17 虚無の標的
暗い水音が響く。
地下都市〈第七層〉――ここは、上層から流れ落ちた廃水と情報が混ざり合う“忘却の層”。
セオはその狭い通路を歩いていた。
彼の左手の掌には、微かに光る紋が浮かんでいる。
それは、あのとき〈信号塔〉が崩れた直後、無意識のうちに刻まれたもの。
(……何なんだ、これ。)
触れるたびに、頭の中で誰かの声が響く。
“祈りは、再構築命令だ。”
“神とは制御の総称。”
彼は理解できなかった。
ただ、自分の中の何かが少しずつ“人間ではない方”に傾いているのを感じていた。
第七層の奥、崩れたホールのような空間。
そこに異端術者たちが集まっていた。
老いた男がセオを見て言う。
「ノア=ヴェルン……あんたの名前が、上で噂になってる。
“虚無の標的”として。」
「……評議会の命令か。」
「ああ。上じゃ〈神の沈黙〉のせいで祈りが乱れてる。
おそらく、誰かが“演算構造”に触れた。」
セオは眉をひそめた。
(……レイアか?)
「どうする? 逃げるか、反撃するか。」
セオは静かに首を振った。
「……まだ、上を見たいんだ。」
その夜。
セオは都市の最上層――“観測井戸”へ向かった。
地上へ通じる唯一の縦穴。
厚い金属の蓋で塞がれ、誰も開けることはできないはずだった。
だが、その蓋が、わずかに震えていた。
音ではない。
世界そのものの“呼吸”のように。
(……これは……?)
セオは手を伸ばす。
掌の紋が反応し、淡く光る。
すると――上空の蓋の隙間から、一筋の光が差し込んだ。
灰ではない。
炎でもない。
それは、静かに揺らめく金色の粒子。
「……これが、地上の光?」
光は彼の頬に触れ、まるで呼吸を合わせるように脈動する。
次の瞬間、頭の中に声が響いた。
『――セオ・ノア=ヴェルン。』
女の声。
聞き覚えがある。
(……レイア?)
『あなたは、聞こえますか。
これは“原初の祈り”――世界の中枢に触れた信号。
あなたの中の創世者が、応答しています。』
セオの視界に、無数の光が走る。
それは都市の配管、通信線、そして人々の祈り――
全てが一本の糸で繋がれている。
『この世界は、呼吸しているの。
あなたの命も、ルオスの鼓動のひとつ。
でも、その呼吸が止まりかけている。』
「止まりかけている……?」
『“祈り”が揺らいでいる。
制御が崩れ始めているの。
でも、それは恐れることじゃない。
息を吸って、吐くように――世界は、変わろうとしている。』
光が強くなり、セオの体が浮かび上がる。
彼の背後で、地下都市の壁に無数の古代文字が浮かんだ。
〈再演算準備完了〉
〈同期対象:地上信号 P-00〉
「……レイア。君はどこにいる。」
『ここにいる。世界の上で――あなたを待ってる。』
そして光が途絶えた。
井戸の蓋が再び閉じ、静寂が戻る。
だが、セオの掌の紋は消えず、むしろ濃く輝いていた。
世界が“呼吸を再開”したことを示すように。
(この世界は、まだ終わっていない……
なら、俺は――)
彼は立ち上がった。
異端術者たちの前に戻り、言葉を放つ。
「俺は、上へ行く。
この世界がどうやって“生きてる”のか、確かめたい。」
静寂ののち、誰かが頷いた。
誰かが泣いた。
そして、誰もが立ち上がった。
地下が、息をした。