恋 ふまない
題名は意味をなさずして意味をなすのだ。
大学と高校の差とは何か。社会学的に考えよう。と、云ってもだ・・・私は社会学には詳しくないし、ましてや偉そうに誰かの学説をひけらかそう、というわけではない。ただ、私の肌身で感じたことそのままを表現したいだけ。学説やその根拠は実際、普通の人々の、実生活の中から離れず、浮世離れせず、ぴったりと寄り添わなくてはならない。実に仲の良い老夫婦のように一生その学説が死ぬまで一緒。つまり、学説と実生活、お互いがおいてもなお、もしくは変化してもなお、同居できればそれでよし。実生活が変化しすぎて、(この部分だけがちょっと現実の夫婦とちがうのでけれども)変わらない学説と離婚せざるをえない場合は、その学説は永遠の真理とはなりえず。実生活は新しい生活をはじめ、新しい恋を探さねばなるまい。学説の片思いだらけのこの世界は永遠の真理をいつになれば、永遠の幸せをいつになれば手に入れられるのだろうか。それはおいといて、私の実生活、つまり私だけの社会学的学説を述べてみると、その違いとはコミュニティーの創造性である。学説の片思いは果たして実るのか。私の中で上手に成就するのか。永遠の幸せを手に入れられるのか。私はその恋愛を創造主第三者として、見守る、身守るわけである。私自身も傷つかないように。高校は小範囲のクラスが存在する。およそ一年、常に一緒。変わらぬ顔を毎日拝み、拝見し、謁見し、会見するわけで、その中では多少のグループ形成はみられるものの、みんなが知人意識を持つのであろう。好き嫌いも多少あろう。しかし、毎日強制で、その他人意識を矯正されるために、共棲意識も次第に芽生え、知人としての意識は共生するのである。では、大学は。大学によって異なるものの、私の実生活ではある種のクラスはあるものの顔見合わせは週一程度、授業はばらばらって感じ。大教室授業ではあれ、こんな人いたっけ、おおなんだこいつ、マナー悪いな、ちょ、あの人このあいだは違う席だったのに私の席に座ってるとかしょっちゅう。途中から定期試験対策で仲間とか作るけど、その作り方が、私の言いたかったことなんだけど、ひっこみじあん、人見知り、会話苦手の三重苦、それらのスーパースキルをもてあそぶ私にはとうてい、トウテイ友達作りなんて自分からはできなかったの。仲良くなれたのは話しかけてくれたキラキラあうとごーいんぐ女子のひとみだけれども、趣味は合うし、性格もいいしで私はすぐに大学に溶け込めたようなきがした。自分からコミュニティーを形成しにいくか、作ってる人に話しかけられるまで待つかのどちらか。それが大学での処世術というか、書生はそうやってなにかの一員となる。そうして、大学に行ける理由というか、行く活力根源を見出して、いく、のである。
哲学学科の私は書で生きる書生として書を学ぶ生徒として大学入学を達成した。親には好きなことを勉強させてもらえて感謝している。最寄駅から大学への道のりには桜が満開で、凄く綺麗だった。お堀にも、そらにも桜の花びらは浮き、私も、うきうき、どういったことを学べるだろうと浮足立った。気持ちそわそわ、緊張ぴんぴんの入学式。見知らぬ人しかいない心細さ。だからこそ、ひとみの存在は大きかった。今も助けられている。隣に座ったひとみに話しかけられて、仲良くなったのは幸運だったね。ほっとしているよ。履修もほとんど一緒なんだ。だけどね、いっこぐらい違うほうがいいでしょ、ひとみは土曜にはしっかりと二連休したいらしくてひとつもいれなかったから、わたしはいっこいれたんだ。二限、運動論。ベルクソンの思想についてやるんだけれども、それは土曜日だからか、結構少人数でひっそり小教室。教授、まじか、常に間近で、寝ることは出来なさそう。ちゃんと起きなきゃ。といいつつ少しうとうと、窓から入る日光にうつつをぬかしていた。最初は一人で結構さびしかった。けれどもね、それなりに授業数重ねるとやはり話しかけてくれる子は多くて、みんなキラキラしてる。