2 記憶壊れの少年
祈りの放送が終わると、街は息を吹き返したように動き出した。
人々は足早に通りを渡り、子どもたちは無言で学院へと向かう。
誰もが穏やかに、そして同じ速さで歩く――まるで、見えない糸で操られているように。
セオ・ノア=ヴェルンもその流れに紛れ、学院へ向かっていた。
曇天の下に立つ灰街学院の門は、無機質な光を放っている。
正門の上には、創世評議会の紋章〈Σ〉が掲げられていた。
人々はそれを「神の記号」と呼ぶ。
講堂では、朝の集会が始まっていた。
白衣を着た神官教員が壇上に立ち、穏やかな声で語る。
「記録こそが世界の秩序であり、忘却は罪である。
我らは記録に生き、記録に還る。」
セオは手帳を開き、機械的に筆を走らせた。
書きながらも、心のどこかが遠くにあった。
昨日書いたはずの文字が、いつの間にか形を変えている気がする。
――まるで、何かが上書きされているように。
隣の席から、リリィ・エルナが小声で囁いた。
「ねえ、聞いた? 三組の子が“壊れた”って」
「……またか」
「名前はカイ・リュース。
昨日までは普通だったのに、今朝になって……記憶が全部混ざったんだって」
その言葉を聞いた瞬間、教室の空気がわずかに揺れた。
誰も声を出さない。ただ、祈り札を胸に当てて黙祷する。
“記憶壊れ”――それは、この世界で最も恐れられる病だった。
記録の祈りを忘れ、昨日を思い出せなくなる。
神の記録から外れた者は、人ではない。
それが、この世界の常識だった。
昼休み。
セオは学院の裏庭へ向かった。
人気のない細道を抜けると、古びた教会の残骸が見える。
今は使われていない祈りの場。崩れた鐘楼、剥がれた壁面。
だが、そこだけは時間が止まったように静かだった。
扉を押すと、埃と冷気が頬を撫でた。
ステンドグラスの破片が床一面に散らばり、光をかすかに反射している。
その光が、まるで小さな青空の欠片のように見えた。
そして、奥の祭壇の前に――人影があった。
少年がいた。
制服は汚れ、髪は乱れ、両手で頭を抱えている。
肩が小刻みに震えていた。
「……昨日が……昨日が二つある……」
セオは立ち止まった。
聞き覚えのある声だった。
「……カイ?」
少年はゆっくりと顔を上げた。
目の焦点は合っていない。
だが、その瞳の奥で、何かが光っていた。
「セオ……見えるんだ……」
「何が?」
「“記録の縫い目”が……見えるんだよ……」
言葉とともに、カイの身体が小刻みに痙攣した。
その背後の空気が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
壁に描かれていた創世の絵画が、微かにノイズを走らせ、
次の瞬間には何事もなかったように戻る。
セオの喉が凍りつく。
確かに、世界が“揺れた”のだ。
「昨日と今日の境目が……貼り合わせみたいなんだ……
でも、誰も見えない……誰も……!」
カイは叫びながら頭を打ちつけた。
破片が舞い、ガラスの音が響く。
セオは思わず駆け寄ろうとしたが、足が動かなかった。
心臓が、何かに掴まれたように痛む。
「カイ、やめろ!」
「ちがう……ちがうんだ……! 俺、昨日の“青空”を覚えてる!」
その瞬間、頭の奥に電流が走った。
セオの視界が白く跳ね、耳鳴りが広がる。
――青空。
カメラの中でしか見られなかったはずの、その色。
気づくと、カイは静かに膝をついていた。
震える指先から、細い光が零れ落ちるように消えていく。
その目は、何かを見つめたまま動かなかった。
セオはゆっくりと息を吐いた。
外では鐘の音が鳴っていた。
授業の合図でも、祈りの呼びかけでもない。
――何かが、壊れた音だった。
振り返ると、教会の壁に走る一本の亀裂が見えた。
それはまるで、絵画のキャンバスに入った傷のようで。
その隙間から、青が、かすかに覗いていた。