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04.交渉と灰雨紙工

都市にしては珍しく、昼前には雨雲がほつれ、鈍い光が雲の裏から滲んだ。


翌朝、〈水車小屋亭〉の共有室へ降りると、マリア婆が封筒を差し出した。

薄茶色の紙。角に硬い封蝋(ふうろう)。表には簡素に「受領」の刻印だけ。

ライザは受け取ると、親指で封蝋を割った。乾いた感触と共に、香りのない冷たい空気が紙の間から抜ける。


中身は、昨日灰色の工房で遂行した仕事の報告書控えと明細。

振り込まれた額は、日雇いなら半年分以上。封蝋の欠片を小皿に移す。

まずい仕事に関わってしまった感がなくもないが、これでしばらくは遊んで暮らせる。


(でも、その先は?)


想像するだけで、あの列――日の出前から並ぶ、日雇いの顔ぶれが脳裏に浮かんだ。

濡れた靴、冷えた空気、無言の視線。

胸の奥が、嫌悪でざらつく。


(もう、戻る気はない)


封筒を上着にしまうとき、縫っていない脇腹が鈍く主張した。表情に出ないように気をつけながら、併設された酒場側の扉を押す。


中はまだ昼の客が来る前で、昨夜の油の匂いと(あぶ)った魚の香りが混ざっている。

梁の上のグラスが、曇天の光を鈍く返す。

トムはいつもの席で、薄い酒をグラスに注ぎながら指で回していた。


「よう、調子はどうだ」


軽薄な笑み。ライザは腰を下ろし、言葉を選ばずに吐く。


「日雇いはうんざりだ。他に稼ぐ方法を知らないか?」


「それは聞く相手を間違えてるな」


トムは笑いながら続ける。


「お前、産業都市(ここ)に来てそれほど長くないだろ。前は何してた?」


「今とそんな変わらない。いや、今の方がマシか。寝る場所も飯もある。……なんで長くないと分かる?」


「顔つきだよ。それなりに苦労してきた顔だ。数日前までは目が死んでたが、今はまるで別人だな。女でもできたか」


眉をひそめるライザにトムはご機嫌そうにケッケッケと笑いながら、どこからか取り出した太い鉛筆で四つの丸を紙に描いた。


「お前みたいなポッと出が稼ぐとしたら、自分の工房を持つしかねぇ。箱、火、水、鍵。まずはこれを揃える必要がある」


説明は続く。

箱は屋根と床のある工房、火は魔力の配給、水は飲み水や洗浄用、出入りの権利を示す鍵。

さらに――。


「紙だ」


トムの声が低くなる。

この街は魔導紙で動く。申請、帳簿、許可。面倒くさい手続きを踏む必要がある。

その為に、誰かの保証が必要となる。

さらに保証人が決まったとしても、代書人が要る。代書人とは紙の通し方を知る中間管理人である。


話に耳を傾けながら、ライザの中で形が見えてくると同時に、辿り着くまでの厚い壁も感じた。


そこへ、いつの間にかいたマリア婆が割って入る。


「工房を持つのかい? 場所なら当てがあるよ。三番工房。鍵は運搬組合の灰班持ちだがね」


「灰班?」


ライザの問いに婆は指を二本立ててみせた。


「倉庫の開け閉め荷さばき、鍵の保管をやる奴らさ」


トムは言う。


「要は家賃滞納、契約不履行、安全基準違反、何が原因かは知らねぇが没収されて所有権は宙ぶらりん状態の工房って訳さ。そこを灰班が誰が入ったか、いつ開けたかを記録し管理しているって寸法よ。まぁまずは下見に行って使える状態か確認しないと始まらないわな」


