1 気付き
――夢を見た。
どこまでも青い空。透き通るような風が肌を撫で、光が草原の上を滑っていく。
誰かの笑い声がした。懐かしいようで、知らない声。
その音を追いかけようと手を伸ばした瞬間、すべてが灰に変わった。
金属が軋む音で目が覚める。
薄暗い天井を見上げると、配線の隙間から鈍い光が漏れている。
電力は夜のうちにまた落ちていたらしい。
セオ・ノア=ヴェルンは寝台から起き上がり、錆びた蛇口から濁った水をすくって顔を洗った。
鏡の中の自分は、昨日より少しだけ色が薄く見えた。
外に出ると、朝霧のような煤煙が街を包んでいる。
灰街――第七区居住層。かつて工業都市だったが、今は人の影ばかりが増えた。
太陽は存在するはずなのに、空にはその形がない。
ただ、光だけが灰の層の向こうで鈍く脈動していた。
屋上へ続く梯子を上る。
空気は乾いていて、どこか焦げた匂いがする。
遠くの放送塔から祈りの放送が流れはじめた。
「神は記録し、我らは留まる。
今日もまた、完全なる一日が始まる。」
声は穏やかで、子守唄のようにやさしい。
けれどその言葉を聞くたび、胸の奥がざわめく。
完全――何が完全なのだろう。
この濁った空も、腐食した壁も、誰も疑わないこの日々も。
セオはポケットから古びたカメラを取り出した。
祖父の代から受け継いだ、もう誰も使わない機械式。
シャッターを押すと、内部で乾いた音が響く。
レンズ越しに見える街は、現実よりも少しだけ明るかった。
――いや、それだけじゃない。
空が、青い。
ほんのかすかに、だが確かに。
灰ではなく、青。夢の中で見たのと同じ色。
セオは息を呑み、カメラを外して空を見上げた。
そこには、灰色しかなかった。
もう一度覗く。青。
目で見る。灰。
何度繰り返しても、結果は同じだった。
耳の奥がきゅっと痛んだ。
考えようとするたび、頭のどこかが拒絶する。
まるで何かが「そこまでだ」と囁くように。
「また、見てるの?」
振り向くと、リリィ・エルナが階段の影に立っていた。
淡い金髪を風に遊ばせ、灰街には似つかわしくないほど澄んだ瞳をしている。
彼女は笑って、セオの隣に腰を下ろした。
「空、見える?」
「見えるけど……灰ばっかり」
「カメラの中では、青いんだ」
「夢の続きを撮ってるみたいね」
リリィは静かに笑い、煙の向こうを見つめた。
どこか遠いものを思い出すように。
「ねえセオ。たまに思うの。
世界が呼吸してるみたいだって」
「呼吸?」
「うん。昨日と今日の境目が、少しずつズレてる気がするの。
でも、誰も気づかない。気づいたら、きっと“壊れた人”って言われるんだろうね」
セオは無言で頷いた。
言葉にすれば壊れてしまいそうな感覚が、胸の奥にある。
だから彼は何も言えなかった。
遠くの放送塔がもう一度鳴る。
「記録に感謝を。記録に祈りを。」
人々のざわめきが止まり、街全体が一瞬だけ静寂に包まれる。
空のどこかで、低い“軋み”のような音が響いた。
セオには、それが世界そのものの音に思えた。
リリィが小さく呟く。
「ねえ、セオ。
本当に、神が“記録”してるのかな」
灰色の風が二人の間を抜け、
遠くで古い電線が一斉に鳴った。
セオはカメラを握りしめ、青と灰の境目を探し続けた。
だが、どちらが“本物”なのかは、もうわからなかった。