3 記憶の縫い目
午後の鐘が三度鳴った。
教会の跡地は沈黙していた。
床に散った祈り札を拾い上げると、表面に焼け焦げのような跡があった。
焦げた神聖文字は、一文字だけ滲んでいる。
その“わずかな違い”が、世界全体を歪ませているように見えた。
「……縫い目、か」
呟いた瞬間、空気がざらついた。
壁の影が逆方向に流れ、遠くで誰かが祈るような電子音が響く。
『――再演算開始。欠損領域を修復。』
音が止むと、空が一瞬だけ青に反転した。
世界が息を吸い込み、何かを“思い出そうとする”気配。
セオは目を閉じ、心の奥に残った名前を呟く。
「カイ・リュース……」
放課後。
リリィ・エルナは屋上のフェンスに背を預け、空を見ていた。
風は穏やかで、街はどこまでも灰色。
「見てきたのね」
その言葉にセオは振り向く。
リリィの声は驚くほど静かで、まるで“結果を知っていた者”のようだった。
「……どうして分かる」
「空気の匂い。記録が焼かれるとき、焦げたような匂いがするの」
彼女は微笑みながら、地平線の向こうを指差した。
遠くの放送塔が、かすかに脈打つ光を放っている。
「世界は、少しずつ補修されてる。
私たちが眠るたび、昨日の“正しいかたち”を思い出して。」
「……何を言ってる?」
「ねえ、セオ。
もしも神が間違えるなら、その間違いを直すのもまた神でしょ?」
セオは息を詰めた。
リリィの言葉は論理ではなく、詩のようだった。
だがそこには、どうしようもない説得力があった。
「……カイのこと、知ってるのか」
「知ってるわ。
でも、彼はまだ“いなくなっていない”。」
「は?」
「あの子の記録は、まだ縫い目の中で動いてる。
――修復が終わるまで、ね。」
その瞬間、リリィの瞳が一瞬だけ青く光った。
セオは息をのむ。
風の音が止まり、街のざわめきが遠のく。
「リリィ……お前、誰なんだ」
「私? ……誰でもないわ。
“誰でもない人”がこの世界を安定させているの。
そう教えられたの、ずっと昔に。」
リリィはそう言って笑った。
その笑顔はあまりにも優しく、同時に恐ろしかった。
夜。
セオは眠れず、窓の外を見ていた。
都市の灯りが一斉に落ちていく。
光が消えるたびに、心臓が一つ打つ。
放送塔が再び光を放つ。
「記録更新開始――欠損領域、修復を確認。
完全なる朝を再生します。」
音声が終わると同時に、空が“裂けた”。
世界が反転し、あらゆるものが白に飲み込まれていく。
そして――
セオは、自分の影が一瞬遅れて動くのを見た。
その影の瞳が、青く光っていた。