利は厳島に新しいお城を建てたらしい。
新しく建てるくらい重要な場所であろう厳島からそう簡単に軍を引いたりするのだろうか。
考え込む私に殿がポンっと頭に手を乗せてきた。
「まぁそう悩むな。晴賢もああは言っていたが他にも考えがあるだろう。それに今回の進軍は大内総出になるだろうからそう簡単にはやられんよ」
「総出ってことは殿も戦に参加するの?」
「さぁ、それは晴賢次第だな」
そう言って笑う殿の姿に胸が痛む。
陶さん次第なんて言う事にもだけど、彼が戦場へいくことを考えると色々な思いが渦巻いてくる。
だけどうまく言葉が出なくて私は彼の服の裾をつかんだ。
一瞬こちらを見たけど、殿も何も言わず歩き続けた。
もし私たちが何か特別な関係だったなら、今何か声をかけることができたのだろうか。
掴んでいるのは服ではなく手だったのだろうか。
一瞬彼の手を握ろうとしたけどできなかった。
なんだか今の私はそうしちゃいけないように感じた。
私は彼に何も言えず、彼も私に何も言わない。
関係が変われば何か変わるのだろうか。
だけど今好きだと言ってはいけない気がする。
だけどもし殿が戦に行くことになったとしたら?
私は気持ちを伝えなかった事を後悔するんじゃないのかな。
また私は勇気を持てなくなってしまっている。
何かきっかけが欲しい。
願わくば、殿の心を覗くことのできるきっかけが。




