9話 寂寥のはちみつ漬け
アマレットの中に淡い思いが芽生え始めた頃、それとは裏腹にグランの長期出張が決まった。
「アマレット嬢、突然ですまないが、俺はしばらくの間王都へ行くことになる。数週間で帰ってくる予定だが、何か困ったことがあれば執事のロンガンへ言いつけてくれ」
「そうなんですのね……。わかりましたわ、お気をつけていってらっしゃいませ」
そう言った直後にアマレットは後悔した。いってらっしゃいませとは、まるで家のものみたいではないか。突然グランが居なくなることに動揺して思わず口をついて出てしまった言葉だった。
それからというもの、屋敷の中はどこか物寂しい空気が流れている。使用人達は何くれとなく世話を焼いてくれるし、お菓子作りも相変わらず楽しんではいるのだが、「美味い!」と叫ぶグランがいないだけで何だか今までのような張り合いが出てこない。
いつもよりも妙に隙間風の気になる離れの部屋の中で、アマレットはふと思い立った。そうだ、グランが帰ってきた時のために時間のかかるものを作って待っていよう。
ナッツのはちみつ漬けなんてどうだろう。そうだ、それがいい。そうと決まればナッツとはちみつを沢山仕入れてこなくちゃ。
アマレットはモカに声をかけて買い出しに出ることにした。グランのプレゼントしてくれた空色のデイドレスが仕上がっていたので着て出かける。本当はグランに一番最初に見せたかったが、プレゼントしてもらったもの以外に上質の服は持っていないし、あまりボロボロの格好をして出歩いては侯爵家の外聞も悪い。
そうして久しぶりに着飾ったアマレットは、鏡を見て驚く。ずっと地味で華がないと思っていた亜麻色の髪が、柔らかく艶やかに見えた。なんとなく気恥ずかしいような気持ちになりつつも、これなら侯爵家の恥になることもないだろうと安堵する。
そうして商店街に降りると、侯爵家の使用人として知られている面々の影響か、街の人々が口々に挨拶してくれた。それに対してアマレットも丁寧に挨拶を返す。
今まで狭い厨房の中ぐらいしか居場所がなかったのに、このラポストル領に来てからというものの、アマレットがのびのびと過ごせる場所はどんどんと広がっていった。
そんな、穏やかな道中の昼下がり……。
「まあ、あれが侯爵家の……」
「……これで侯爵様が身を固めて下されば安心……でも、血みどろ侯爵家でしょう? かわいそうだわ」
ふと、噂話をする人々の声が聞こえた。
アマレットの存在が噂になっていることはまだいい。花嫁候補として来たことまでは知られていないまでも、年頃の令嬢が長期間逗留するならそういう勘ぐりをされるのもやむを得ない。
だが、血みどろ侯爵家とは、なんとも穏やかでない話だ。
グランが人を遠ざける理由と関わることだろうか。だが、アマレットにはそれを探るつもりはない。
グランはあんなにも優しくて穏やかな人なのだ。確かに最初は壁を作って接してくるようなところもあったが、焼きたてのお菓子にはしゃぎ、嬉しそうに感謝の言葉を述べ、そしてアマレットが困っている事はないかと何かにつけて尋ねてくる。
そんなグランにどんな事情があれども、アマレットは態度を変えるつもりはなかった。
そうして、少し穏やかならざる話が聞こえて来たりもしたけれど、無事に必要な材料を買い付けてアマレットは屋敷へ戻る。
するとそこには、見覚えのある豪奢な箱馬車が停まっていた。
バクラヴァ伯爵家の馬車だ。