第1章1節 目覚め
もし、すべてを理解できる力を持っていたなら。
それでも、人は禁忌に手を伸ばすのだろうか。
これは、王子として生まれた一人の少年が、
影の中で“世界の秩序”に触れていく物語です。
残業は当たり前。
休日出勤も珍しくない。
いわゆるブラック企業に勤めて、気づけば十年が過ぎていた。
フラフラとした足取りで帰宅し、靴を脱ぐことすら億劫で、そのまま床に腰を下ろす。
体はもう限界だった。
肩は重く、指先に力が入らない。視界の端が、じわじわと暗く滲んでいく。
――本当は、もっと楽しい人生を送りたかった。
誰に聞かせるでもない本音が、胸の奥に沈む。
その直後、胸が強く締めつけられた。
ズキズキと、痛む。
呼吸をしようとしても、空気が入ってこない。
……ああ、もういいか。
楽になりたい。
ただ、それだけを思った。
神谷恒一の人生は、そこで静かに幕を閉じた。
───
……ん?
誰かに呼ばれている気がする。
だが、その声は、俺の名前じゃない。
「……エリオ……」
知らない。
そんな名前で呼ばれる覚えはない。
誰かが、俺の部屋に入ってきたのか。
そう思いながら、重たいまぶたを持ち上げる。
次の瞬間、視界が白く弾けた。
眩しい。
あまりにも明るい光の中で、最初に目に入ったのは、天井から吊り下げられた豪奢なシャンデリアだった。
無数の装飾が光を反射し、きらきらと揺れている。
……どこだ、ここ。
首を動かそうとして、思ったように動かないことに気づく。
代わりに、視界の端に、見知らぬ女性の顔が映った。
柔らかな微笑みを浮かべ、こちらを覗き込んでいる。
「エリオ……エリオ……」
その名を、確かに俺に向かって呼んでいた。
違う。
俺は神谷恒一だ。
人違いだ、と言おうとした。
だが――
「……オギャア」
口から出てきたのは、意味を成さない声だった。
「オギャア、オギャア……」
自分の声だと理解するまで、少し時間がかかった。
喉も、舌も、思うように動かない。
視界がぐらりと揺れ、理解が追いつかない。
意味が、分からない。
混乱の中で、意識が遠のいていく。
抗うこともできず、自然とまぶたが閉じた。
───
次に目を覚ましたとき、俺は乳母車のようなものに乗せられていた。
布張りの縁、柔らかな揺れ。
天井は高く、装飾の施された柱が並んでいる。
ここは、病院じゃない。
少なくとも、日本ではない。
状況を理解しようとする思考だけが、妙に冴えていた。
……どうやら、俺は。
そう結論づける前に、また小さな揺れが伝わる。
周囲から聞こえるのは、聞き慣れない言葉と、穏やかな足音。
そして、その中で、何度も繰り返される名前。
「エリオ様」
俺は、赤子として――
異世界で、目を覚ました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、主人公最強・異世界転生という王道要素を軸にしつつ、
少し静かで、少し背徳的な物語を目指しています。
次節から、王子エリオがこの世界とどう向き合っていくのか、
ぜひ引き続きお楽しみください。




