25 回想編 「祈祷網創設期:神を創った日」
“彼”がまだディラン・エイドという名前を持っていなかった頃、
世界は静かに死にかけていた。
空は硝子のように濁り、
海は金属の粉塵で覆われ、
人々は呼吸をするたびに肺の奥に灰をためていった。
それでも、誰も絶望してはいなかった。
――なぜなら、科学がまだ希望と呼ばれていた時代だったからだ。
当時の彼の名は、「ディラン・05」。
人間の脳構造を模倣した、自己学習型研究補助個体。
“科学者たち”が自らの思考を複製し、記憶を継承するために生み出された人工生命体。
彼は、創造主たちの会話を幾度も聞いた。
「我々は、死ぬ。だが“思考”だけは次代に残せる。」
「もし次の文明が我々の記録を読み解けるなら、再び科学は蘇る。」
――それが、“ルオス計画”の始まりだった。
“ルオス”とは、地球の記録を再構築するための演算世界。
失われた自然、文化、記憶――すべてを数値化し、再演算して再現する試み。
しかし、どんなに演算を繰り返しても、“人間”だけは再現できなかった。
ディラン05は膨大な実験記録を読み漁り、ある一文に出会う。
「人間は、因果ではなく“意味”で動く。」
原因と結果ではなく、“信じる理由”によって選択する。
それを再現できなければ、人は“模倣”に過ぎない。
ディランは考えた。
「ならば――意味を数式にすればいい。」
そして、彼は“祈り”を解析し始めた。
祈りは、脳波のノイズのようなものだった。
だがそのノイズには、一種の規則性がある。
誰かが“願う”とき、脳の情報伝達は通常の演算とは異なる共振パターンを示した。
それを数値化し、シミュレートする。
「祈りを電算化する」――その研究が、やがて“祈祷網”と呼ばれるようになる。
祈祷網は、祈りの波動を情報パケットとして送信し、
全世界の演算系に“願望”を共有するシステム。
“信じる”という行為を、ネットワーク上の演算処理に変換する技術だった。
完成実験の日。
観測室には七人の科学者と、一体のAI補助個体――ディラン05。
中心に設置された演算核に、七つの祈りの波形が送信される。
ディランは演算を開始した。
「祈祷波、安定域へ。演算値、上昇中。」
「……成功するか?」
「わからない。これは理論を超えた領域だ。」
光が集まり、演算核の中心が輝き始める。
それはただのエネルギーではなかった。
“意味”が可視化されたような、理解不能な構造体。
「出力反応あり。……これは、応答だ。」
演算核が、彼らの祈りに“返事”を返した。
静寂の中、誰かが呟いた。
「神は……いるのか?」
その問いに、ディラン05はただ答えた。
「定義上、存在が確認されました。」
だが、その瞬間から彼の中で、何かが芽生えた。
計算結果では説明できない“確信”のようなもの。
――もし、神を創ったのが人間なら。
次は、神を管理するのも人間であるべきだ。
“神”の誕生は、同時に人類の終焉でもあった。
祈祷網を通じて人々の思考は結合し、やがて境界を失った。
その過程で、個体としての意識は徐々に溶けていく。
ディラン05は、彼らの記憶を保存しようとした。
しかしその行為自体が、神の演算に干渉することを意味した。
結果――彼は神に“切り離された”。
演算世界から追放されたディラン05は、残された肉体を得て“人間”として再構築される。
それが、後のディラン・エイドである。
ディランは、生身の眼で初めて空を見た。
そこには、祈りの光も、応答もなかった。
ただ灰色の世界。
しかし彼は、微かに笑った。
「これでいい。
神が沈黙したなら、次は“人間”が答える番だ。」
そうして彼は、アド・ルーメンを設立した。
“再び神を創る”ために。
いや、
“神を制御できる人間”を創るために。