邂逅
龍ヶ淵、と呼ばれる滝壺がその山の奥にあった。
龍神の住まう霊山として土地の者達から畏れられ、神域として人々が崇め奉ってきたその高く切り立った山の奥深く。
先日元服したばかりの小石川村雨は、ほんの僅かの伴と龍神への供物として捧げられることになった憐れな幼い村娘を連れて、その淵に立っていた。
この真夏日、まだ日も高いはずなのに、彼らを取り囲む山の景色は鬱蒼と暗い。喉は渇ききっているというのに、じっとりと汗ばかりが無駄に額から流れ落ちる。重い気持ちで村雨は足下の深淵を覗き込んだ。
滝から流れ落ちる水はほとんどないというのに、大きな淵には底の見えない暗い水が張っている。
得体の知れない魔物がぱっくりと口を開けているようだ。
この三ヶ月、一度の雨も降らず、山の麓の土地は干上がっていた。
その土地は村雨の父、豪族の小石川宣興が治める領地だ。
三ヶ月前、その領地、山の入口にある龍神を祀る社で人斬りがあった。
殺されていたのは身元の分からぬ妙齢の娘。身ぐるみ剥がされての遺体から、追い剥ぎの仕業と思われた。下手人は未だ見つかっていない。
何者かが神域を血で穢したのだ。
以来、ぴたりと雨は降らなくなり、土地は大いに渇いた。
これから田植え時というのに雨が降らず、無理矢理植えたか細い苗は老婆の肌のように荒れてひび割れた田んぼの中で地に根を張ることもなく立ち枯れた。
そうして三ヶ月が過ぎた。
人々は限界だった。
同盟を結ぶ隣の領地から飲み水を分けて貰えることができても、そんなものは焼け石に水でしかない。ほんの数ヵ月前までは霊山の恵みをもってどこよりも水の豊かな土地が住む者たちの誇りだったのに、この無慈悲な乾きの前では遠い栄光のように嘘くさい。
誰もが龍神様の祟りだと噂し戦いた。神域を穢し龍神様の怒りに触れたと。
そして社を司る神主と村長が宣興に直訴した。龍神に生け贄を捧げ怒りを鎮めて戴く雨乞いを行いたい、と。
土地を治める者として、宣興はこれを了承し、生け贄の選出を神主と村長に任せた。生け贄は神主の占によって決まり、それを御神託とした。
そうして選ばれたのが、村雨の横に立つまだあどけない少女だった。
十六の村雨より三つ四つは年下だろう、その娘の顔を痛ましく眺める。
吹き出る汗も拭わず、凍りついた面持ちで淵を覗き込んでいる。
娘はこれから村の者たちのために死ぬ。
馬鹿げてる。
胸中で村雨はそう吐き捨てる。もう何度目か分からない呟きだ。
龍神がまことに居るのかどうか確かめるすべもないのに、娘一人の命でこの日照りが終わり、皆が願う潤いが与えられるとは思えなかった。むしろ、いるとするならば、祟りの元凶となった殺人者の命で購うべきではないのか。このようななんの罪もない娘の命ではなく。
そもそも、村雨が元服して初めての仕事がこれでは、なんとも後味が悪すぎる。この雨乞いの儀式が成功したとしても、自分はこの娘を見殺しにするのだ。
白装束の娘の名すら聞いていない。どういう育ちの者かも知らない。知ればさらに情が湧き、胸苦しさが増すだけだから。
村雨に与えられた使命は、数名の配下を連れて龍ヶ淵まで、神主とその付き人たちとそして生け贄の娘を護衛し雨乞いの儀式を見届けること。
小石川の嫡男として、この初めてのお役目をきちんと全うせねばならない。
でなければ自分の居場所はどんどん失われていくのだ。
「…若、若様」
呼び掛けられて、ハッと我に返る。
「そのように淵を覗き込んでは落ちまするぞ」
五十半ばの恰幅のよい神主に袖を引かれて、村雨は淵から二、三歩後退る。
「…すまない。あまりに深そうなので見入ってしまった」
「龍神様の御住まいゆえ、人を惹き付けるものがあるのでしょう」
淵の畔には小さな祠があり、龍神像が鎮座している。麓の社は外宮でここが本宮なのだ。
