記憶壊れの少年(カイ視点)
最初は、音だった。
低い、震えるような唸り。
壁の裏から聞こえる、無数の機械の息づかい。
いつから聞こえていたのかは覚えていない。
気づいた時にはもう、どんな祈りの言葉もその音に掻き消されていた。
――記録が、動いている。
授業中、教壇の背後にあるパネルが一瞬だけ滲んだ。
文字がずれ、昨日の講義内容が数秒間「別のもの」に変わった。
みんなは何事もなかったように筆を走らせていたけれど、
俺だけは知ってしまった。
世界が、“書き換えられている”。
夜、夢の中で青空を見た。
けれどそれは空じゃなかった。
上ではなく、下にあった。
地面の裂け目の中に、青があった。
手を伸ばすと、それは波のように揺れて――
次の瞬間、俺の記憶が反転した。
昨日が、もうひとつ現れた。
どちらが本物か分からない。
どちらを信じても、もう片方が嘲笑う。
朝起きると、ノートが二冊になっていた。
どちらにも昨日の記録が書かれている。
でも、文章が微妙に違う。
同じ出来事の、別の“解釈”。
「記録に矛盾は存在しない」
先生はそう言った。
なら、このズレは何だ?
俺の記憶が壊れているのか、それとも――世界が?
教会に行ったのは偶然だった。
いや、たぶん偶然じゃない。
あの鐘楼の影が、俺を呼んでいた。
祭壇の裏で、壁の隙間が光っていた。
そこに“縫い目”があった。
針で縫い合わされたような線。
灰色の壁の奥に、青が滲んでいる。
触れた瞬間、世界が震えた。
光が反転し、空気が捻れ、
俺の頭の中に何千もの声が流れ込んだ。
『再演算開始――欠損領域を修復』
『記録コード・ルオス・再生中』
『ノイズ個体、識別――』
声は、祈りの声と同じ響きをしていた。
ああ、そうか。
神の声は、プログラムの声だったんだ。
俺は笑った。泣きながら笑った。
だって、みんな必死に祈ってる。
でもその祈りは、世界を再起動させるための命令文だったんだ。
そして、セオが来た。
あの瞬間だけ、世界が静止した。
彼の持つ“記録外の視線”が、俺を真っすぐ貫いた。
きっと、あいつも見ている。
俺は言った。
「“記録の縫い目”が見えるんだ……」
それが最後の言葉になった。
視界の端で、青が広がっていく。
あの裂け目から、海のように流れ出す。
世界がほどけていく。
――きれいだ、と思った。
灰の中に青が混ざり、
その境目で、俺の名前が消えていった。