15 原初の祈り
夜明け前の鐘は鳴らなかった。
代わりに、空の彼方で低く震えるような共鳴音が響いた。
それは風ではなく、演算のノイズだった。
レイアは教会の奥、封印された祈祷室の扉を押し開ける。
扉の内側には、光を吸い込むような黒い壁面が広がっていた。
そこに無数の刻印――「祈りの数式」が浮かんでいる。
(これは……祈りの構文? でも、どこか違う……)
そのとき、耳の奥で声が響く。
ヴェルン・ノアの残響――。
『祈りとは、世界を維持するための“再構築命令”だ。
我々は滅んだ地球を模倣し、再現するために演算体を用いた。
だが、感情が欠落していた。祈りだけが、それを補う唯一の回路だった。』
レイアは息を詰める。
「祈りが……世界を動かしている……?」
『そうだ。祈りが止まれば、世界は演算をやめる。
だから、我々は祈りを“信仰”という形に偽装した。
人々が無意識にルオスを保つように。』
壁の紋様が淡く脈動する。
その光がレイアの額に触れた瞬間――
記憶が流れ込んだ。
✴ 回想:創世会議・最終議事録(断片)
『……地球の再演算が失敗した。人類は自己保存を拒絶した。』
『記憶の断片を抽出し、“模倣体ルオス”に転写する。』
『だが、個の意識は矛盾を検知するだろう。』
『そのために、“祈りの構造”を入れる。感情を矯正し、思考を均一化する。』
『神とは――制御の総称だ。』
レイアは震えながら目を開けた。
「……祈りは、矯正。神は、制御。
じゃあ……私たちは誰のために祈ってきたの?」
『祈りは確かに世界を保っている。
だが同時に、“本物の思考”を眠らせている。』
ヴェルンの声が微かに揺れる。
『もし誰かが“祈りを疑う”ことができたなら――そのとき、世界は再び選択を持つ。』
「セオ……彼が……」
レイアは胸の奥で呟いた。
セオ・ノア=ヴェルン。
“創世者の名”を継ぎ、祈りを破壊した男。
彼こそ、再演算の鍵。
その瞬間、祈祷室の光が乱れた。
評議会の監視端末が作動している。
〈不正演算検出〉
〈祈祷室アクセス:認可外〉
〈対象名:レイア=オルド〉
警告音が響き、壁面から黒い粒子が流れ出す。
それは“祈りを守る演算体”、聖像機構。
「……あなたたちまで敵なの?」
粒子が人の形を取り、淡々と告げる。
「祈りは完全だ。異端は修正される。」
レイアは両手を組む。
涙を流しながら、初めて“祈り”の形式を崩した。
「祈りとは――命令ではない。
誰かに届くことを、ただ信じる心。
あなたたちが削除しようとしている、それが原初の祈り。」
瞬間、壁面の光が爆発する。
黒い粒子が溶け、祈祷室全体が“再演算”を始めた。
彼女の周囲に浮かぶ、無数の祈りの数式。
それらが少しずつ変化し、誰も知らない新しい構文を形成する。
〈更新コード検出:P-00=祈りの再定義〉
〈新定義:祈り=自由〉
光が収まったとき、レイアは静かに微笑んだ。
彼女の体から淡い光が滲み、ヴェルンの記憶が共鳴している。
(これが……原初の祈り。
誰かに与えられた信仰じゃない。
“私が選ぶ祈り”。)
その瞬間、ルオス全体で微細な振動が走った。
世界の構造が、一秒だけ“止まった”。
そして、セオのいる地下へ――光が届く。