婚約破棄されても泣かなかった私を、隣国の王子だけが見ていた
婚約破棄されたその夜から、私は泣くことをやめた。正確には、昨夜が最後だった。
雨の音が馬車の屋根を叩いている。隣に座る見知らぬ王子は、私が泣いた痕跡を黙って見ていた。
少し前の話をする。
クロスフォード伯爵家の長女として生まれた私、アメリア・クロスフォードは、十四歳のときからエドワード王太子の婚約者だった。八年間、それなりに誠実に、その立場を全うしてきたつもりだ。礼儀作法を磨き、社交の顔を作り、王妃になるために必要なものを一つひとつ身につけてきた。
感情を表に出さないことも、そのひとつだった。
伯爵家の令嬢は泣かない。怒らない。どんな場面でも静かに微笑み、正しい言葉を正しい声の高さで話す。それが母から叩き込まれた教えで、私はそれを疑ったことがなかった。感情を見せることは弱さだ。弱さを見せることは、その場の全員に対する無礼だ。
だから昨夜、王宮の大広間で婚約破棄を宣言されたとき、私はただ深く礼をして「承知いたしました」と言った。
震える手は、背後で重ねて隠した。
昨夜の話をもう少し続ける。
夜会は盛大だった。シャンデリアの光がフロアに満ちて、何百人もの貴族が集まる中で、私は二十二歳の社交界デビューを迎えるはずだった。婚約者として隣に立ち、やがて王太子妃として紹介される、その夜のために。
エドワードは遅れて現れた。そして隣に立ったのは、私ではなかった。
フィリス・ランドール侯爵令嬢。金髪の、よく笑う、十七歳の少女。エドワードが彼女の手を取って歩み出たとき、広間のざわめきが一瞬止まった。
「この場を借りて発表します」
エドワードの声は堂々としていた。
「クロスフォード伯爵令嬢との婚約を、本日をもって解消いたします」
理由は述べられなかった。フィリス嬢への言及もなかった。ただ、事実だけが広間に落とされた。
何百もの視線が、一斉に私に向いた。
私は歩み出た。エドワードとフィリス嬢のいる壇上まで歩き、深く礼をした。
「承知いたしました」
それだけ言って、踵を返した。
背筋を伸ばしたまま広間を横切る間、足が震えていた。それだけは、誰にも見えなかったと思う。
王宮を出ると、雨が降り始めていた。迎えの馬車を待つ間、私は柱の陰に入って、たった一度だけ目を閉じた。
泣いたのは、その夜だけだった。
翌朝、迎えの馬車に乗って屋敷へ帰るつもりだった。
馬車に乗り込もうとしたところで、先客がいることに気づいた。
見知らぬ男が、私の馬車の座席に腰かけていた。年齢は二十代半ばといったところか。黒髪で、落ち着いた色の瞳をしていて、貴族の礼装を纏っていた。顔は知らない。けれどその礼装の意匠は、見覚えがあった。隣国ヴァルテ王国の紋章だ。
「失礼ですが、これは私の馬車です」
「知っています」男は答えた。「乗りなさい。雨が入る」
言われた通りに乗り込んだのは、他に選択肢がなかったからだ。
扉が閉まった。馬車は動き始めた。
「あなたはシリウス・ヴァルテ第一王子ですか」
「そうです」
「なぜ私の馬車に」
「通りかかりました」
嘘だとすぐにわかった。王族が「通りかかって」他国の令嬢の馬車に乗り込むはずがない。けれどそれ以上追及する気力が、昨夜からどこかへ行ってしまっていた。
シリウス殿下は私の顔を見て、それから視線を窓の外に移した。
「昨夜の婚約破棄については聞いています」
「そうですか」
「怒らないのですか」
「怒ったところで何かが変わるわけでもありませんので」
殿下は少しの間、黙っていた。雨音だけが馬車の中を満たした。
「取引をしましょう」
唐突に言われた。
「この国があなたを必要としないなら、私の国でその能力を使ってもらえるかもしれない。賓客として迎える代わりに、私の情報収集に協力してもらいたい。条件は追って提示します」
感情より先に、頭が動いた。
「条件の内容によります」
殿下が初めて、驚いたような顔をした。怒るでも泣くでもなく「条件次第」と返したことが、予想外だったらしい。
私はそれを見て、少しだけ——本当に少しだけ——自分が惨めではないことに気づいた。
「提示します」殿下は言った。「今夜、私の宿舎で話しましょう」
こうして私は、婚約破棄されたその日に、隣国の王子と取引をすることになった。
