05.日雇いの裏に潜むもの
夕暮れ、水車小屋亭の裏庭で、ライザは黙々と拳を繰り出していた。
突き、払い、踏み込み、基礎動作の繰り返しに過ぎない。だが、その姿は妙に目を引いた。
拳が空気を裂くたび、湿った埃が舞い、乾いた音が壁に反射する。荒く乱れた呼吸を整えるように肩を揺らし、再び姿勢を正した。
小屋の壁際に置かれた木箱の上に腰を下ろしたトムは、煙草を唇の端で転がしながら眺めていた。
「頑張るねぇ」
無意識に言葉が漏れる。ただの体術練習に見える。だが一撃ごとに寸分の狂いもなく動作が揃っていた。
素人の真似事ではない。むしろ武装兵の訓練以上に、研ぎ澄まされた気配をまとっていた。
(いったいどうなってんだ)
トムはライザとの付き合いがそれほど長いとはいえないが、安宿にともに住むよしみで、ある程度彼の性格や能力を知っているはずだった。
しかし近頃のライザはおかしい。いつもなら日雇いから帰れば、死んだ魚のような目で夜遅くまで飲み明かし、「金でも降ってこないか」と愚痴をこぼしつつ、また仕事を探しに行く、そんな日々だった。だが、ここ数日はめっきり酒場に姿を見せなくなった。先週は顔を見せたかと思えば、日雇いをやめたいと言い出し、試しに工房主を勧めたら、いつの間にか保証人まで見つけてきた。それからは走ったり木の棒を振ったり、今日は拳を振っている。
思えば、戦魔の外郭防壁へ整備しにいった日からだろうか。あのときから様子が変わった気がする。あの日は久しぶりに中規模な襲撃事件があった日だ。
トムは肩をすくめ、煙草を吹かす。胸の奥には、別のざわめきがじわりと広がっていた。
外郭防壁での襲撃。マリア婆が渡していた封筒。第三工房の買収。
日雇い風情に似つかわしくない動きだ。
(なんか妙だな……考えすぎか?)
ライザの訓練を見ながら、トムの意識は遠くにあった。
――もし俺が日雇いだけで食っていたら、とっくに飢え死にしてただろう。
親父の小さな工房が潰れた日のことを思い出す。借金取りに道具を競売にかけられ、家は瓦礫になった。残ったのは借り物の肉体だけ。力仕事で銅貨を稼ぐのが精一杯。
けれど気づいてしまった。
荷の合間にこぼれる愚痴、酒場で酔った舌のすべり、賭場で漏れた裏話――それを別の誰かに伝えるだけで、銅貨は銀貨に化けた。
言葉は軽い。だが、意外と高く売れる。
それからトムは二つの顔を持った。
汗で銅貨を稼ぐ日雇い。噂で銀貨を稼ぐ情報屋。
(やめとけやめとけ)
嫌なことを思い出した、と顔をしかめる。
(あいつにゃ隠し事がある)
問いただす必要はない。トムにはトムのやり方がある。噂を拾い、口を解かし、情報を金に変える。それが彼の商売だ。
「くそっ、鉄板の運搬は二度とごめんだ……」
「こっちは手当てもなしだぞ」
戦術魔導師団の防壁や記録院の石造りの高塔がそびえる中心部。その一角にある資材置き場では、補修作業に疲れ果てた作業員たちが、口々に愚痴をこぼしていた。
その中に、腕を吊った整備士の男がいた。
「痛そうだな。大丈夫か」
トムは適当に目に付いた者に声をかける。このような日頃の情報収集活動が、思いがけない金になったりする。
いつも通りの軽口を叩くと、男は苦笑いを返した。
「あぁ……この前の襲撃に居合わせちまってな。この通りよ」
この産業都市では、襲撃は特に珍しいことではない。強大な権力を持つ一方で、多方面に敵を抱えるギルドは、恨みを買いやすい。
「それは災難だったな」
「まったくだ。俺もあと少しでやられるところだったんだが、ギリギリで助けてくれた奴がいた。俺にもまだつきがあるみたいだ」
「へぇ、警備兵か?」
「分からん。格好だけは俺らと同じ日雇いだったが、ありゃ戦魔直属の人員かなんかだろうな」
「そんなに凄かったのか」
「そりゃ凄かったさ。あんなのを間近で見せられたら腰を抜かすに決まってる。俺も詳しくはねぇが、ありゃ雷撃魔術だ。お前、見たことあるか?」
「いや」
雷撃魔術。火や水と違い、自然界で制御が極めて難しい高等魔術。熟練の魔術士でさえ習得には年月を要する。
「それもな、リベットガンに魔術付与しててよ。こう、鋲に稲妻がビビビッと……」
トムの脳裏に、ライザが常に携帯しているリベットガンの姿がよぎった。心臓が一瞬止まったような衝撃が走る。
