6 安定者
朝の光が、ひどく穏やかだった。
夜明け前の長いノイズが、まるで夢だったかのように薄れていく。
セオは目を開けた。
白い天井。
薬品の匂い。
そして、柔らかい声。
「目、覚めた?」
声の主は、リリィ・エルナ。
彼女は灰色の修道服を着て、光を背に立っていた。
肩のあたりで切り揃えられた銀髪が、朝の光に透ける。
その瞳は――どこか、機械のように静かだった。
「ここは……?」
「療養室。地下の修道区。
あなた、観測障害を起こしてたわ。昨日の夜。」
「観測障害……?」
「簡単に言えば、“自分の位置を見失った”の。
たまにあることよ。世界の『縫い目』に触れると、誰でも崩れる。」
リリィの声は、穏やかでどこか冷たい。
その中に、人工的な均一さがある。
まるで感情の波を制御しているかのように。
セオは身体を起こし、周囲を見渡した。
修道区の壁はすべて白。
窓も時計もない。
時間を示すものは、壁の上を流れる祈りの光文字だけだった。
“Amen_Sequence.v2/安定率:99.9%”
祈りはデータだ――
以前、そう聞いたことがある。
リリィはその中心にいる。
「リリィ……君は、何者なんだ?」
彼女は少し笑って、セオの手に冷たい布を当てた。
「わたし? ただの“安定者”よ。」
「安定者?」
「世界を揺らがせないための、杭みたいな存在。
再演算のたびに、わたしが『基準値』になる。
あなたたちが朝を迎えられるのは、そのおかげ。」
「つまり、君が……世界を保ってる?」
「そう。
でも本当は、もう限界。
最近、演算が乱れてる。
あなたみたいに“影”を見た人が増えてるの。」
リリィはベッドの端に座り、目を伏せた。
「世界がずれてる。
それを直すたびに、わたしの中の“記憶”が削れていく。
たぶん、あと数回で、わたしは安定しなくなる。」
その言葉を聞いた瞬間、セオは強い既視感に襲われた。
この会話を、以前にもどこかでしている。
――再演算の残響。
「……俺が、何かを見たのは偶然じゃないのかもしれない。」
「偶然じゃないわ。あなたは“誤差”なの。
だから、見える。」
彼女はセオを見つめる。
その瞳に、わずかに青い光が宿った。
「ねぇ、セオ。
もしも次の再演算で、世界が完全に“同期”したら……
わたしは、消えると思うの。」
静寂が訪れた。
彼女の手が、ほんの少し震えていた。
それは恐怖ではなく――祈りの残響。
「だからお願い。
次の再演算が来る前に、“外”を見て。
この世界の外側を。
それが、わたしが安定者として最後に望むこと。」
リリィの言葉が、祈りのように室内に響く。
壁の光文字が一瞬、ざらついた。
[安定率 99.9 → 98.1]
そして、リリィの瞳から淡い光が零れる。
それは涙ではなかった。
“演算の欠片”だった。