ライザは考える。下見に行って仮押さえに成功したとして、保証人と代書人が必要だ。


「問題はそこだな。俺たち日雇いには後ろ盾になってくれる有難いギルドなんていねぇ」


唸るライザにマリア婆が皿を差し出した。まずは腹を満たせということらしい。

塩気のある温かさが喉を通る。確かに、からっぽの胃袋は足を鈍らせる。

ライザは椅子から身を起こす。

胸の奥が、静かに熱を帯びる。






工業区の外れ。

雨で看板の字は薄れ、扉の鍵穴だけが妙に光っている。差押え札は端がめくれ、風に揺れた跡が幾筋もある。


「用件は?」


灰色の袖章(しゅうしょう)を巻いた二人組。肩幅のある体、油の染みた手。彼等が灰班と呼ばれる者らしい。


「工房が欲しい。下見がしたい」


言葉を削ぎ落とし、必要な響きだけを残す。


細身の男があくび混じりに答えた。


「だれだお前。書類は通ってるか? はいどうぞってわけにはいかねえのよ」


予想通りの返答に意を返さず、ライザは室内の隙間を盗み見た。梁の陰、床の黒い筋。扉の隙間風の匂い。

ゆっくりと息を吸い、吐く。

その横で、大柄な男は視線を外し、差押え札の端を指先で弄っていた。札の色褪せも、埃のたまり方も、長く中を見ていないことを雄弁に物語っている。


「開けないなら、この工房、来月で保管期限切れだな」


ライザは淡々と言った。


「そうなれば灰班が中を確認していないって記録が残る。上から理由を聞かれて、始末書を書く羽目になる。もちろんお前らも連帯責任だ」


袖章の二人が顔を見合わせる。


「俺が全部見て、開錠記録を残す。あんたらは立ち会ったって一行だけ書けばいい。それなら楽だろ?」


一瞬の沈黙。灰班の男は舌打ちをひとつして、鍵束を回した。


「……十五分だけだ」


「十分で足りる」


錠は意外に素直に回った。

蝶番が、長い間油を差されなかったせいで短く悲鳴を上げ、冷たく乾いた匂いが胸に落ちる。


中は狭いが、使い(みち)はある。

壁の低い受け台、梁の滑車用金具、床に斜めの台車跡。

――そして、魔力炉の四角い跡。その脇に塞がれた細い配管穴。検印はない。申請せずに置いた痕だ。


魔力炉の跡から数歩、靴底がざらつく。薄く積もった鉄粉。

棚や壁の低い位置には灰色の筋――研磨作業の飛沫だろう。

工具棚の下、引き出しの取っ手には白い粉が固まってこびりつき、湿気を吸って鈍く光っている。灰だ。水路工の材料がこんなところにあるのは不自然だ。

天井の梁には、最近結ばれたままの細い麻紐。端が焼け焦げており、火を使った痕跡を残している。


埃の厚み、染みの輪――それらが、灰班が最後にここを覗いたのがいつなのかを雄弁に物語っていた。


ライザは視線だけを動かし、細部を頭に刻み込む。


扉の外、灰班の二人は壁にもたれ、退屈そうに欠伸をしていた。

ライザは羊皮紙を膝に広げ、手早く図と寸法を起こし、記録の余白に「使用可」の文字を入れる。


「ここを仮押さえにする」


何でもない調子でそう言った瞬間、外の空気がわずかに張り詰めた。


「は?」


大柄な方の眉がぴくりと動く。


「いま見た現状を記録する。その際、この物件を仮貸与の候補として記載する。開錠の立会い者として、お前らの名前を残してやる」


細身の方の喉が小さく鳴り、口元がわずかに歪む。驚きを隠そうとしているが、隠しきれていない。


「記録は当然だが……仮貸与なんざ、保証人も審査も通ってからだ」


「知ってる。その手前の覚書(おぼえがき)だ」


覚書とは当事者間で合意した内容を文字にして残すための書面だ。後々の正式契約書を作る際の基礎になることもある。

ライザは羊皮紙の別の欄を指で叩く。


「上に回す書類に、日付と名前と立会い印。それだけでいい。そうすれば、正式審査前に他の奴に回らない。お前らも保管責任を問われずに済む」


短い沈黙。

曇天の光が、袖章の銀糸を鈍く照らす。

大柄の男は視線を外し、口を結んだまま顎に力を込めた。


「……やけに段取りに詳しいじゃねえか」


「優秀な知り合いがいるんだ」


ライザはトムに交渉術まで教わってはいないが、脳内で彼に責任を押し付ける。あまり目立ちたくはない。


その一言に、細身の男が渋い顔で印章袋を開ける。

(ろう)の匂いが立ちのぼると同時に、空気が少しだけ和らいだ。


「……貸すんじゃねえぞ。あくまで立会いの覚書だ」


「分かってる」


羊皮紙に、灰班の印が押される。赤い蝋の縁がじわりと紙に沁みる。

その匂いは、冷たい鉄の鍵よりも、はるかに確かな所有の予感を帯びていた。






エイカは湿った石畳を蹴るたび、胸の中の焦りがせり上がるのを感じていた。

紙束を抱えた腕が、じわりと重くなる。端を覆った布はもう湿っている。

昼便まであと三刻――これを納められなければ、今月の工賃は半分も出ない。


路地は、産業都市特有の灰色で覆われていた。

屋根からの滴が肩に落ちるたび、エイカは顔をしかめる。

工業区と市場をつなぐ狭い路は、薬品や蒸気の匂いが入り混じり、空気そのものがざらついている。


角を曲がった瞬間、何か固いものが胸元にぶつかった。

衝撃で足がもつれ、腕の中の紙がばらばらと飛び出す。

水溜まりに、一枚、二枚――端がみるみる茶色く染みていく。


「――っ、ごめんなさい!」


思わず声を上げ、膝をついて散らばった紙を拾い集める。

紙は高い薬代を払って漂白したばかり。汚れればやり直しも効かない。


「……ごめん」


低い声がして、顔を上げると、苦い顔をした青年がそこにいた。

身なりは日雇い。黒髪黒目。どこにでもいそうな男。


(納品分なのに。どうしよう)


