01.古代魔導機構との遭遇
空は、今日も灰色だった。
煙突から吐き出された煙と魔力炉の蒸気が絡み合い、空一面を曇らせている。
太陽は常にその灰色の膜の奥に隠れ、光は薄く冷たい。
産業都市の朝は金属音で始まる。剣の刃こぼれを研ぐ音、銃床を叩く音、魔力炉の脈動。
この都市を支配しているのは、多種多様なギルドだ。
水脈制御師団は水道や下水を握り、地脈整備局は地脈と温脈、土壌改質陣を握り、温室と耕地を制御することで食料を支配する。
そして最も力を持つのが戦術魔導師団――戦争と治安維持を一手に担い、他のギルドすら依存する存在だ。
自由はここにはない。
弱い者は命令を受けるだけ。命令に逆らえば、仕事も住む場所も失う。
雨が降り始める。冷たい粒が鈍色の石畳を濡らし、油と煤の匂いを街に広げる。
人々は傘も差さず、足早に職場へ向かっていく。
立ち止まる者など、ほとんどいない。
その中に、ライザがいた。
二十歳。家名はなく、親類もいない。
日雇いの仕事で食いつなぎ、企業の下請け、そのまた下請けで働く。
色あせた灰色の作業着に、使い古しの工具箱を片手に持っていた。
中背で細身。黒い瞳は常に周囲を観察し、人混みの流れに沿って歩く。
ライザはそこまで頭が良いわけではない。この街では頭の良さはむしろ邪魔になる。
作業の無駄や危険に気づいても、口に出せば上の者の機嫌を損ねるだけだ。
だから彼は、考えても口にしないことを覚え、それが常識になった。
理不尽は飲み込み、目立たず生き延びる。それが一番の処世術だった。
その日の現場は、戦術魔導師団の外郭防壁工事だった。
雨に濡れた鉄骨の足場が、壁の外側を囲んでいる。
入り口で身分札をかざすと、結晶板に〈臨時・整備〉と浮かぶ。
今日だけ雇う使い捨ての作業員、それがライザの立場だ。
「おい、新顔! 濡れたまま入るな、魔力導管が狂うぞ!」
現場監督が怒鳴る。
魔力導管とは、魔力を動力として送るための管だ。
銅や魔導石でできており、魔力炉から施設全体に魔力を流す血管のようなもの。
水や汚れに弱く、濡れれば魔導陣が誤作動を起こす。
ライザは黙って会釈し、入口脇の乾燥魔導陣に足を踏み入れる。
白い光が一瞬体を包み、服や靴の水分を吹き飛ばした。
作業場の中は薄暗く、天井から吊るされた魔導灯が弱々しく光っている。
床には金属部品が並び、壁際には魔導陣を刻んだ大きな台座が置かれている。
遠くから、機械と魔力の混ざった低い唸りが響いてきた。
「今日の仕事は外壁の支柱の固定だ。……それと」
監督は台帳を見て口角を歪めた。
「中枢側も確認しろってさ。『可能なら』って書いてあるが、やるんだよ」
ライザは黙って頷き、足場を登る。
濡れた鉄骨が滑りやすく、靴底の感触に神経を集中させる。
奥からは、雨音に混じって規則的な振動が伝わってくる――魔力炉の脈動だ。
監督が下から声をかける。
「ライザ!中枢の固定具が怪しい。お前なら通風孔を通れるだろ。行け」
中枢――古代魔導機構の心臓部。ライザは数百〜数千年前、現在よりも魔導技術が発達していた時代に製造された機構・装置とだけしか知らない。
すなわち、本来なら臨時作業員が触るべき場所ではない。
だが、この現場ではそんな規則はあってないようなものらしい。
ライザは蓋を外し、狭い通風孔へ体を滑り込ませた。
中は湿った冷気が流れ、金属の匂いが強い。膝と肘をつき、慎重に進む。
通路を抜けた先は、円形の広間だった。
床は黒い石でできており、幾重もの魔導陣が同心円状に刻まれている。
その間を、真鍮の魔力導管が走っていた。
中央には、透明な結晶板を持つ巨大な制御盤がそびえている。
その中を、文字とも図形ともつかない光がゆっくりと流れていた。
「……ここか」
ライザは周囲を確認し、工具を取り出す。
固定具を一つ、二つと締め直していく。
作業は順調だったが、三つ目のボルトに触れた瞬間、工具越しに奇妙な振動が走った。
耳の奥で低い音が鳴った。それは金属音ではなく、脳に直接触れるような感覚だった。
思考の配線が勝手に組み替えられる。
視界が一瞬にじみ、上下の感覚がぐらつく。耳の奥で「キィィ」という高音が鳴り続け、吐き気が喉元までこみ上げた。
