ドSの口癖
「信用しているから頼むんだよ!」
これ以上のキラキラした言葉がこの世の中にあるのだろうかと、入社したての頃の私は、まるで魔法の言葉のように思っていた——この言葉ひとつでモチベーションは恐ろしく上がり、どんなに忙しくても、仕事が楽しくて仕方なかった。
そんな、魔法の言葉に浮かれていたあの頃が懐かしい。不意に思い出した新人の頃の自分に小さく笑いながら、自動販売機の横で紙カップのコーヒーをすする。
出版社で働きはじめて今年で八年目。いつの間にか、魔法の言葉の効力は綺麗になくなり、そのキラキラとしていた言葉は重圧の言葉と化していた。
入社してまもなく、一年経たずに辞めていく同僚を数人見送り、さらには中途採用で気合いの入った先輩のような後輩をものの数ヶ月で見送った。結婚を理由に辞めていった先輩もいれば、精神的に疲れて来れなくなった後輩もいた。
とにかく、憧れていた華やかな職場、という勝手な固定概念とはほど遠い、戦場のようなこの場所に、なんとか食らい付きながら今日を送っている。
市ノ瀬ましろ、気付けば今年で三十歳。二十代の頃はがむしゃらに働きすぎてほとんど記憶がない、と言っても過言ではないほど忙しい毎日を送っていた。今になってようやく、ほんの少し余裕ができたと思ったら、周りは結婚だの恋人だのと、浮かれた話ばかりが目立つのは、私が気にしすぎているせいだと思いたい——
今のままでいいのか、と言うよりも、今まで仕事以外に何をしてきたのだろうと思っても、うまく思い返せない。おかげさまで、最後に恋人がいたのは大学時代のたった数ヶ月が最後だ。
恋人がほしいというよりも、人肌に触れたいというふうに変わってきたのは年齢的なものなのだろうか。
空になった紙コップを片手で潰し、ごみ箱に投げ入れる。気合いを入れるように大きく深呼吸をしてから、再び戦場へ戻る。
「市ノ瀬!」
自分の席に戻るや否や、相変わらずの大声、いや、叫び声に肩が上下した。椅子に座る事なく呼ばれた方へ向かって返事をすると、私の顔も見ずに手まねきをしている。間違いなく、片手に持っている資料のせいであることはものの数秒で理解できた。
「なんでこうなるんだよ!?」
どっかりと椅子に座ったまま下から私のことを睨みつけているのは、編集長の宮元大志。ちなみに彼は、私より三つ歳上だ。
「すみません! すぐに見直します!」
言いながら頭を下げた。
編集長の主語がない物言いには慣れたけれど、それでもやっぱり、何がどうなのかをきちんと言ってほしい。もちろんそんなこと、言えるはずもないけれど——
「とにかく、あと五分でなんとかしろ!」
「分かりました」
卒業証書でも受け取るかのように丁寧に両手で受け取ると、足早に自分の席に戻り、座ったと同時にパソコンのキーボードを叩き始める。
いい加減、物理的な資料でのやり取りはなくしてほしいと何度か提案してはいるのだけれど、「紙が見やすいんだよ」となかなかに向こうもゆずらない。編集長の機嫌が良さそうの時にやんわりと言うくらいしかできないのだから、提案ではなく私の独り言くらいにしか思っていないのかもしれない。
いつの時代の人間だよ、と何百回目かになる突っ込みをどうにか自分の中だけにととわめ思い、ぐっと呑み込むしかなかった。
自分の作った企画書を改めて見ると、一行目からすでに分かりづらさが表れていた。誤字脱字、構成、ざっくりと見ただけで、「そりゃあ怒鳴りますよね」と苦笑いが漏れた。全てを見返すというより、目を通しながら直していく。そうでもしないと、編集長の言う五分には到底間に合いそうにない。と言うか、そもそも五分では無理な話だ。理不尽にもほどがある。それもまた、言葉にすることはない——
いつもならここまでひどい企画書を出すことはまずないのだけれど、言い訳をさせてほしい。これを作っていた時に、違う部署の年下だと思われる男性に告白をされたからだ。驚きを通り越したその先を、人生で初めて目の当たりにしたのもその日だ。なんでも、私の颯爽と歩く姿に仕事のできる女性だと勝手に思い込み、憧れにも似た感情が、いつの間にか恋心に変わっていた、らしいのだ。
私からすれば身に余るほどの申し出だったけれど、私にも、一応理想のタイプはある。長い間恋人がいないからと言って、誰でもいいという訳ではない。友達には、「とりあえず付き合ってみれば」、とは言われたけれど、その彼には丁重にお断りしたあとだったし、とりあえず付き合うなら、付き合わない方がいいと思ってしまう性格だ。今、この瞬間までは——
