第3章:神の軍靴
セフィラ中層、第三階層──聖環ガブリエラ。
白金の都市。天へと伸びる塔の中心に、それはあった。
記録中枢〈マトリア〉の意志を代行する組織──秩序軍〈アグナム〉。
その作戦室にて、一人の少女が立たされていた。
軍服の袖は焼け焦げ、記憶調整装置はすでに外されている。
「報告。対象、逃走」
淡々とそう告げた少女の名は、ティリカ=サイン。
記録兵。かつて戦場で育ち、記憶の大半を削られ、“忠義”のみを植え込まれた存在。
「逃がした……のではないな?」
カスティリオ=ヴァインがゆっくりと立ち上がる。
彼女の手には、クラウの思念反応ログが映された記録端末。
「対象は、自動型レコードドールを撃破。適合者と共鳴し、兵装起動の痕跡」
「共鳴……」
言葉の奥に、カスティリオは怒りとは異なるものを感じていた。
「ティリカ、おまえの“記憶”はどうなっている?」
少女は首を傾げた。
「私は命令に従い、対象の記録を追跡する役割を……」
だがその声に、僅かなノイズが混ざった。
クラウと対面したときの、微かな動揺。あれはなんだったのか。
カスティリオは一度目を閉じると、冷ややかに命じた。
「再調整は不要。次の任務に同行せよ。今回は“記録そのもの”を回収する」
一方その頃──
クラウとナイアは、記録の外縁へと踏み出していた。
セフィラの周縁部に点在する、古い施設と忘れられた集落。
そこには、セフィラ全土のネットワークから切り離された人々が暮らしていた。
「本当に、来たのかい……“記録を拒んだ子”が……」
そこにいたのは、記録の民〈メムノア〉の語り部だった。
灰色のローブに身を包み、両目を包帯で覆った老女。
視力はないが、“記憶の声”を聞き分ける力があるという。
「あなたも……この子も……まだ、自分の“名前”を知らないね」
クラウは問うた。
「名前……? 俺の名前はクラウ=ヴェイルだ」
「それは、“今”の名だよ。魂が持つ、本当の名じゃない。
あなたたちは、記録の連鎖から逸れた魂たち。だからこそ──」
語り部の手が、ナイアの額に触れた。
──共鳴。
その瞬間、ナイアの記憶の扉が、わずかに開いた。
焼けた街。崩れゆく塔。誰かを守ろうと手を伸ばした自分。
でも、届かなかった。何も守れなかった。
そして、眠らされた。
「わたしは……誰も守れなかったのに……」
ナイアが膝をつく。記憶は断片的すぎて、痛みだけが先に溢れる。
クラウがその肩に手を置いた。
「でも、今こうして……守ってくれたじゃないか。俺を」
その言葉に、ナイアは初めて微笑んだ。
その瞬間、ヨルムンが静かに反応し、紋様がふたたび輝きを放つ。
だが、同時に──その輝きは、秩序の目にも届いていた。
──数時間後、集落は包囲される。
空から降り立ったアグナムの部隊。その中心に、ティリカの姿があった。
「記録番号A-019、クラウ=ヴェイル。およびB-011、共鳴者反応。
両者の記録は逸脱確認。直ちに制圧対象とする」
「やるのか……本当に?」
クラウはナイアを背にかばい、右手を握りしめた。
彼女はただ、少しずつ記憶を取り戻していただけなのに。
「……誰にも、踏み込ませない」
ナイアの共鳴が発動する。
ヨルムンが覚醒し、地面から姿を現した。
それに対し、アグナムは「記録抹消兵装」〈シグマ=アストレア〉を投入する。
圧倒的な力。それは共鳴者の存在そのものを「記録から削除する」ための武器。
──機神と記録破壊兵装の激突。
この戦いの中で、クラウとティリカは再び対面する。
記憶の奥に、彼女の顔が残っていた。
彼女の中にも、何かが揺れている。
だが、戦いの最中に答えは出ない。
戦闘の決着がつくことはなかった。
クラウとナイアは、ヨルムンの「転送共鳴機能」によって、次元層を移動する。
記録の層をすり抜け、アグナムの観測網から一時的に姿を消した。
だが──
ティリカの胸には、なぜか涙の感覚だけが残っていた。
「……どうして、私はあの人を知っている?」
秩序の軍靴が迫る中で、
記憶を奪われた者たちの“過去”が、今、目を覚まし始めている。
(第3章・了)
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第3章「神の軍靴」では、神の秩序軍〈アグナム〉の存在が本格的に物語に関わってきました。
クラウとナイアは、記録を逸脱する者として追われる立場になり、
新たに登場した記憶兵ティリカとの関係も、物語の深層に大きく関わっていきます。
今回の戦闘では、機神ヨルムンとアグナムの抹消兵装〈シグマ=アストレア〉が激突しましたが、
それはただの戦いではなく、「記録される者」と「記録を削除する者」というテーマの対立を象徴するものでもありました。
そして、少しずつ揺らぎはじめるティリカの心。
クラウと彼女をつなぐ“過去の記憶”の片鱗が、今後の展開の鍵となります。
次章では、クラウたちの前にカデンツァの思想が現れます。
断罪と解放、そして「前世に抗う者たち」との邂逅へ──。
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次回も、どうぞよろしくお願いいたします。