私もそーなりたいなぁ。んで、その中におかしな男の子がいて、時々授業前とかで聞こえる声は結構かっこいいんだけれども、顔が濃いのね、それで声ばかりが気になってたんだ。あってないような第一印象はそんな感じかな。さて、きっかけは特になくてその授業が終わって階段下りてた、その時に他にも同じ授業とってたみたいで「佐藤さんだよね、あの授業、来週、休講らしいよ」って話しかけられて、なんで名前知ってんのってちょっとびっくりしたけど親切にも、教えてもらったから丁寧に敬語で心警護しながら感謝の言葉を述べた。それっきりで特に会話はなかったが、大学最寄駅で彼が彼の友達と別れたのを少し後ろで遠目で見ながら、歩き続けた。そして、横を通り過ぎながら「さようなら」とあいさつした私。駅入り口の階段下りかけようとしたとき、「ちょっとまって」ふと足を止め、なんだろうと案じ顔。振り向けば、緊張ぴんぴん、神経とがり、そういった顔で「連絡先教えてくれる?」たいした抵抗、オームさんもしかめ顔で、連絡先を教えた。その日、さっそくメールがいらっしゃいました。わたくしは趣味などなどを聞かれたわけですが、共通部分というのがございました。貴男は書を良く拝読なさるそうで、わたくしも愛好申し上げています、作家様の幾名かを申し上げたところ、なんということでしょうか、御一人ほど、共通した方がいらっしゃいました。わたくしはなんともいえぬ、なんと申し上げればいいのでしょうか、その作家様についての細かい部分までお考えや意見を拝聴させていただきたい心持になりました。しかしながら、そのためにお時間を割いてもらおうなどと、身に余るお願いでござりましょう、諦念を心の中にしまいつつ、その日のやり取りを終えました。
美空は次の週にもその授業に出席した。彼は美空のななめ左前の席が指定らしく、常にそこで沈黙していた。彼の友達はこの授業の評価規定上のサボタージュの甘さを知ってしまったので、発表を終わらせると姿を見せなくなった。その週は美空のグループの発表であったために、彼から「発表どう」と尋ねられたので、「緊張して昨日は眠れなかった」と答えた。美空のあがり症は末期のもので治療法は見当たらなかった。赤面、オイルぎれの人口会話装置、極度の震え、焦点を失いそうになる虫眼鏡などなど症状は様々。すべては美空自身の性格、というよりは経験の少なさを露呈するものであってこの不治の病の最善の治療法はすでに美空自身のなかで発見されていた。経験・・・だろうな、かすかな希望、息切れしそうになるその重圧へのオームさんはその場数でつけていくものだろう。彼はその点において、オームさんをつけているようだ。彼の発表において見出される経験ははしばしににじみ出る。まずは声の大きさ、適度。声の明るさ、明瞭。声のトーン、抑揚あり。声そのもの、かっこいい。目線、レジュメ定点ではなく、聞く人全員を見渡す。発表者検定準二級合格のハンが押される。準二級である理由はどこだろう。三級というのは標準という感じがしてならないのでそれより一歩上、しかし、次の二級も苦心を用いた練習のよって余裕合格するだろうと美空には思えた。どうしてそんなにも上手いのか、美空はいとあやし、と思い尋ねてみると、彼は中学高校と生徒会長を務めており、なおかつ種々様々な発表の場を踏みしめてきたというのである。やはり、踏みしめるべきは経験、場数であり、我々の脳はそれらの刺激によって適応力をつけるのである。ダーウィンも述べている。淘汰される種というのはその環境に適応できなかった種であり、生き残るのは適応力のある種だ、と。その学説はなかなか実生活との愛を長く育んでいるようで、今もなお、この社会を支配している学説である。進化論は社会学にも発展され、社会進化論も登場する。つまりは、実生活に適応できない法や社会的慣習、文化においても淘汰現象がみられ、消えていくというものである。そういった意味で、人間についても同じことが言えるのだろうか。