とにかく、そんなことがあったものだから、心が落ち着かないまま仕事をしていたのが今回のこのミスに繋がったと言っても過言ではない。もちろん、そんな言い訳が宮元編集長に通じるわけがないことも分かっている。
例の彼とは、そのうち社内で顔を合わせることもあるだろう。それを考えると少なからずもやもやする。きっと向こうも同じことを思っているのだろうけれど、今は自分のことしか考えられそうにない。
そのもやもやを吹き飛ばすように、大げさなくらい首を横に何度か振った。前の席の山田くんに不思議そうな顔で見られながらも、笑顔でごまかしてから手元に集中する。
「どんだけ時間かかってんだよ」
怒鳴るでもなく、淡々とそう言われた。温度にすると、マイナスをはるかに越えていそうなほど冷たい言い方だった。
例の企画書を書き直し、編集長に手渡せたのは五分後、をさらに過ぎ、十分や二十分では時間が足りず、三十分を過ぎた頃、ようやく編集長のデスクの前にたどり着いた。
企画書とにらめっこをする編集長に緊張しながら待っていると、持っているそれをふわっとデスクの上に置いた。
「こっちの方がいいな」
顔を上げると、それが笑顔だと分かるのに三年はかかっためちゃくちゃ分かりづらい笑顔を見せてくれた。
——マジで分かりづらいから。
心の中でそっと悪態をついてから、頭を下げて背中を向けた。
確かに編集長は仕事ができる。そこに関してはもちろん尊敬しているし、ここにいる誰もが認めているはずだ。それは、そうなのだけど……
「市ノ瀬」
呼ばれて一秒もかからないうちに振り返る。
「ちょっといいか?」
「はい。今、ですか?」
「行くぞ」、と言われれば、「どこに?」などと聞くのはもはやご法度で、言われるがままに付いて行くのが一番賢いと、勝手に思っている。
編集長に連れてこられたのは喫煙所で、たばこを吸わない私からすれば全くもって好ましい場所ではない。私の知る限り、編集長はヘビースモーカーだ。もちろんそこに関しては個人の自由なのだけれど、せめてそろそろ電子たばこに変えてくれと、こんな時は余計にそう思う。私と三つしか歳は変わらないのに、中身は完全に昭和のそれだ。
慣れた手つきでたばこに火をつけ、天井に向かって大きく息をついた。一応は、私に気を遣ってくれているのだろう。
「山田の友達に告白されたって聞いたけど、本当か?」
告白されたことと、山田の友達がつながらず、顔だけで聞き返す。そうしながら、数秒後にはっとなった。
「え、あの人山田くんの友達なんですか?」
「まあ、そうなんじゃないか? 俺は山田とそいつが市ノ瀬のことを話してるのがたまたま聞こえただけだけどな」
「そう、ですか。何て言うかその、告白なんてされたの初めてで、だから、めちゃくちゃ動揺したって言うか、どうすればいいか分からなくてずっと考えてて。それで、あんな企画書になってしまったと言うか、なんと言うか……」
いつの間にか話がすりかわっている気がしたけれど、この際、その彼には悪いけれど、言い訳の理由にさせてもらった。ただ、ほとんど賭けだった。関係ないと言われれば、それまでだ。
違う意味での緊張感が走る。
「……で?」
予想外の言葉に瞬間頭が真っ白になる。
で、なんなのだろう。
「だから?」
続けてそう言われ、これは確実に言い訳に対する「だから?」なのだと確信する。
——負けた。
そもそも編集長に勝てるとは思ってなかったけれど、秒殺もいいところだ。
「あの、関係ないことを言い訳にしてすみません。あれは完全に私のミスで、その、本当にすみませんでした……」
編集長の吐き出した煙にむせそうになり、顔をしかめないようどうにか我慢していると、頭の上でふっと笑われた気がした。幻聴が聞こえるほど、今この瞬間にもものすごいストレスを感じているのだと思うと、そろそろこの仕事に見切りをつけ、心穏やかに頑張れる仕事に再就職するべきなのだろうか。
——悩ましい。
手持ちぶさたでただただ自分の足元を見つめていると、編集長がたばこをもみ消しているのが分かった。すぐに喫煙所から出ると思い、お先にどうぞと一応の手振りをつけてそうしたけれど、編集長はそこで立ち止まっている。
ようやく顔を上げると、なんとも言えない表情で私を見下ろしていた。
「編集長?」
物言いたげに見えるけれど、気軽に聞けないのがもどかしい。
「……だからその、山田の友達とはどうなったんだよ?」
低い声にいちいち心臓が痛くなる。
「どうにも、なってないですよ。告白されて、その場で丁重にお断りしましたので——だから別に、付き合うとか、そういったことはないです」
