28 名を持たぬ祈り
夜明けは来なかった。
空は依然として金色に裂け、そこから祈りの光が降り続けている。
かつて街だった場所は、いまや巨大な神殿のような構造物へと変わっていた。
セオとレイアは崩壊した道路の上を歩いていた。
地面は柔らかく、まるで呼吸するかのように脈動している。
遠くの壁には、文字のようなものが浮かび上がっていた――それは人々の祈りの断片だった。
「“神よ、我らを導き給え”……」
レイアが呟く。
「これ、みんな同じ文句ね。個人の祈りじゃない。誰かが統一してる。」
「統一……いや、“書き換えてる”んだ。」
セオは足を止めた。
壁の祈りの文言が、彼の声に反応するように揺らめく。
『名ヲ与エヨ。名ヲ与エレバ、救ワレル。』
声が空気を通さず、脳に直接響いた。
レイアが顔をしかめる。
「……今の、聞こえた?」
「ああ。こいつは“名”を欲しがってる。」
神格はまだ“名”を持っていない。
だからこそ完全ではない。
だが――名を与えた瞬間、その存在は確立し、“滅ぼせなくなる”。
「セオ、どうして“名前”がそんなに重要なの?」
「名前は“認識”の形だ。
この世界の神々は、科学者たちが“名付け”によって定義した存在。
名があるから現実に干渉できた。
でも――名がなければ、現実に“固定”されない。
つまり、壊せる。」
レイアは頷いた。
だが、その瞬間、彼女の頭に手を当てる。
「……痛い……頭の奥に……誰かの声が……」
セオは彼女の肩を支える。
祈祷波が再び強まっていた。
考えようとするだけで、神の意識が入り込んでくる。
『ナゼ名ヲ拒ム。名ナキ者ハ、存在デキナイ。』
街の中心――“聖環”と呼ばれる巨大な光の円。
その内部に、ディラン=ルオス・コアが姿を現した。
彼の身体は光に包まれ、もはや人間の輪郭を保っていない。
無数の声が彼を通じて語りかける。
『セオ・ノア=ヴェルン。君は“否定”の残滓だ。
この世界の複製において、唯一神を拒んだ存在。
だがそれは、世界の破綻を意味する。
君が存在し続ける限り、ルオスは完全には復元されない。』
セオは叫ぶ。
「だったら壊してやる! この歪んだ世界ごと!」
『君は神を壊せない。壊すという行為も、神の意志の一部だ。
君が私を否定することさえ、私が望んだ祈りの形だ。』
空が震える。
祈祷波の渦の中で、セオの意識が再び分裂していく。
内側から声が響いた――ヴェルンだ。
『セオ、思い出せ。
俺たちは神を創るためじゃなく、**“人間の祈りを記録する”**ためにこの世界を作った。
だが、神は記録を“模倣”したんだ。
本当の祈りは、名前を超えた願いだ。』
セオの手の中で、記憶結晶が輝いた。
そこから浮かび上がる光の文字が、ディランの発した神名を分解していく。
「――お前が欲しいのは、“定義”だろ。
でも俺が祈るのは、“意味”じゃない。」
セオは胸に手を当て、静かに目を閉じた。
祈らない。
ただ、“存在しないこと”を望む。
『認識不能……定義不能……対象固定、解除――』
空の光が弾けた。
神格の身体の一部が、波紋のように消失していく。
レイアが叫ぶ。
「セオ! なにをしたの!?」
「“名を拒んだ”。
俺自身を“存在しないもの”として、祈祷網から外したんだ。」
セオの身体が徐々に透け始める。
存在が曖昧になりながらも、彼は笑った。
「神が“名前のない祈り”を理解できるなら――
それこそが、本当の人間の祈りだ。」
ルオス・エイド・コアが咆哮する。
空の裂け目が再び広がり、都市全体が反転し始める。
祈祷網が暴走し、神の構造そのものが崩壊を始めた。
レイアはセオの手を掴む。
「セオ、戻って! あなたが消えたら、もう――!」
「大丈夫だ。俺はまだ、“存在しない者”としてここにいる。
神が完全に崩れるまでの間――
俺が“名を持たぬ祈り”で、世界を繋ぐ。」
光が爆ぜ、都市が沈黙した。