数字と回路が洪水のように押し寄せ、呼吸が浅くなる。
制御盤の結晶板が、ゆっくりと光を強める。
光は言葉ではないが、形が意味を持っていると分かった。
回路図、数字、波形――見たことがないのに、なぜか理解できる。
気づけば、ライザの指は結晶板に触れていた。
閃光が走り、世界が白に包まれる。
膨大な情報が頭に流れ込む。魔力の流れ、導管の抵抗値、空気の湿度――すべてが数字で示される。
数字は、最も安全で効率的な行動を指し示していた。
(なんだこれは)
その瞬間、外で爆発音が響いた。
床が揺れ、警報が鳴り響く。赤い魔導文字が壁際を走り、怒号と金属音が近づいてくる。
襲撃だ。
遠くの通路へ、仲間の作業員が転がり込んできた。
「逃げろ!武装兵が来てる!」
彼の背後から、全身鎧の兵士が飛び込んでくる。剣が閃き、火花が散った。
ライザはリベットガンを握りしめる。
これは本来、鋼の釘を打ち込む工具だ。至近距離なら十分に武器になる。
同時に、頭の中で雷撃魔術の回路が組み上がっていく。一度も発動できたことがない魔術。なのに仕組みや構造が分かる。詠唱は不要だった。
「くそっ……!」
作業員へ武装兵の剣が迫り、炎光が閃いた。
作業員は痙攣し、そのまま崩れ落ちる。
次の瞬間、別の武装兵が通路へ飛び込んでくる。
「助けてくれ!」
現場の一人が通風孔の先で叫ぶが、距離がある。
武装兵の刃がその男に振り下ろされ――その瞬間、ライザはリベットガンを構えた。
引き金を引き、鋲に雷を付与する。
青白い閃きが鋲を走らせ、鎧の合わせ目で火花が跳ねる。真鍮の留め具が導体になり、武装兵の体が一拍遅れて強張ると同時に、後ろへ吹き飛んだ。
自分の行動に、遅れて戸惑いが追いつく。息を荒くしながら、ライザは制御盤の脇に身を寄せる。
外では戦闘が激化し、魔術の閃光と銃声が入り混じっていた。
制御盤の周囲から、焦げた金属と煙の匂いが立ちこめる。
ライザの手にはまだリベットガンの重みが残っていた。
呼吸は荒く、鼓動が耳に響く。
通風孔の先には、倒れた武装兵が動かないまま横たわっている。
隙間から見える仲間の作業員たちは、物陰に身を潜めて震えている。
彼らの目は恐怖で見開かれ、誰もがこの場をやり過ごそうとしていた。
(今のは偶然じゃない)
背筋に氷を押し当てられたような寒気が走る。
自分の意思よりも先に体が動き、敵兵を撃ち抜いた――そんな感覚が恐ろしかった。
頭の中にまだ、雷撃魔術の回路が微かに残っている。
状況の最適解を冷たく提示する声。それは感情を持たず、ただ計算し続けていた。
「……っ、やっと片付いたか」
周囲が落ち着いたのを確認し通風孔から戻ると、通路から肩で息をする現場監督が現れた。
彼は辺りを見回し、ライザと倒れた武装兵や作業員を交互に見、短く吐き捨てる。
「運が良かったな」
確かに、ライザは通風孔の先にいたため、襲撃の巻き添えをくらうことはなかった。
ライザは余計なことを言わず工具箱を拾い上げた。
戦闘の音は既に遠ざかり、施設全体が不自然な静けさに包まれる。
現場の者たちは散り散りに避難を始めた。
ライザも足場を伝って外へ出ようとしたとき、背筋に妙な寒気が走った。
(見られている)
頭上の足場で、誰かの体重が鉄骨をわずかに鳴らした。見上げると——影。
鉄骨の高い位置に、一人の人影があった。
作業員と同じ汚れた服を着ているが、その動きは軽く、足場の揺れにも微動だにしない。
腕に巻かれた黒い革ベルトに、微かに光を脈打つ古代文字の刻印がある。
顔は半分影に隠れ、目だけが鋭く光っていた。
腰には短剣――だが、その者は武器を抜こうとせず、じっとライザを観察している。
一瞬、二人の視線が交差した。
その瞬間、影は口の端をわずかに上げた――笑ったのかもしれない。
だが次の瞬間、視界から消えていた。
まるで煙のように、気配も足音も残さず。
ライザはしばらく足を止めたが、追いかけることはしなかった。
代わりに、胸の奥で妙な確信が芽生えていた。
(あいつは……俺を見ていた)
それが何を意味するのかはわからない。
外はまだ灰色の雨が降り続いていた。
ライザは作業場を後にし、冷たい空気の中を歩き出す。工具箱の留め金に触れた指先が、雨よりも冷たく痺れていた。