2話 侯爵領にて
ラポストル侯爵のお屋敷に辿り着き、ドアノッカーで訪いを告げると、人の良さそうなメイドの女性が現れた。
「あらあら、遠いところからようこそお越しくださいました。バクラヴァ伯爵令嬢でございますわね。私はメイドのモカですわ。さあさ、こちらへどうぞ」
趣味のいい調度品に囲まれた応接室に通される。
「只今グラン様をお呼びしますね。あの方はとことん人を避けて暮らしているから、お会いいただけるかはわからないのだけど……」
申し訳なさそうにモカは微笑む。噂の通り、どうやら水竜公は一筋縄で行くような人物ではないらしい。
「モカ、流石に陛下のご下命で来訪したご令嬢を蔑ろにするほど非常識ではないぞ、私は」
そこへ、灰髪の長身男性が応接室へ入ってきた。眉間に皺を寄せて、いかにも気難しそうな面持ちだが、アマレットと目が合うとスッと礼をとる。
「ようこそ、ラポストル侯爵領へ」
意外にもその微笑みは穏やかそうで、思っていたよりは話しやすい人物かもしれないとアマレットが礼を返そうとしたその時。
「遠路はるばる旅してきたところ申し訳ないが、私は結婚などするつもりはない。未婚のご令嬢と一つ屋根の下で暮らし、将来の妨げとなるつもりもないので、あなたには離れに住んでいただくことになる。生活に必要なものがあればモカに言いつけてくれ。まあ、ラポストル領はさほど悪いところではないからな、諦めの悪い陛下の気が済むまでゆっくりと暮らしてくれ」
捲し立てるようにそう言うと、グランはさっさと踵を返してしまった。
ぽかんとするアマレットを前に、モカは額を抑えてため息をついた。
「はぁ……。見ての通りあのような方ですので、アマレットお嬢様が接する機会はあまりないとは思いますが、どうか当家を自宅と思ってご自由にお過ごしくださいませ」
「あ、ありがとうございます」
当主の癖が強そうではあるけれど、少なくとも悪い人ではなさそうで、バクラヴァ伯爵家で暮らすよりは遥かにマシだとアマレットは思った。
離れは小ぢんまりとはしているものの、清潔で快適そうだった。寝室のほかに居間もあり、柔らかなソファとローテーブルが置かれている。両親を亡くし叔父が家の当主となった10歳ごろよりずっと屋根裏部屋暮らしがいたについていたアマレットには十分以上に贅沢なしつらえだった。
「何か必要なものはございますか? ドレスなどは既製のデイドレスをいくつかご用意してございます。新しく仕立てるドレスの採寸は後日行いましょうね。それから……」
「ちょ、ちょっと待ってください、そんな、新しく仕立てるだなんて。私はあくまで花嫁候補で実際に婚約を結んだわけでもありませんし、侯爵様は私と結婚するつもりはないのでしょう? それなのに色々用意していただくのは申し訳ないですわ。お恥ずかしながら金銭の手持ちはないので、食事だけ残り物をいただければ……。あ! もちろん掃除や洗濯や調理などの下働きもやります!」
「そんな! 伯爵家のご令嬢に下働きなんてさせられません! お嬢様のご予算はグラン様がきちんとご用意してくださっていますから、どうか気になさらないでくださいませ」
モカが顔を青くして言った。確かに伯爵令嬢が下働きは常識的に考えたらおかしいかもしれない。実家での扱いが悪かったため、感覚がおかしくなっていたようだ。アマレットはモカを困らせてしまったと思い反省した。
ラポストル侯爵家での暮らしが始まった。
「おはようございますお嬢様。身支度のお手伝いに参りました……ってもう着替えてる!?」
「お嬢様!? 食器の片付けは私がやりますので!」
「お嬢様! 雑巾掛けなどやらないでくださいましー!」
初日には伯爵令嬢として相応しい振る舞いをしなければと思ったアマレットだったが、10歳からの丸9年間使用人未満の立場で過ごしてきた後遺症は大きかった。
正直、アマレットは雑用が嫌いではない。というか、身の回りのことを全て使用人にしてもらう生活はどう考えても性に合わなかった。
——暇なのだ。
とんでもなく、暇なのだ!
買い物でも観劇でも自由に行っていいというモカであったが、結婚する予定もない他人のお金で遊び歩くなんて小心者のアマレットには土台無理な話だった。大運河と港を有するラポストル領の観光には心惹かれたが、何も買わずに観光するだけといっても伯爵令嬢が独り歩きできるわけもない。最低でも女性の共《とも》1人と男性の護衛1人をつけなければならず、忙しいメイドのモカを連れ歩くのはあまりに気が引けた。
それに、ラポストル侯爵家には使用人がたった5人しかいないのだ。メイドのモカに、庭師のカシュー。執事のロンガンに、護衛のフリュイとクグロフ。そのたった5人の中から2人を連れ出して出かける事はアマレットには躊躇われた。
——それにしても、昔から勤めている使用人5人しか居ないなんて侯爵様も変わり者よね。
アマレットは自身が伯爵令嬢として非常識な自覚はあるが、水竜公グランも大概非常識だと思った。
グランとは、初日以来顔を合わせていない。徹底的に人を避けているようで、母屋にも入れては貰えていなかった。グラン自身に結婚するつもりがない以上、花嫁候補として悠々自適の生活を送るのも気が引ける。せめて何かの役に立ちたいところだが、肝心のグランがアマレットを避けているため、どうしたら生活の恩返しができるのかわからなかった。
「お嬢様、掃除や洗濯など私がいたしますから、本当にゆっくり過ごされてよろしいんですよ」
モカが心配そうにアマレットを見つめる。どうやらアマレットが現在の立場に居た堪れなさを感じていることを見抜いているようだ
「花嫁候補といっても結婚するわけでもないのにこんなに生活の面倒を見てもらうのは気が引けるわ。でも、そうね。私では上手くできていないかもしれないし、迷惑かしら?」
「そんな、むしろ上手すぎて驚くほどです! 身支度も掃除も洗濯まで、どうしてお嬢様はそれほどお出来になるのですか?」
「それは……。私の両親が亡くなってから叔父がバクラヴァ伯爵家当主となったのだけれど、それからはずっと屋根裏部屋暮らしで使用人のように過ごしていたの。だから掃除も洗濯も料理も得意なのよ」
「なんてこと……」
モカが衝撃を受けている。アマレットは話すべきではなかったかとも思ったが、上手に普通の伯爵令嬢を装う自信もなかったため素直に話したのだ。それでモカから非常識な令嬢と思われても仕方がないと諦めていた。
「お嬢様、私、決めました!」
拳を掲げて突然モカが叫んだ。
「グラン様に結婚する気があろうとなかろうと、ここにお住まいになる以上お嬢様はこのラポストル侯爵邸のお嬢様です。お嬢様には幸せになっていただきます!」
メラメラとモカの背後に気炎が上る。
アマレットは、ぽかんとしたままそれを見ていた。