ヴァルテ王宮に入ったのは、それから五日後のことだった。
正式な外交手続きはシリウス殿下が整えた。クロスフォード伯爵家——つまり父——は、娘が隣国の王宮に迎えられるという話に二つ返事で頷いた。婚約破棄された娘を持て余していたというのが正直なところだろう。私もそれを責める気にはなれなかった。
ヴァルテ王宮は、私が育ったこの国の王宮より、少し空気が乾いていた。石造りの廊下が長く、窓から見える庭は手入れが行き届いていて静かだった。
与えられた部屋は広く、侍女も二人つけられた。一人は現地の者で、もう一人は私が連れてきたマリアだ。
「アメリア様、お加減は」
部屋に入ってすぐ、マリアが心配そうな顔で言った。
「問題ないわ」
「……泣いていないんですか、昨夜」
答えなかった。
マリアは幼い頃から私の侍女で、私が感情を押し込めるときの癖を知っている。何も言わずに額に手を当てるときと、言葉を選びすぎるとき。昨夜のそれは、後者だった。
「泣いてもいいんですよ」とマリアは言った。
「泣いても取り戻せないものがあると知っているから」
それだけ言って、私は窓の方へ向かった。
王宮での生活が始まって三日目に、薬草庫を見つけた。
廊下の奥まった場所に、あまり人が来ない小部屋があって、棚に整理された薬草の束が並んでいた。管理者がいる様子はあったが、来る頻度は高くないらしく、瓶の並びに少しだけほこりが積もっていた。
私は幼い頃から薬草が好きだった。王妃教育の合間に薬草の本を読み、庭師に教わって調合を覚えた。エドワードに会うたびに「そんなものより刺繍を」と言われ続けて、それでもやめなかった。
薬草庫の前で立ち止まり、中を覗いた瞬間、体の中の何かが少し緩んだ。
「入っていいですか」
後ろから声がして振り返ると、シリウス殿下が立っていた。
「それはこちらの台詞ですが」
「失礼。通りかかった際に」
「また通りかかったんですか」
殿下は少しだけ口角を上げた。笑っているのか、呆れているのか、判断がつかない顔だった。
その翌日、侍女のひとりが体調を崩した。頭痛と微熱、喉の腫れ。宮廷医が来るまでに時間がかかると聞いて、私は薬草庫に向かった。
解熱と抗炎症の効果がある組み合わせを選び、煎じ薬を作って侍女の部屋に届けた。二時間後には熱が下がり始めた。
それを、シリウス殿下が廊下の角から見ていた。後から聞いた話だ。
「薬草の知識があるとは聞いていなかった」
夕食の後、殿下は言った。
「社交界では必要のない知識ですから」
「あなたはそれが惜しくなかったですか」
「何が」
「必要ないと言われ続けることが」
返す言葉が、すぐに出なかった。
必要ないと言われ続けた。それは本当のことだ。でも惜しいとか悔しいとか、そういう感情をどこに置けばいいかわからなかった。だから置き場所のまま、ただ続けた。それだけのことだ。
「……なぜそんなことを聞くんですか」
「気になったので」
殿下は淡々と言って、茶の入ったカップを置いた。
「あなたは何かを我慢するのが上手い」
私は答えなかった。否定もしなかった。
窓の外で、風が庭木を揺らした。
滞在して二週間が経った頃、エドワードが来た。
外交使節団の一員として、という名目だったが、目的が私であることは使節団の到着前夜に殿下から告げられた。
「取り戻しに来るらしい」殿下は言った。「どうしますか」
「どうとは」
「あなたが戻りたければ、私は止めません」
少しの間、考えた。
「戻りません」
「理由は」
「戻る場所がもうない、という意味です。あの国の私の居場所は、婚約者という立場でした。それがなくなった以上、帰っても私は何者でもない」
殿下は何も言わなかった。ただ頷いた。それだけだった。
翌日の謁見の場は、静かな緊張に満ちていた。
エドワードは外交の体裁を取りながら、しかし開口一番に私のことを切り出した。
「アメリア嬢はわが国の臣民であり、然るべき手続きによって帰国させることを求めます」
シリウス殿下は微動だにしなかった。
「彼女はヴァルテ王国の賓客です。賓客としての礼遇は、私が保証しています。それ以上でも以下でもない扱いを、私はしません」
声は静かだった。でも遮断の意思は明確だった。
エドワードは私を見た。
「アメリア。戻ってくれないか。婚約の件は——改めて話し合う余地がある」
私は一歩進み出た。