エイカの顔色が青ざめていく。

その表情を一瞥した青年は、汚れた紙を手に取り、湿り具合と匂いを確かめる。


「匂いが薄い。漂白薬がまだ生きてる」


短くそう言うと、彼は濡れた紙束を見渡し、今度は足元の水溜まりから一枚を拾い上げた。


「軽い染みだけなら、落とせる。火と灰水と、布。それと乾いた板があればいい」






魔導紙を生産する小規模ギルドの一つ――灰雨(はいあめ)紙工の作業場は、木の香と湿気と、わずかな薬品の刺激臭に包まれていた。

天井近くまで積まれた紙束、乾燥棚の半分は空で、板の跡だけが白く残っている。

壁際の大鍋は湯気を立てていたが、その蒸気は頼りなく細い。


「戻ったのか、エイカ……おや、客か」


奥から現れたのは、浅黒い肌に短く刈った黒髪、三十半ばほどの男だった。

目は獲物を狙う猛禽のように鋭く、笑えば牙を見せる獣の顔になるだろう。

紙工ギルド長、ダグ・サーネル。

貧しい下級職人の家に生まれ、十代で徒弟になり、二十代で独立――数年でこの小さなギルドを立ち上げた男。

経営が傾いても、その目の奥のギラつきは一度も鈍らない。


「紙が濡れました」


エイカが縮こまりながら言うと、ダグはため息を一つ。


「あぁ、水脈制御師団(水御)への支払いが来週だってのに……もう材料はねぇ。薬も節約で限界だ」


青年――ライザと名乗った――は黙って鍋と乾燥棚、台の布、通風窓の開き具合を順に見ていった。

灰水の桶を見つけると、指先を浸し、感触を確かめる。


「染みた端だけ灰水に通す。火は鍋から少し離せ。薬は温めるのであって、煮るな。布は張り直せ。台は水平に」


矢継ぎ早に出された指示に、ダグは眉を上げる。


「職人でもねえ奴が、偉そうに」


「やってみれば分かる」


ライザは平然と答え、濡れた紙を端だけ灰水に沈め、数呼吸で引き上げた。

触れた掌の奥で、含水率が「四割二分」、灰水の鹸度(けんど)が「弱一」、乾燥応力の向きが細い矢印になって並ぶ。

乾燥台の脚に板切れを噛ませ、通風窓の角度を十七度に揃える。

薄板を紙の端にそっと置き、風と重みでそり癖を直す。紙の鳴きが一音上がり、数字の列が静かに消えた。


動きはたどたどしいものの、初めて見る加工方法にエイカは息を呑んだ。

半刻もかからず、波打ちと茶色の染みが薄れ、紙がほとんど元の腰を取り戻していく。

魔術ではない。ただ、配置と手順を組み替えただけ。


「……薬の減りは?」


ダグが問う。


「半分。灰水を前処理に使えばいい。火加減と風を守れれば、同じ紙が出る」


ダグはわずかに口角を上げた。


「地合が崩れてねぇし、サイズも死んでない。天気に引きずられねぇ乾燥が組めるなら、薬と水が半分で済む」


視線が鋭くなる。


「手順を図面に落として、記録院に通したい。信用印が取れりゃ取引先が増える」


ライザは黙って見返す。


その沈黙に、ダグの口元がさらに上がった。


「頼む。何か協力できることはないか?できる限り力になるぞ」


「三番工房、昨日下見をしてきた。あそこを買い取りたいと思ってる」


「あそこか。物件としてはこれ以上ない訳ありだな。となると、問題は保証人だが――」


ダグは数秒考えた後、ニヤリと笑った。


「いや、こんなのはどうだ? まず、俺が買い取り、魔導紙の増設工房にする。この技術があれば生産方法を改良できそうだし、そもそも製造体制を増やそうと思ってたんだ。現場監督はお前に任せよう」


ライザは視線を窓に向け数秒ほど考えると、淡々と言った。


「全然だめだ。あんたが三番工房を買うなら条件がある。まず、記録院への届出は全てあんたの名で通せ。ただし、技術書式は俺の封印で保管だ。三番工房以外での使用は禁止。純利益の五割と優先買受権、それから監査権は俺が持つ」


ダグは目を細めしばらく考えると、やがて力強く頷いた。


「まぁ、そんなところか。いいだろう。契約成立だ」


魔導紙に条件を書き、二人の名前を記入する。

(ろう)が紙に沁み、丸い縁が冷えた光を放った。


「そうと決まれば、とりあえずはさっさと納品だ。時間がない。急げ」


ダグは短く笑みを浮かべた。

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