その学説は私の実生活にも当てはまるのだろうか。答えはノーだ。思い込みからか、そうかもしれない、しかし、私は思い切ってノーと言おう。私のような小さな適応能力でも救ってくれる人がいる。手伝ってくれる人がいるのだから。この学説は私の実生活とは片思い、肩重い、堅苦しさで幸福にはなりえず、苦い思いしか、その恋愛に見出せなかった。自身と傍観者、この愛だ、この間、には物凄い差がみられるのを我々は感じている。たとえば、友人や漫画の恋愛において、我々の立場はそう傍観者なり。それゆえに自身の恋愛においてはあまり見られない「キュン」とした感覚を得られる。もしくは「うきうき」かもしれない。そこに交じる感情というのは傍観者だからこそ得られるのであってそこに関係性が混じらないからだ。立場変わって自身の恋愛において「うきうき」よりも「重苦しさ」が勝る場合が多い。そこには相手の感情をくみ取ろう、相手の感情を傷つけまい、損なうまいという思惑が存在する。その思惑が入ってくる時点で臆病になりがちになる。その段階を打破するためには感情を損なってもいいから、踏み入らなければという考えへの転換、展開を必要とする。あなたには出来るかしら。
私なら答えはノーだ。私はどうしてもイエスマン、もといイエスウーマンにはなれそうにもない。彼からの誘いがあった。ひまなとき食事でもどうか、という内容。私の答えは・・・。女子高卒、男子無菌状態三年、ふたりきりとか無理だろう。そう考える。やんわりと相手の感情を損なわないように断ろう。船旅に出掛けよう、後悔をつれて航海へ。私のしら肌を焼こうが、構わない。行動せずは後悔なり。行動できずは後悔なり。行きたい意思は固く、いし一矢貫くほど。だがしかし・・・。不安要素、案ずること多かれ、大いに抵抗、断ることには半導体。しかしこれでは他人のまま、絶縁体。白々しい、構うものか、行くべし。そう考える美空A。若い身空で経験ふまず、韻踏むだけか。それだけでいいのか、それだけじゃだめなのか。駄馬走らず、その脚速きことは今は昔のことなれど、今は駄馬。あしきことこの上なし。葦川沿いに生え、忍十万石、坂東太郎の暴れん坊、おーいそこの意気地なし、いい加減その一歩、踏み出してはどうかな。葦踏みし、その御足、よごさず、けがさず、けがせずで済むと思うなこの時代。はてさてどうすべきか。ただ、傷つけ、汚せその御心。虎穴にいらずんば虎児を得ず。古穴にいらずんば故事を得ず。なにごとも行動すべし。そう心ではわかっているのだ。しかし、勇気持てず。誰か、私に勇気をください。そうしていくうちに私は彼が気になるものの、何もせず、何も起こらず、浮足立つ。何も踏めない。
何かを介して彼とは会話しますが、それは無機質な電界を通し、本心をみせるノンバーバルコミュニケーションの重要性がわかる。親密というよりはもはや挨拶程度のようなものしか返事できず、自身も傷つくデフレスパイラル。土曜日の挨拶は「おつかれ」その背中を見送る心にあなたは気づかず、傷つかず。この思いを今日こそは伝えなければと思うのだけれども苦々しい思い出だけがつのり、また一週間が過ぎ行く。かわす言葉、かわす挨拶、見送る一方的な背中。それぞれが増えていけば増えていくほどやはり苦く苦しいのだ。もうどうすればいいのかわからない。「この授業も来週で終わりだね」私の気持ちも終わるのだろうか、この学説の終止符を打てるのは私だけであり、私だけの権利であり、しかも私の自由である。自由であるが権利はあるが、それができる私が強くない。苛まれるのは私だけ。少し理不尽。舌をだしベーっとあの背中に向けてやりたい。理不尽なあなたは今日も振り返らずにどこかへ行く。
終わってしまった同じ授業。週一の幸福。ついに私は終えることができなかった。この思い、どこへいくのか、あてはない。あてなはない。恋の手紙。この恋は経験を踏む前に終わってしまった。この届かない便箋は明日捨ててしまおう。
しかし、私は戻る決心をして