第43話 これから見る景色
空気が澱んでいる。それがはっきり分かるくらいには、息苦しかった。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋。生活の残骸が散らばる、床の上。
目の前にあるのは、もう随分馴染んだ胸板と、落ち着く匂い。
俺の身体を優しく包み込むのは、頼りになるたくましい腕。
ベッドに寝転がったまま、その腕の中に籠るように身を縮こませ、胸板に縋るように擦り寄る。
俺はもう、二週間学校に行ってなかった。行けなくなってしまったのだ。
外にすら、出られなくなった。
学校でも、スーパーでも、テレビでも、どこにいたって、湊さんの話題で持ちきりだったから。
子どもを狙った最悪の連続殺人鬼。サイコパス。死んで当然の人間。
誰もが口を揃えて、あの人のことをそう言っていた。
きっとそれは事実だ。でも、俺にとっては、そうじゃなかった。
噂を聞く度に、そんな自分が間違ってるんじゃないかって、そう疑ってしまって。
そんな自分のことが、ますます大嫌いになった。
最後の抱擁のあと、「交番に行く」と言って立ち上がった湊さんの瞳が、まだ焼き付いている。
俺の返り血で汚れた湊さんが、静かに見下ろす。その瞳は穏やかだった。
目が合うと、口元が、ほんの微かにほころぶ。
「ごめんね、さようなら」
それが、最後に聞いたあの人の言葉だった。
「すなお」
ふと声が降ってきて、顔を上げる。要が気遣うように俺を見下ろしていた。
「お腹すいてない? なにか作ろっか」
「ううん。大丈夫……要こそ、なんか食えよ」
「んーん。いいや。俺もお腹、空いてないから」
要は柔らかい笑みを浮かべて答える。
嘘だ。その証拠に、要の腹がぐうぅ、と鳴った。
当たり前だ。昨日から俺達は、何も食べず、ただずっとベッドの上で寝転んで、こうやって抱き合ってるのだから。
俺がそれを望んでるからだ。きっと要は、俺に合わせてくれてる。
でも、もうこんなの終わりにしないと。
顔を見るのが怖くて、要の胸に再び顔を埋める。
「かなめ」
「なに?」
「学校……行かなくて、いいの」
この二週間、怖くて聞けなかった質問を、俺はようやく要に投げかけた。
返事が返ってこない。それが怖くて、俺は言葉を続けた。
「俺、自分のことくらい、何とかできるから。だから……要はいつも通りの生活、したほうがいいって」
絞り出すように吐き出した言葉。それでも、返事はなかった。
要が小さく息を吐く気配。俺は余計なことを言ってしまったんだと、後悔した。
「いかない。俺、学校嫌いだし」
「俺のせい? 俺がこんなだから。目を離したら、何するか、分かんないから──」
「違う」
はっきりした否定の言葉。おそるおそる顔を上げる。
要は俺の顔をじっと見つめていた。
「俺は自分の意思でここにいる。ここにいるのが、素直のそばにいるのが、一番落ち着くから」
その目には、強い意志がこもっているように見えた。
よく分からない理由を自信満々に言ってのける要を見ていると、ほんの少しだけ、お腹が空いてきたような、そんな気がした。
「かなめ、やっぱなんか……ちょっと食べたいかも」
「わかった。じゃあ何か作るね」
「俺がやるよ。俺、最近なんも出来てなかったし」
要が驚いたように目を丸くする。そして嬉しそうに口元をほころばせた。
「じゃあ手伝ってもらおっかな」
「は? 料理くらい一人でできるし」
「俺がやりたいの。ほら、お米洗って」
「……わかったよ」
渋々という感じで米を洗っていると、ふ、と隣から小さい笑う声がした。
それから俺は、なんとか元の生活に戻ろうと活動し始めた。
料理をしたり、ゲームしたり、人の少ない深夜帯に散歩してみたり、少しずつ、本当に少しずつ。
要はそれに、ずっと付き合ってくれた。
いつも通り、人気の少ない時間に散歩をしていると、隣を歩く要が提案してきた。
「素直、明日さ。旅行行かない?」
「え? 旅行?」
「俺さ、実は行きたいとこあるんだ。気分転換に行ってみない?」
「いいけど……遠いのか、それ」
「うん。一泊二日っ」
にこりと要が笑いかける。久しぶりに見た無邪気な笑顔だった。
だから俺はその提案に、小さく頷いた。
翌朝、早くに要に起こされ、ぼんやりしている内に身なりをせっせと整えられて、家を出た。
そして久々に新幹線に乗った。前に乗ったのは、たぶん子供の頃、親に連れられてだった。
なんか、新幹線に乗ると旅行って感じがするな。
つーか、行き先どこなんだろう。何も聞いてないんだけど。