ここまで人が足を運ぶことはなかなか厳しい。土地の者たちは外宮で参拝をするのが常だった。
ここは、神主でさえ大祭に合わせて年に数えるほどしか足を運ばない聖域だ。
「儀式の準備を致します。若様らはお休みくだされ」
「…分かった」
村雨は伴の者たちと淵から大分離れた木陰で休むことにした。
「若、お飲みください」
家来の一人が差し出した水筒から、温い茶を口に含んだ。喉が渇ききっていたので、ごくごくと何口も飲む。
神主と神社の使用人たちが雨乞いのための経壇を用意する。娘は血の気を失った顔のまま、所在無げに淵の畔に立ち尽くしている。
よく逃げ出さないものだ。
自分ならきっとこの理不尽な災難からがむしゃらに逃げ出すに違いない。と、我が身に置き換えて考えてみたが、もしも娘がいざとなってから逃げ出したら、捕らえなくてはならないのは村雨達なのだ。激しい抵抗を見せれば縛り上げねばならないし、最悪この手にかけなくてはならないかもしれない。
苦虫を噛み潰す思いで、村雨は現実から目を背けるように目を閉じた。
するとなぜだかくらくらと脳が揺れて、村雨はその場に倒れ込んだ。
まぶたを開けるが視界が霞んで焦点が合わない。
毒を盛られた、と悟ったときには家来の一人に髪を鷲掴みにされ、見下ろされていた。
「若君、申し訳ない。貴方は小石川の屋敷には帰れない」
「な…なに…を」
何を言うか、と怒鳴りたくても舌が縺れて言葉にならない。全身の力が抜けて鉛のようだ。
「御母堂は若君のお帰りをお望みではない」
もう一人がそう囁く。
その一言ですべてが合点した。御母堂…我が義母。宣興の正室。村雨は嫡男に据えられてはいるが、本当の母親は宣興の側女だった。何年も子を成さず石女と陰口を囁かれてきた正室の代わりに、宣興が気まぐれで手をつけた身分卑しい下女が男子をもうけた。宣興はこれを嫡男に据え、下女を側室にし、さらにそのあと姫をもうけた。
しかしその数年後、側室は不慮の事故によって見罷られた。誰ともなく、側室は正室の悋気に触れて殺されたのだと噂されたが、宣興はこれを捨て置き、村雨とその妹の養育を正室に任せた。
その村雨の義母が、7年前男児を出産した。本来なら嫡男として扱われる男児である。正室が望みに望んだ子供だったが、宣興はすぐには跡取りを変更しなかった。村雨の器量が良すぎたからだ。
村雨は勤勉で明るく根が素直な美しい子供だった。誰もがその若様振りに見惚れてしまう。元服を迎える頃には、剣術の得意な宣興に似て村雨はその年頃の誰よりも優れた剣術使いとなった。そんな子供をわざわざ廃嫡するのは宣興にとってはすぐ決断できることではなかった。正室にどれほど言い募られても、のらりくらりと跡目問題を先伸ばしにしてきた。
だが村雨はいくら父に贔屓にされようとも、義弟が生まれてからは自分が跡目として家来たちに認められてはいないだろうことを薄々感じ取っていた。
正室の実家は同盟国の豪族であり、その権勢は小石川を凌ぐものになりつつあった。なんの後ろ楯もない自分と義弟では格が違いすぎる。
跡取りになれなくてもかまわなかった。けれども、これから先、自分が今の地位を手放し、宣興がいなくなったとき、村雨の妹の居場所までなくなってしまうのではと村雨は不安でならない。
いずれ宣興がそれなりの相手のもとに輿入れさせるのだろうが、宣興がいなくなったとしたら、正室はきっと実母に似た妹を積年の腹いせにとんでもない者に降嫁させるだろう。それが恐ろしくて村雨は跡取りの座から降りれずにいた。
しかし今、その肩書を剥ぎ取られようとしている。肩書どころか、命さえも。
不慮の事故とされた実母のことがにわかに脳裏に甦る。母もこうして殺されたのか。