編集長のご機嫌を伺うように、言葉を選びながら説明する。
「市ノ瀬ってさ、意外とモテるよな」
「はいっ!?」
心の声がそのままでてしまった。「意外に」、が引っかかったけれど、それよりも、私がモテるとは、一体何がどうなればそんな話が出てくるのか意味が分からなかった。
友達に聞くみたいに、根掘り葉掘り詰めて聞きたいのに、聞けないもどかしさが再びやってくる。
「あの、何かの聞き間違いではないですか? 今回のことだって、たまたまだと思いますし、別にだからって、それがモテてるとは言いにくいかと……」
ものすごく遠慮がちに反抗してみると、ため息まじりに私の方へ詰め寄るから、思わず背筋がしゃんと伸びる。
「……俺はめちゃくちゃ焦った」
「どうして編集長が焦るんですか?」
「市ノ瀬が告白されたって聞いたから」
「どういう意味ですか?」
私の質問に苛立つような表情を見せながらも、いつものそれとはどこか違うようにも見えた。
「だから、市ノ瀬がそいつと付き合うことになったら困るからだよ」
「どうして編集長が困るんですか? うちの会社、社内恋愛禁止でしたっけ?」
言い終わるよりも先に睨まれた、ような気がした。私が新入社員なら、間違いなく本日付の辞表を書いている。
「気付けよ……」
もはや、聞き返すのも躊躇ってしまった。もう一度睨まれたら、さすがに本気で辞表が頭を過る。
両者一歩も譲らない、とは少し違うけれど、どうして分からないんだと言いたげな編集長と、何に気付けばいいのか分からない私たちの間には、無言の押し問答が繰り広げられているようだった。
「市ノ瀬のこと——」
短く息を吐いた。
「気になってることをだよ」
正直、すぐにはその言葉の意味が分からなかった。けれど、何を言われているのか気付いた瞬間、声にならない声が出た。それも、遠慮なく、自分でも驚くほどだった。
「えっと、それはその、あの……」
動揺してうまく言葉が出てこない。
「俺、市ノ瀬のことが好きだ」
「マジっすか!?」、なんて気軽に言えないけれど、言いたい。言えない。ものすごく言いたい。
喉のあたりがモゾモゾするのを出来る限り気にしないよう、遠慮がちに咳払いをした。
「あの、私——」
「返事は別に急がない。だけど、ちゃんと考えてほしい」
急に優しい声に代わり、今までに見た事のない表情をするから、途端に心臓が早くなる。普段、編集長の顔をまじまじと見ることなどないものだから、そんな表情をされると編集長も人間だったのだと改めて思い知る。こんな機会はまずないと、編集長の顔を遠慮なく拝ませて頂く。前々から濃い顔だとは思っていたけれど、だから余計に顎のひげがよく似合っているし、たぶんくせっ毛であろうくるくるとした髪の毛がまるでパーマをあてているみたいにおしゃれに見える。めがねの跡が鼻の上に付いているのは出会った時から変わらない。それよりも、意外と身長が高いことに今さらながら気が付いた。
「いつまで見てんだよ」
言われてはっとなる。
「す、すみません!」
「さっきは急がないとは言ったけど、もうすでに答えが出てるんなら聞かせてくほしい」
「あの、そんなにすぐ答えが出るほど、まだ何も考えていません。だからせめて、編集長のこと、もう少し知ってからでもいいですか……」
ものすごく上からな物言いをしているような気がして、次第に声が小さくなる。
「それってつまり、少しは俺に興味があるってことか?」
「……興味、なくはないです」
よくよく考えてみれば、編集長の私生活は謎だらけだ。そこだけを考えてみても、どういう生活をしているのかは気になるところだった。
「あいつのことはものの数秒で断ったくせに、俺のこと考えてくれるのは、俺がお前の上司で、断りにくいからか?」
「いえ、そういうことではなくて……」
素直に話して怒られないだろうかと一瞬悩み、これは仕事の話ではないんだからと自分に言い聞かせる。
「どうして私のことを好きになってくださったのかものすごく気になるし、それに、単純に編集長がどんな人なのか気になる、と言いますか……」
「じゃあ、少しだけ俺のこと教えてやる」
そう言うと、私の頬にそっと手を添えた。
落ち着いたと思っていた心臓が、再び暴れだす。
「俺は、市ノ瀬が思ってるよりもずっと待たされるのが嫌いだ」
優しい手つきからは一ミリも想像できないようなことを言うと思った。そして、確かにそうだと思った。いつもいつも嫌がらせのようにこちらを急かせる。仕事の量に関係なく、「あと五分でなんとかしろ」は無理な話だ。それを本気で受け取ってしまった新人がどれだけ泣いたことか。もちろん冗談ではないのだろうけれど、全部が本気でもないことに、数年すれば気付かされる。けれどその数年が待てずに辞めていく人間がいるのだから、もう少し言葉を改めてほしいものだ。