「おい、まさかその男、灰色の作業着に細身で黒髪黒目、目つきが少し悪い奴じゃないか?」
額に冷たい汗がにじむ。
「え、あ、あぁ。たぶんそうだ」
倉庫裏で拳を振るっていた、あの痩身の男。間違いない――ライザだ。
「詳しく教えてくれ」
トムは声を落とした。ライザはただの日雇いではない。
トムが去ったあとも、人気のない裏庭でライザはひたすら拳を振るい続けていた。
(無駄を削れ。姿勢を崩すな。重心をためろ……)
外郭防壁での整備から一週間ほどが過ぎ、扱いづらかった新しい思考にも、次第に順応しつつあった。
分かってきたことがある。外郭防壁の整備で触れた結晶板をきっかけに芽生えたこの新しい思考回路――それは「擬装意識」と呼ばれるらしい。
普段はライザ自身の思考と溶け合っている。だが危機の際には擬装を解き、本来の制御を露わにすることで、ライザの限界を超えた超人的な動き――「機殻思考」を可能にする。
擬装意識が芽生えた当初、それを「声」と錯覚したのも、その働きゆえだった。
長年の師が背後から監督しているかのように、動作の誤差や筋肉の疲労を即座に解析し、擬装意識は矯正を促してくる。
灰色の工房で得たまとまった金のおかげで、この一週間は仕事を考えず徹底的に訓練に打ち込むことができた。
走り込み、素手の体術、工具を使った模擬戦。
その全てを、今の自分に必要な強度と限界を見極めたうえで、擬装意識が導き出している。
心臓の鼓動、筋肉の収縮、関節への負荷。それらすべてが数値のように頭の中へ浮かび上がってくる。
ライザは大きく息を吐き、地面を蹴って素早く踏み込む。
その瞬間、石の硬さや湿度までもが情報となって頭に流れ込んできた。
だが長く触れ続ければ、こめかみがずきりと痛み、吐き気が喉をせり上げてくる。ライザは慌てて情報の流入を遮断した。
(外部の情報は触れたときに流れ込む。だが長くは持たない)
ライザは肩で息をしながら、再び拳を構えた。呼吸を整え、次の突きを放つ。
その背筋には、もはや気だるげな日雇い整備士の影はなく、戦場に立つ兵士のような緊張感が走っていた。
訓練を終えたライザは、汗でじっとりと濡れたシャツの襟を指で引き、息を整えながら水車小屋亭のラウンジへ足を踏み入れた。
木製の椅子と机が不規則に並び、煤けたランプが温かな光を揺らめかせている。夕暮れ時の客入りは少なく、酒の匂いよりも煮込みの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
いつもの席に視線をやると、そこには誰の姿もなかった。
トムの姿がないのは珍しい。あの男は決まって煙草をふかしながら、噂話を拾っているものだからだ。
「探してる相手なら、今日は留守だよ」
カウンターの奥から、しゃがれた声が飛んだ。
振り返ると、カウンターに肘を突いて立っているのはマリア婆だった。片目だけが濃い茶色に光り、皺だらけの顔には、いつもの意地悪そうな笑みが浮かんでいる。
「別に探してない」
ライザはそっけなく返し、空いた卓に腰を下ろす。椅子の軋みが妙に大きく響いた。
「ふん、素直じゃないねぇ」
「あいつは勝手にいるだけだ」
「はいはい、そういうことにしとこうじゃないか」
マリア婆は肩を揺らし、器用にカップを拭きながら笑った。その調子に、ライザの胸の奥がむず痒くなった。
言葉の間が空くと、胸の奥に小さな圧がかかる。何か返さねばと思うが、舌が重く、うまく回らない。
ずっと一人で生きてきたせいだ。人と軽口を交わすのは、どうにも不得手だった。
「……なんだよ」
「なんだ、とはご挨拶だねぇ。あんた、ここ数日まるで憑かれたように体をいじめてるじゃないか。生き急いでどうするんだい」
マリア婆の眼差しは、老いの濁りを含んでいながら、妙に鋭かった。ライザは視線を逸らす。
「急いでなんかない。ただ……やることがあるだけだ」
短く吐き出す言葉に、自分でも無愛想さを感じる。だがそれ以上は言葉が続かない。
マリア婆はひとつため息をつき、手拭いを畳んだ。
「まったく、若いのは火の玉みたいだね。けど燃え尽きた灰じゃ、何も残らないよ」
ライザは答えず、卓上の水を一気に飲み干した。冷たい感触が喉を滑り落ちる、その感覚だけが今は救いのようだった。