どんどん狭まってくる視界の隅では、雨乞いを始めようとする神主達の姿があったが、こちらの異変には気付いていないようだった。
「なに、お寂しいでしょうから、若君一人だけあの世には行かせませんよ。あの者たちすべてお伴させましょう。龍神の供物にあんな痩せた小娘だけでは足りますまい」
耳元で呪詛のように囁かれる。
「龍神の供物は生きていなければならないとのこと。若君が飲まれたのは痺れ薬です。娘もろとも生きたまま龍ヶ淵に沈んでいただく」
「神主はそれこそ神に仕えるもの。供物に最も相応しいでしょうな」
あの者らにも茶を振る舞ってやろう、と冷淡に言い残し、一人が水筒を手に神主達のもとへ向かった。
村雨は木の幹にもたれ掛かるように寝かされる。遠目に見ればただ呑気に休んでいるようにしか見えないだろう。
「雨乞いの経が済んだら、神主らに茶を振る舞う手筈です。それまでまあのんびり儀式を見物しようじゃありませんか、若」
連れてきた家来はすべて正室の息のかかった者たちだったのか。
呼吸が浅くなり、意識が朦朧としていく。
ああ、ここで、こんな形で私の命運は尽きるのか。
雨乞いの経が遠くなった耳に微かに聴こえる。
村雨は口惜しさと絶望の中、意識を手放そうとした。
「不届き者共が。私の住処を荒らす気か」
凛と冴え渡る声が響いた。男たちは急に降って湧いた声に驚いて辺りを見渡した。
底無し沼のように深い闇を湛えた龍ヶ淵と、回りをぐるりと囲む暗い森林。
しかしどこにも姿が見えない。
「さっきから聞いておれば、私に捧げる供物だと?私がいつそんなものを寄越せと言った?」
鬱陶しそうな口調。
「誰がこんなくだらんことを思い付いたのだ?これだから人間はつまらぬ」
ますます鬱陶しそうなその口振り。涼やかで尊大で、そしてまだ色づき始めたばかりの少女のような。
その声が、直接脳裏に響いているのだと皆が気付き始めたとき、ふ、と淵の真ん中、水面上に、一人の娘が立っていた。
薄暗い風景に馴染まない雅やかな水晶色の羽織姿の天女。
天女…まさしく天女としか形容できない人外の美しさ。年の頃は十七、八にしか見えないが、淡い光を全身に纏い、陶磁器のような白い顏と一輪の百合のような立ち姿。遠目からでもその神々しい美しさに、その場にいた者たちは魂を射抜かれたように静止した。
ただひとり、村雨だけは服毒したせいで事態を把握できずにいた。
(…なんなんだ?なにが起きている?)
かろうじてまだ意識はあった。薬は完全に意識を奪うほどのものではないようで、まるで夢の中をさ迷っているように思考が定まらない。
「ここから早う立ち去れ。今ならまだ私も怒るまい」
声だけが明瞭に頭の中に届く。
天女のごとき姿をした娘は、すうっと水面を滑るように音もなく淵の端まで来て地に上がった。体重を感じさせない移動に、皆、一斉にたじろいで後退りする。
ただ、神主だけが弾かれたように天女の前に飛び出した。
「龍神様!龍神様でございますか」
玲瓏な娘の足元にひれ伏し、その姿を仰ぎ見る。
青みを帯びた黒髪を高く結い上げ、都風とも大陸風ともつかぬ衣を纏った娘は、黒目勝ちな大きな眼で神主を見下ろした。その眼光に威圧され神主は大きな体を縮め込ませた。
「おまえたち、普段は祭りやらなんやらで神妙な面持ちで経だけ賑々しく唱えて帰っていくだけのくせに、今日はいったいどういうつもりか。見ておれなくなってつい出てきてしまったではないか」
口許を覆っていた扇子をパチリ、と閉じて、娘は人間たちを一瞥した。
「本当はこんなふうにおまえたちの前に現れるべきではないのだがな」
何の憐憫の情もない声音で続ける。
「私はお主らのしょうもない命など求めておらぬ。そこの薄汚れた田舎武士どもがなにやら企てておったようだが」
