21 地上の祈り
音が、消えていた。
地下を満たしていた機械の唸りも、祈りの残響も、もうどこにもない。
ただ、静寂だけが、世界の底に沈んでいる。
セオは瓦礫の山の中で目を覚ました。
視界の端に、焦げた回路柱の残骸。焼け焦げた金属の匂いが鼻を刺す。
手を伸ばすと、皮膚には焼けたような痕が残っていた。祈祷紋――祈りを媒介していた術式の名残。
「……生きてるのね。」
背後で声がした。レイアだった。
彼女の白衣は煤で汚れ、髪には細かな灰が降り積もっている。
「……ああ。死ぬには、中途半端だったみたいだ。」
セオは苦笑しながら立ち上がる。崩れた床の下から、まだ熱気が立ちのぼっていた。
祈祷網の崩壊から、どれほど時間が経ったのかはわからない。
ただ、世界が“静止”しているのを、肌で感じていた。
誰も祈らない。誰も命じない。誰も、支配しない。
「上へ行きましょう。」
レイアが指さす。天井の裂け目から、かすかに光が漏れている。
「このままじゃ崩れるわ。」
「……上。地上か。」
セオは頷き、残骸に埋もれた端末を見つめた。
画面には、途切れ途切れの文字列が浮かんでいる。
『──ルオス、停止完了。再演算待機。』
「……本当に、止まったんだな。」
「ええ。でも、“止まった世界”がどうなるかは、誰にもわからないわ。」
レイアの声は落ち着いていたが、その奥には微かな震えがあった。
祈祷網が消えた今、この世界はもはや誰の制御下にもない。
生と死の境界さえ、再定義を待っているのだ。
二人は崩れかけた階段を上る。
足元の金属が軋み、重い音を立てるたびに、何かが壊れていくような気がした。
やがて、光が視界を満たす。
地上への出口だった。
階段を抜けた瞬間、セオは息を呑んだ。
──空。
それは、かつて記録でしか見たことのなかったものだった。
だが、その空は“異常”だった。
祈祷網が消え、制御を失った大気は揺らぎ、灰色と白が混じり合った奇妙な光を放っている。
昼でも夜でもない。
まるで、時間そのものが迷子になっているようだった。
「……これが、地上。」
「……綺麗ね。でも、怖いわ。」
レイアの声は、感嘆と恐怖が入り混じっていた。
風が吹く。冷たい。
セオはその風を肌で感じながら、目を細めた。
かつての都市があった場所には、廃墟が並んでいた。
塔は折れ、舗道はひび割れ、金属の骨組みがむき出しになっている。
遠くで、何人かの人影が動いていた。
人々はただ空を仰いでいた。
口を動かしながら、しかし、何も言葉を発しない。
かつて祈りの言葉を唱えていた唇が、いまは何を求めて動いているのか――誰にもわからなかった。
ひとりの少女が、倒れた柱のそばで泣いていた。
胸に抱えた小さな祈祷盤は、光を失って久しい。
「神さま……どこに行ったの?」
か細い声が、風に溶けて消える。
レイアは立ち止まり、少女を見つめた。
だが、何も言えなかった。
神はいない。それは彼女自身の手で証明してしまったことだった。
「……“祈る”って、どうすることだったんだろうな。」
セオが呟く。
「忘れられるものじゃないはずよ。ただ……思考が戻った今、みんな迷っているだけ。」
レイアの言葉に、セオは黙って頷いた。
迷うこと、それ自体が“生きている証拠”なのかもしれない。
セオはポケットから、ヴェルンの残した記憶結晶を取り出した。
ひび割れた結晶の奥で、微かな光が脈打つ。
「ヴェルン……お前なら、どう言う?」
問いかけると、脳裏に声が響いた。
それは、かつて彼の中で共鳴していた創世者の記憶。
『――これは終わりじゃない。始まりだよ、セオ。』
セオは空を見上げた。
雲の切れ間に、ほんの一瞬だけ、青がのぞいた。
それは、まるで世界が最後の力を振り絞って見せた“希望”のようだった。
「……ねぇ、見た?」
「……ああ。まだ“空”は、生きてる。」
ふたりは歩き出す。
どこへ向かうのかもわからない。
けれど、その足跡が、この神なき世界に最初の道を刻みつけていく。
風が、灰を巻き上げた。
セオは振り返らず、ただ前を見据えて歩いた。
──祈りが消えても、人はまだ空を見上げる。
それがきっと、最初の“祈り”だったのだ。