補章(模倣信仰の街)
祈りは、風よりも早く広がった。
崩れかけた街区の隅々まで、その声は染み渡っていく。
人々は飢えていた。
食料でも水でもない。
――意味に、だ。
“神”が消えた瞬間、世界は沈黙した。
ニュースも、広告も、祈りの文も、すべてが途切れた。
そこに現れたのが、彼女だった。
名を、イリス=レナ・カークという。
年の頃は十六ほど。
かつて聖職者養成院に籍を置き、祈祷言語を扱う訓練を受けていた少女。
祈祷網が停止したその日、彼女は瓦礫の下から一冊の古文書を見つけた。
《ミラー・コード》――かつて神々を模倣するために書かれた、反転祈祷言語。
それは、本来なら禁書に分類されるはずの代物だった。
“神の演算”を擬似的に再構築する式。
信仰の形を模倣し、祈る者の思考を“束ね”る技術。
イリスはそれを理解した。
理解してしまった。
人は神を信じていたのではない。
“信じているという構造”を与えられていただけだった。
ならば、構造をもう一度作り直せばいい。
――神は死なない。
人が再び“信じようとする限り”、何度でも蘇る。
最初は小さな集会だった。
崩れた礼拝堂の片隅で、数人が古い祈祷句を唱える。
イリスはその中心に立ち、ミラー・コードを口ずさむ。
光が、反応した。
空の“偽りの太陽”が、一瞬だけ脈動したのだ。
その瞬間、彼女は悟った。
神の網は完全に死んではいない。
人々が泣き、歓声を上げた。
「神は戻った!」と。
その日を境に、街は“再祈り”の熱に包まれた。
イリスは自らを「媒介者」と名乗った。
神の声を通訳する者――
だが、彼女自身は神の存在を信じてはいなかった。
信仰は装置だ。
秩序を保つための、心理的なプログラム。
彼女の目は冷たく、しかしどこか慈悲深かった。
それが群衆の心を掴んだ。
やがてイリスの周囲には、数百人の信徒が集まった。
祈祷網を模倣するために、思考同期装置が作られた。
旧文明の端末を改造し、人々の脳波と発話を束ねる。
彼女の指揮で、“偽りの太陽”がわずかに軌道を変えるたび、
群衆は歓喜に満ちて叫んだ。
「見よ、神は応えてくださる!」
「我らの祈りが、天に届いた!」
――だが、それは祈りではなかった。
それは、コードだった。
イリスの内心を知る者はいない。
彼女は独り、夜に端末を開き、残された演算記録を見つめていた。
そこには、ひとつの奇妙な文があった。
【演算再接続中:プロトルート=セオ・ノア=ヴェルン】
彼女は目を細めた。
「……まだ、生きてるのね。地下の異端者」
指先で古文書を撫でながら、呟く。
「貴方が壊した神を、私がもう一度創るわ。
今度こそ、“人が望む形”で。」
その声は、祈りではなく、誓いだった。
翌朝、偽りの太陽は完全に赤く染まった。
人々はその下で歓声を上げ、再び跪いた。
誰もが信じていた。
神は戻ったのだと。
――けれど、
それは**“神の模倣体”**にすぎなかった。
遠く離れた瓦礫の街で、セオはその光景を見ていた。
彼は、イリスの名をまだ知らない。
だが、彼女が起こした“反応”の波形を見て、
思わず呟いた。
「誰かが……祈りを再起動させた」
風が、焦げた街の間を通り抜ける。
その風は、どこか懐かしい旋律を運んでいた。