「何考えてんだよ?」
はっとなり、意識を編集長に戻す。
「余裕あるんだな」
更にずいっと私に詰め寄ると、添えていた手を首の後ろに回した。
「——こっちは余裕なんてないのに」
苛立ちと不安が入り雑じったような目で見下ろされ、それがなぜだか、私の心に刺さった。簡単に言うと、ツボった。もちろん、ものすごくいい意味でだ。
歳上の男性の、こういう感じ、そう、こういう感じ——
自分だけが分かるこういう感じに、不覚くにもきゅんとしてしまった。
「……なら、あと五分で答えろ」
「は、はい!?」
「俺は待たされるのが嫌いだって、さっき言っただろ。それから、俺のこと知りたいなら付き合ってから教えてやる。それでいいだろ。五分だけやるから答えろ」
「何様だよ!?」、言いたい、言えない、言いたい。やっぱり、言えない……
「あの、編集長……」
あまりにも急すぎると言うか、理不尽と言うか。もはやパワハラだ。
焦る気持ちを抑えながら言葉を選んでいると、鼻先が当たるほどにぐっと顔を近付けてきた。あまりにも突然のそれに、驚いて息が止まる。
「なあ——」
真っ直ぐに見つめられ、編集長も男なのだと改めて思った。
「キスしていいか?」
この人は、待つということを本当に知らないのだろうか。すぐに答えられずにいると、そっとおでこをくっつけた。
「お前のことが、好きだ……」
聞いたことのない低い声に、思わず流されそうになった。そう思った次の瞬間、唇が重なった。冗談抜きで、心臓が止まるかと思った。舌先が遠慮がちに唇を割って入ってくると、思わず声が出そうになった。柔々と刺激されるうちに、その心地よさに自らも求めてしまっていた。だから、気づいた時には完全に編集長のペースだった。
頭の中はぐちゃぐちゃなのに、キスがうまいと思った。正直、これが反則でないなら何が反則だと言うのだ——
普段なら不快でしかないたばこの匂いすら、この状況に似合いすぎている気がして、むしろありだと思った。それも、ものすごく。
しばらくして、唇をついばむようにしながらゆっくりと離れるから、そろそろとまぶたを持ち上げた。視線がぶつかった瞬間、まるで恋人にそうするかのように、軽く唇を押し付けられた。その不意打ちは、またしても反則だった。
「……で、どうなんだよ?」
どうかすれば腰が抜けそうなのに、相変わらずの口調でそう聞かれ、正直、頭が回らない。できることなら、五分前まで時間を戻してほしい。そうすれば、今よりもまともな思考で判断ができそうな気がする。とは言え、後悔しているのとは少し違った。
「俺のこと、知りたいんだろ」
頷きそうになり、咄嗟に思いとどまった。
そもそもの論点が、少し、いや、だいぶずれてしまっている気がして、そこでようやく冷静になる。
「あの……」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱々しいものだった。
小さく咳払いをする。
「正直、付き合うとかそういうのは、やっぱりまだ分からないです」
「お前とのキス、めちゃくちゃ良かったんだけど」
そんなにはっきり言われると反論に困る。と言うよりも、いつの間にか「お前」と呼ばれていることに心がざわついた。もちろん、悪い意味でのそれではない。
次第に、ずれた論点の方が正しいのではなかと勘違いしそうになる。
「もっとキスしたいって思えたなら、それが答えだろ」
無茶苦茶なことを言うと思ったけれど、あながち間違いでもない気がした。
「とりあえず、俺にしとけ」
答えるより先にそんなことを言うものだから、ほとんど無意識に、というか、いつもの癖でついつい「はい」と返事をしていた。
「早く好きになってくれ——」
言いながら私の頭の上に手を乗せ、目を反らしたその顔は間違いなく照れているそれだ。編集長もそんな顔をするのかと思った次の瞬間、再び唇が重なった。反射的に編集長の服の裾をきゅっとにぎると、口の中で小さく笑ったのが分かった。
正直、こんなドエスは初めてだった。だけど、こんなドエスも悪くないと思ってしまった。
完
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ドエスとパワハラはもはや紙一重な気がしなくもないけれど、できればドエスはイケメンを所望したい……