ふと、湊さんのことが頭をよぎった。
もしあの時、要に止められずに湊さんと出掛けてたら。
俺と湊さんも、旅行みたいなことしたのかな……いや、その前に殺されてたか。
だって、あの時の湊さんは、俺のこと、ただのターゲットとしてしか見てなかったんだから。
そんな事を考えながら頬杖をつき、窓の外を眺める。ふと視線を感じた。
見ると、要が俺をじっと見つめていた。
「なに」
「お弁当買ってきたの、食べる?」
要はビニール袋からさっき買った弁当を出して、差し出してきた。
「ううん。まだいい、腹減ってないし──」
ぐうううきゅるるるる。
俺の腹が盛大に鳴る。ぷっと要が吹き出した。
「おまっ……わらうなっ!」
「ごめん、だって……っ」
要は笑いを堪えるように口元に拳を当てる。顔に熱が集まるのを感じた。
こいつ、馬鹿にしやがって。でも──。
声を抑えて笑っている要の手から弁当を受取り、箱を開ける。
すると要も嬉しそうな顔をして、弁当を食べ始めた。
それから三時間とちょっと。
目的の駅に着いた俺達は電車とバスを乗り継ぎ、知らない土地に降り立った。
「ついたよ」
「……ここは」
ぴょこんぴょこん。
足元に白い塊がやってくる。「うわっ!?」と声を上げて避けると、驚いたように逃げていった。
ふわふわの背中。丸いしっぽ。そして、長い立ち耳。
「……うさぎ?」
「そ。ここ、うさぎと触れ合える広場なんだ」
顔を上げると建物で囲われた自然豊かな広場に、うさぎがたくさんいた。
ベンチの下で休憩している子や、背中を撫でられている子、家族連れの子どもに餌をもらっている子もいる。
「ここが要の来たかったとこ? お前、そんなにうさぎ好きだったっけ?」
「うん。だって可愛いじゃん」
「ふーん……初耳なんだけど」
「うさぎだけに?」
見ると、にこにこ顔の要の頭の上に、ピンクのうさぎ耳が生えていた。思わず吹き出す。
「おまっ……どーしたのそれ?」
「入口にあったんだ。『ご自由にお使いください』って」
「だからってさぁ~」
「はい、素直の分」
「うわっ!?」
あっという間にうさぎのカチューシャを装着されてしまった。
「あははっ似合ってるよ素直。かわい~。写真撮ろ?」
俺が何か言う前に要はスマホを構え、顔を近付ける。カシャリとシャッター音がした。
「ちょっ! 何勝手に撮ってんだよ! ぜってーヘンな顔になってんじゃん!」
「え~? めちゃくちゃ可愛いよ?」
ほら、と満面の笑みで要がスマホの画面を見せてくる。
やっぱり俺の顔は驚いたような、ぎこちない顔になってしまっていた。
「へへ~、これロック画面にしよ~」
「おまえなぁ……」
「あ、あそこでエサ売ってるみたいだよ。買いに行こ?」
まだ照れが勝ってる俺とは対照的に、要は無邪気にはしゃいでいる。
俺はとりあえず、要に付き合うことにした。
手のひらにエサを数粒乗せた俺達は、日陰で休憩しているうさぎの前にそっとしゃがみ込んだ。
「俺、能力のせいでうさぎに怪我させたりしないかな」
「大丈夫だよ。最近ずっと俺とくっついてたし。素直、今まで物以外は壊したことないじゃん」
「……うん」
ドキドキしながら、エサを乗せた手のひらをうさぎへと近付けてみる。
するとうさぎの顔がこちらを向き、鼻をひくひくと動かしながら近づいてきた。
そして──。
てしっ。
うさぎの前足が、俺の手のひらに乗る。そして手のひらにあるエサを、もそもそと食べ始めた。
「かなめっ」
振り返ると、要も目尻を下げて頷いた。
「かわいいね」
「……はは」
思わず顔がほころんで、笑い声が口からこぼれた。
エサを食べて満足したように丸まっている背中を、そっと撫でる。
すごい、ふわふわしてる。うさぎの毛って……こんなにやわらかいんだ。
「素直、あっちにうさぎを膝の上に乗せる体験コーナーあるみたいだよ。やってみない?」
「行く!」
「ふふ、じゃあ後で行こっか」
それから俺達は、うさぎを心ゆくまで堪能し、バスに乗った。
「はぁ~……うさぎ、めっちゃ可愛かったなぁ~……」
「うん。いい写真たくさん取れたよ」
「写真?」
要のスマホを覗く。
俺がうさぎを撫でたり、膝に乗せてる写真が、カメラロールを埋め尽くしていた。
「おまっいつの間にこんなに撮ってたんだよ!?」
「え~? だって素直、うさぎに夢中で全然気づかないからぁ~」
「なんじゃそら……で、次はどこ行くんだ?」
「道の駅。このままバスで行けるんだ。そこでお昼食べよう」
「ん、りょーかい」
「…………」
「なんだよ。俺の顔じっと見て」
「んーん、なんでもないっ」