娘の言葉が理解できず、神主は背後の豪族の者たちを振り返る。
小石川の家来たちはばつが悪そうに目を背ける。
「…まあ良い。私が出てきたのだからもう悪さも出来まいて」
「お、お慈悲を、龍神様のお慈悲を賜りたく、雨乞いの御祈りをさせてもらいに参ったのです!」
ハッと本題を思い出し、神主は娘の足元にすがり付くように這いつくばった。
社の使用人たちも主に倣えとばかりに駆け寄って娘を拝んだ。生け贄にされるはずの村娘は、どうして良いか分からずへなへなとその場に座り込んで手を合わせた。
小石川の男たちだけが固唾を飲んで成り行きを見守っている。
「雨、か。先代が天上にお帰りになったからな。だから雨が降らぬのだ。私はその後釜でここを任されたばかりだ」
「では、では龍神様は外宮でのことでお怒りではないのですか?」
「いいや、先代が帰ったのはそのことで人の世に嫌気が差したからだ」
艶やかな唇一つ動かさず、淡々と娘は脳に直接言葉を告げる。
神主たちは青ざめてなおいっそうひれ伏した。
「こ、この贖罪をどう果たせばお怒りは解けるのでしょうか?」
「そんなこと私が知るか。怒っているのは私ではなく先代だからな。生け贄など捧げてもらっても迷惑だ。私も先代も人間の魂など集める趣味はない。そして後任の私はおまえたちがどうなろうが知ったことではない。渇いて滅びるならそれもまた一興。おまえたちが滅んだあと、この山の裾野をさらに広げて美しい緑豊かな神域にするのも手だな」
初めて楽しそうな色を含んだその声に、やり取りを朦朧と聞き流していた村雨は心の内でつい笑った。
滅びるのもまた一興、か。たしかにそうだ。人間のすることになど何の意味もない。雨が降らないと言って同族の娘を殺すのだ。共食いだ。いや、共食いよりも見苦しい。大仰な理由をつけて、神様のせいにして自分達の欲のために無垢な娘を殺すのだ。その点、獣のほうがずっと純粋だ。
「ほう。おまえ、私の趣味を解するのか」
目を細めて娘は村雨のほうを見遣った。
そして娘は再び綿毛が空気に舞うような軽やかさで横たわる村雨の側近くまで移動する。村雨の近くにいた男は驚いて飛び下がった。
娘はまじまじと村雨を見下ろした。しかし、値踏みするような目線に晒されても村雨には分からない。薬は全身に回り、半分眠っているようなものだった。
「ふうん。人間にもこのような者がおるのか。悪くないな」
娘の声だけが白濁した頭に響く。
「おい、そこの汚い男ども。さっきこの子供を邪魔者扱いしておっただろう。要らぬなら、私がもらい受けよう」
娘の言動に、小石川の家来たちはにわかにざわつく。
「龍神様、捧げるつもりだったのは若様ではなく、こちらの娘です」
意味が分からず、慌てて神主は村娘を指差した。若様を連れていかれたら、殿からどんな仕置きがあるか分かったものではない。指差された娘は震え上がって泣き出した。
その様に天女のごとき娘は一瞬鼻白んだ。
「神主よ、おまえの気持ちは嬉しいがあいにく私はこう見えても女神でな。小さな娘御よりも若い男子のほうが好みに合うのだ。どうせ下働きに置くのならこっちが良い」
花が咲くように微笑んで、神主の気持ちを労う気もないくせに漫然と言ってのける。
「さて、私の用はもう済んだ。おまえたちもさっさとお帰り」
しっしっ、と犬を追い払うように手を振る。
「し、しかし、若様を差し上げたら、必ず雨を降らしてくださいますのか!?」
食い下がる神主をきつく睨み付けると、
「神の御業を指図する気か!思い上がるな!」
傲然と言い放たれた言葉は落雷のように人々の頭に鳴り響いた。恐れおののいて全員が地に突っ伏した。もちろん、村雨を除く小石川の男たちも肝を冷やしてひれ伏した。
そして娘は初めて口を開いた。
「気が向いたら、雨の一つも降らせてやろう」