「承知いたしました」と言いかけて、止まった。
あの夜の言葉が舌の上に乗って、しかし今は違うと気づいた。
「承知いたしました、とは言えません」
静かに、はっきりと言った。
「今は」と付け加えようとして、やめた。今はでも、将来はでもない。
「言えません」とだけ言った。
エドワードの顔が、初めて崩れた。
私はもう一度礼をして、部屋を出た。
その夜は、長かった。
自室に戻って、椅子に座って、窓の外を見た。ヴァルテの夜は星が多い。この国より空気が澄んでいるから、という話をマリアから聞いていた。
扉が控えめに叩かれた。
「アメリア様」
シリウス殿下の声だった。
入るよう告げると、殿下は部屋に入ってきて、離れた場所に立った。近づいてこない。ただ、そこにいた。
「あの男があなたを傷つけた」
「……もう傷ついていません」
「嘘をつくのが上手くなったな」
その一言で、何かが崩れた。
うまく説明できない。壁が崩れたとか、仮面が落ちたとか、そういう劇的なことではない。ただ、「嘘をつくのが上手くなった」という言葉が、あまりにも正確だったから。
「……上手くないです」
声が出た。思ったより小さな声だった。
「ただ、泣いても取り戻せないものがあると知っていたから。泣かない方が、少なくとも自分が惨めにならないから」
「惨めになっていい」
殿下は静かに言った。
「あなたがどんな顔をしても、私はここにいます」
しばらくの沈黙があった。
殿下は何もしなかった。近づいてもこなければ、慰めの言葉を重ねることもしなかった。ただ、部屋の中で同じ空気を吸っていた。それが不思議と、息のしやすさに繋がった。
「……なぜそんなに、私のことがわかるんですか」
「似ているから、かもしれません」
殿下は窓の方を見た。
「私も長い間、感情を計算の中に押し込めてきた。どこに置けばいいかわからないものは、すべて戦略に変換してきた。あなたを取引として誘ったのも、そういうことです。感情を動機にしない方が、楽だから」
「今も、そうですか」
少しの間があった。
「今は、わかりません」
それだけ言って、殿下は「休んでください」と言い、扉を閉めた。
私は窓の外を見た。星が多かった。
翌朝、シリウス殿下は薬草庫にいた。
私が扉を開けると、棚の前に立って瓶の一つを手に持っていた。こちらを見て、静かに瓶を棚に戻した。
「何をしていたんですか」
「見ていました。あなたが名前を書いた瓶の、整理の仕方を」
私が薬草庫の管理を始めてから、瓶に産地と効能を書いた小さな紙を貼るようにしていた。誰かが後で使いやすいように、という理由だったが、殿下がそれを見ていたとは思わなかった。
「話があります」
殿下は棚から離れて、私の方に向き直った。
「あなたをここに置きたい。取引ではなく」
部屋が静かだった。薬草の匂いが鼻をかすめた。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味です。賓客でも協力者でもなく、私の隣に。あなたが望むなら」
答えが出なかった。
何も言えないまま、薬草庫を出た。庭を歩いて、池のそばのベンチに座って、長い時間をかけて考えた。
計算をしようとした。隣国の王子の妃になることの、政治的な意味。クロスフォード家への影響。この国での立場。整理しようとして——気づいた。
それは全部、言い訳だった。
本当は、もっと単純なことを考えていた。
昨夜「あなたがどんな顔をしても、私はここにいます」と言った人のことを。嘘をつくのが上手くなったと見抜いた人のことを。通りかかるたびに現れて、でも何も強要しなかった人のことを。
目の奥が熱くなった。
止めようとして——止めなかった。
人のいない庭のベンチで、隣国の王宮の庭で、私はたぶん十年ぶりくらいに、誰かに見せてもいいと思いながら泣いた。
泣き終わって、立ち上がって、薬草庫に戻った。
殿下はまだそこにいた。待っていたのか、それとも本当にただ薬草を見ていたのかは、わからない。
「条件は」と言いかけた。
自分で笑ってしまった。
「いえ」
言い直した。
「条件はありません」
殿下は何も言わなかった。ただ、静かに手を差し出した。私はそれを取った。
婚約破棄されたその夜から、私は泣くことをやめた。
けれどその涙は、ようやく誰かに返せた気がした。