にこりと要が笑みを浮かべる。俺はなんだか照れくさくなって、窓の外に視線を投げた。
うさぎのことを頭に思い浮かべながらほわほわしていると、あっという間に道の駅についた。
その後、道の駅でご飯を食べたり、色々見たりしていると、要が腕時計をちらりと見て、「行こう」と外を指さした。
外に出ると、見覚えのある顔。
要のじいや──確か東堂さんが、黒塗りの高級車の前に立っていた。
「あれ……あの人って、要の?」
「うん。心配で来ちゃったんだって。せっかくだし、ここからはじいやに運転してもらおうと思って」
「要ぼっちゃま、素直様、どうぞ」
東堂さんは丁寧な所作で後部座席の扉を開け、俺達を待ち構えている。
要を見上げる。「ほら、乗ろ?」と促され、俺はぎこちなく車に乗り込んだ。
俺達が乗り込むと、車がゆっくりと発進する。
白い革張りの座席はふかふかで、ドリンクホルダーやテレビまで設置されている。
走行音も静かで、振動もほとんど伝わってこなかった。
こんな高級車乗ったことなくて緊張する。
ちらりと隣を見る。要は慣れた感じでリラックスしていた。
「要、次はどこ行くんだ? ……そろそろ夕方だけど」
朝に出発したというのに、窓の外はすっかり夕暮れだった。
「ん? ないしょ。この感じだと、すごくいい時間につきそう」
「……なんだよそれ」
そう返しながら、俺は内心わくわくしていた。
こんな気持ちになるの、いつぶりだろう。
「…………」
いいシートなのと、久々の外出なのもあって、眠気が一気にやってきた。
「寝てていいよ。まだ時間掛かるから」
隣から優しい声がして、大きな手のひらが、俺の頭をゆっくり撫でる。
心地よくて、思わず目を閉じる。すぐに意識が溶けていった。
「……なお……すなお」
ぼんやりと目を開ける。要が笑みを浮かべて、俺を覗き込んでいた。
「ん……かなめ」
「ついたよ、降りよ?」
要がそう言うと、車の扉が開く。
磯の香りがする。それに遠くで波の音。外を見ると、そこは砂浜だった。
「え……海?」
「うん。ほら、おいで」
要が先に降りて、俺に手を差し出す。
ぼんやりしたままその手を借りて下りる。
「うわっ!?」
ふわふわした砂浜の感触に、バランスを崩しそうになった。思わず要にしがみつく。
「素直、大丈夫?」
「あ、うん……」
さく、さく、とぎこちなく歩く。引きこもっていたせいだろう、よろついてしまう。
結局俺は、要の腕に掴まりながら歩いた。
やっと波打ち際まで歩き、やれやれと顔を上げる。
そして、息を呑んだ。
どこまでも続くような水平線。その真ん中に、夕日が半分ほど顔を出している。
夕日の茜色で染まった海がきらめき、寄せては返す波は、まるでヴェールみたいに光をまとっていた。
水平線の茜から、上にいくにつれて、空は夜の色に染まっている。
絶景だった。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。すると要が隣で小さく笑った。
「綺麗だね」
「すげーな……俺、海って初めてきた」
「そうなんだ?」
「うん。俺、すぐ物壊すからさ。浮き輪を壊して溺れるかもって理由で、連れてってもらえなかったんだ」
「……そっか」
心地よい沈黙を、風がさらさらと撫でる。
周囲を見回す。たくさん車が停まっていて、みんな思い思いに写真を撮ったり、波打ち際ではしゃいでいた。
穏やかな気持ちでそれを眺めていると、ふと手を握られた。
要を見る。遥か遠くを見るように、精悍な顔つきで、海へと視線を投げていた。
「俺、18歳になったらすぐ免許取るよ」
「え?」
「免許取ったらさ。車でどっか行こうよ。二人で。色んな景色を見て、美味しいもの食べてさ」
夕日が照らす横顔を、じっと見上げる。そして、ぷ、と吹き出した。
要が表情を崩し、慌てたようにこちらを見た。
「なに、なんかおかしいこと言った俺?」
「いや、だって、免許取り立ての要の隣に横乗りすんの、こえーもん。お前マリカーでいっつも最下位じゃん」
「そ、それとこれとは……別でしょ」
要が夕日とは違う意味で赤く染まった頬を掻く。
「要」
「なに?」
「ありがとな」
「……うん」
俺は要の手を、しっかりと握り返す。
俺達は手を繋いだまま、夕日が海へと沈んでいくのを、肩を並べて眺めた。
遅くなってしまいすみません。今回から第三章開始です。
本作は【火・木・土】更新予定です。
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