5 影の観測者
夜が、異様に長かった。
カーテンの隙間から月光が差し込む。
セオは机に突っ伏したまま、ノートを見つめていた。
そこには、昨日の補修報告――「観測ログ 03:再演算成功」。
ページの下端、黒インクの染みが少しずつ広がっていく。
インクではない。
“何か”が内側から滲み出ている。
指で触れると、紙の下が冷たい。
その下に“深さ”がある。
まるでページの裏が、もうひとつの世界につながっているように。
――視線を感じる。
振り向く。
窓の外に、自分がいた。
夜の闇の中、ガラスに映る“自分”が、動かずこちらを見つめている。
呼吸を合わせても、映像が遅れる。
笑おうとしても、向こうは笑わない。
やがて、影がゆっくりと唇を動かした。
「お前が“ずれている”んだよ。」
セオは凍りついた。
声は、ガラスの内側から聞こえた。
耳ではなく、頭の奥に直接響くような声。
「俺は記録だ。
お前は、その“観測誤差”。」
「……何を言ってる」
「この世界では、同じ人間が二度存在できない。
だから、片方は削除される。」
影が微笑む。
それは、セオ自身の顔だった。
だが、その瞳の中には――青が渦巻いていた。
ノートが勝手に開いた。
ページの隙間から、数字が浮かび上がる。
【観測補正中】
【対象:SE0-NV/同一個体検出】
【削除優先度:未定】
指先が勝手に震える。
ペンが走り、文字が勝手に記されていく。
“観測者は、自身を観測してはならない”
その瞬間、頭の中で何かが裂けた。
記憶が滲み、昨日と今日の境界が溶ける。
声がする。あの電子的な祈りの声だ。
『再演算予告――異常観測検出。』
『次回修復を、三時間後に前倒し。』
影が笑った。
「ねぇ、セオ。
この世界が“完全な朝”を迎えるたびに、
お前はどれくらい消えてると思う?」
足元が揺れた。
光が反転する。
ノートが崩れ落ち、文字が砂のように散っていく。
セオは叫ぼうとした。
だが声は出なかった。
胸の奥で、自分の名前が二重に響く。
「セオ・ノア=ヴェルン」
「セオ・ノア=ヴェルン」
二つの声が重なり、やがてひとつに潰れる。
――気づくと、朝だった。
鳥の声が聞こえる。
空は美しく晴れていた。
ノートも机も元通り。
昨夜の痕跡はどこにもない。
ただ一つだけ違う。
鏡に映る自分の瞳が、ほんのりと青く光っていた。