庭師カシューの追想
15年前の嵐の日以降、まだ9歳の少年だったグランは大層荒れていた。
あの嵐の日、屋敷のバルコニーで嵐を収めようと懸命に操るシブーストを、グランと使用人達は庭でずぶ濡れになりながらただ見つめていた。
徐々に皮膚が鱗に覆われ、瞳孔は縦に裂け紅く輝き、竜の本能に飲み込まれそうになったシブーストは、屋敷の者たちに早く逃げろと言い母屋から追い出したのだ。しかし、グランも使用人たちも、血を吐きながら嵐と戦うシブーストを置き去りにできず、庭に立ち尽くしていた。唯一妻であるエリーゼのみが、バルコニーでシブーストに寄り添っていた。
「エリーゼ、早く俺から逃げろ! 竜の本能が人の生き血を欲しているんだ、このままではお前が犠牲になってしまう!」
叫ぶシブーストに、エリーゼはただ静かに微笑んだ。
「旦那様、愛しいシブースト様。竜の本能が人の生き血を欲しているなら、きっとそれは力を振るうのに必要なことだからですわ。もし私の生き血でこの地の民が嵐から救われるなら、それは侯爵夫人としての本望。そうではなくって?」
凛とした姿で宣言する侯爵夫人に、シブーストは言い返す言葉を持たない。エリーゼの本音は愛しい夫の元に寄り添いたいという思いだったとしても、それではシブーストは納得しないとわかっているのだ。けれど、侯爵家の責務と領民を持ち出されれば、責任感の強いシブーストは反論することが出来なかった。
「エリーゼ、ああ愛しいエリーゼ。頼む、逃げてくれ。ああ、だが力が尽きかけている、このままでは領民が……」
嵐を見上げ、シブーストが嘆く。エリーゼはその理性と本能と愛のせめぎ合いにトドメを刺すべく、自らの唇を噛み切ってシブーストにくちづけた。無理やり流し込まれた血の味に、シブーストの理性が決壊する。
シブーストは、エリーゼの首筋に噛みついた。そうして力を取り戻したシブーストは、見事に嵐を収めるも、そのまま力尽きてエリーゼと共に亡くなったのだ。
嵐の明けたバルコニーには、二人の遺体が抱き合うようにして倒れていた。
そんな悲劇があってからというもの、幼いグランは屋敷の母屋から使用人全てを追い出し、人を寄せ付けなくなった。
「もし俺が水竜の本能に目覚めてしまったら、お前たちが犠牲になってしまう」
そう言って、誰とも顔を合わそうとしなかった。
一人、また一人と使用人達が去っていく中、カシューを含む5人は断固として去ろうとしなかった。グランが幼い頃から見守ってきたメイドのモカ、乳兄弟のロンガン、そして、仲間に裏切られ死にかけていたところをグランに救われた冒険者であり、現在屋敷の警備を担っているフリュイとクグロフ。そして、奥様の愛した庭を守り通すと誓ったカシューは、たとえどんな事があろうと屋敷を去ることはないとグランに宣言した。
水害さえ無ければ、グランが無理に水竜の力を振るう必要はなく、危険もない。
災害時には必ず逃げるようにと言い含めて、グランは使用人達を受け入れた。
幼くとも聡明なグランは、家庭教師だけでなく国王より派遣された執政代官からも厳しい教育を受け、立派な侯爵として見事に成長していった。
しかし、誰とも親しむ事なく孤独に生きるグランを、使用人達は歯がゆい思いでずっと見つめていたのだ。
そんなある日の事、王宮に呼び出されたグランは珍しく苛立たしげに屋敷へ帰ってきた。
「全く、国王陛下は一体なにを考えているのだ。俺に花嫁候補などと」
そう呟くグランにガタリとモカが手に持っていた盆を落とす。
「花嫁候補、でございますか!?」
「ああ、どうやら伯爵家で不遇を囲っている娘を引き受けて欲しいらしい。まあ、帰るあてのない令嬢を無理に追い返すわけにもいかないから、後見人として庇護する形になるだろうな。母屋には上げるつもりはないから離れの管理人にでもなってもらうか」
グランは惨劇の現場である母屋に人を近づけることを殊更避けていた。それはどちらかといえばグランの優しさから来るものだが、何も知らない花嫁候補のご令嬢がそのような扱いを受ければ悲しむのではないだろうか。
そんなカシューの危惧は、良い方向に外れた。
やってきたご令嬢はお菓子作りが大好きな変わり者で、ご令嬢らしからぬことにカシューの元にやってきて庭いじりを手伝うことさえあった。
「カシューこちらの実は食べられるものかしら?」
「ああ、これはワイルドストロベリーですよお嬢様。素朴な果実なので貴族の食卓には上がりませんが、グラン坊っちゃまは結構好んで食べておりますです」
「そうなの、私も食べていいかしら?」
「もちろんでごぜぇます」
お嬢様はそのままワイルドストロベリーの実を摘み取ると、ぱくっと食べた。本当にお貴族様らしからぬ方だ。その穏やかで優しくも、虫にも土汚れにも怯まない豪胆さはどこか亡き奥様を彷彿とさせた。
「カシュー、この薔薇はお菓子作りのために摘んでも良いかしら? ジャムを作ってジャムサンドクッキーしようと思うの!」
「カシュー、このハーブいい香りね! アップルミントっていうのね。摘んで行ってもいいかしら?」
「ねぇカシュー、ワイルドストロベリーでタルトを作ったの!」
お嬢様はそれからも度々この庭へ遊びにこられた。そしていつも嬉しそうな顔で土と戯れるのだ。
その姿をいつも、屋敷の二階にある執務室の窓から見つめている影があった。
グラン坊っちゃまだ。「坊っちゃまはそろそろ勘弁してくれ」などといつも言っているが、こうして見つめているだけとは、まだまだ坊っちゃまだのう、などとカシューは思う。
——さてさて、今日はお嬢様が喜ぶように、ラズベリーの苗でも植えますかな。
そんな風にして、今まで時を止めたように変わらなかったラポストル侯爵邸の庭には、新たな植物が増えていくのであった。
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